65話 密命
夕暮れの「冒険者の憩い」の中、突然の訪問者の登場に、美咲たちの表情が一変した。
背後から聞こえた低い声に、5人は思わず身構えた。美咲の心臓が早鐘を打つ。
振り返ると、そこには黒いローブを身にまとった怪しげな男が立っていた。
その姿は、まるで影そのものが形を取ったかのようだった。美咲は息を呑んだ。
男の佇まいには、ただならぬ雰囲気が漂っている。
(この人...ただの旅人じゃない。暗殺者?スパイ?それとも盗賊?)
美咲の頭の中で、様々な可能性が駆け巡る。
彼女の隣では、涼介がすでに腰の剣に手をかけていた。さくらの膝の上の「るな」も、尻尾を逆立てて警戒している。
重苦しい沈黙が流れる中、大輔が静かに口を開いた。
「なぜ我々の事をご存じで?」
その問いかけは、一見単純なものに聞こえた。
しかし美咲には分かっていた。これは相手の注意を引きつけ、涼介たちが攻撃する隙を作るための策だったのだ。
ダンジョンでの過酷な試練を経て、彼らは驚くほどの戦闘スキルと直感を身につけていた。
男は、彼らの殺気を感じ取ったのか、慌てて両手を上げた。
「お待ちください!」
その声に、大輔たちは一瞬動きを止めた。しかし、涼介だけは構えを崩さず、剣を抜き放とうとする。
「涼くん!」
思わず美咲の口から、昔の呼び方が飛び出した。
その懐かしい響きに、涼介の動きが止まる。美咲は自分の言葉に驚きながらも、内心でほっとした。
男は、やっと安堵の表情を見せ、小声で言った。
「ありがとうございます、助かりました。私はアストラリア王国の諜報員です」
その言葉に、全員が目を見開いた。しかし、さくらの冷静な声がすぐに響いた。
「証拠は?」
男はゆっくりと右手を動かし、指輪を見せた。そこには、間違いなく王家の紋章が刻まれていた。
美咲は息を呑んだ。確かにあれは、王の側近たちが身につけているものだった。
緊張が少し和らいだところで、千夏が明るい声で言った。
「まぁ座ったらどう?みんなも落ち着こうよ」
男は丁寧にお辞儀をし、「それでは」とテーブルに着いた。
涼介が、まだ警戒の色を緩めずに尋ねた。
「それで?なぜ俺たちを探していた?」
男は深く息を吸い、重々しい口調で答えた。
「王都は現在、機能しておりません」
その言葉に、全員が衝撃を受けた。美咲は思わず息を呑む。しかし、それは始まりに過ぎなかった。
「そして...スタンピードの危機も去っていないのです」
美咲は、自分の耳を疑った。想像していたよりもはるかに悪い状況だった。彼女の頭の中で、様々な思いが渦を巻く。
(王都が機能していない?でも、さっきマスターから聞いた話では...)
男は、彼らの動揺を見計らったかのように続けた。
「この危機を乗り越えるためには、皆様には王都に戻らず、更なるレベルアップをしていただきたいと思っています」
「俺たちだけでか?」涼介の声には、疑いの色が濃かった。
「はい」
その一言に、美咲、大輔、千夏、さくらの4人は、どよめきを隠せなかった。
美咲は思わず手を口元に当て、驚きの声を漏らした。
「え...そんな無茶な...」
彼女の目は大きく見開かれ、混乱と不安が入り混じった表情を浮かべていた。
大輔は椅子から半ば立ち上がり、拳を固く握りしめた。
「ちょっと待てよ。俺たちだけって、遥斗はどうすんだよ!」
彼の声には怒りと困惑が滲んでいた。
千夏は両手で頬を覆い、小さく悲鳴を上げた。
「うそ...うそでしょ?冒険者たちは?王国の騎士団は?私たちだけじゃ...」
彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
さくらは珍しく表情を崩し、眉をひそめていた。
「これは...予想外。私たちだけに任せるなんて、王国はそこまで追い詰められているの?」
彼女の声は冷静を装っていたが、わずかに震えていた。
4人の反応は、それぞれに異なっていたが、共通していたのは深い動揺と不安だった。彼らの目は互いを見つめ合い、そこには言葉にできない思いが浮かんでいた。
部屋の空気が一瞬で重く、張り詰めたものになり、誰もが次の言葉を待っているようだった。
しかし、涼介だけは冷静さを保っていた。
「分かった。どうすればいい?」
その言葉に、美咲は驚きを隠せなかった。
(涼介くん...そんなに簡単に...)
男は、安堵の表情を浮かべながら、懐から何かを取り出した。
「これを」
差し出されたのは、エドガー王からの紹介状と、重そうな金貨の入った袋だった。
「これでソフィア共和国かノヴァテラ連邦を訪れていただきたい」
大輔が怒りの感情を抑えながら尋ねた。
「自分達で決めるのか?」
「はい、皆様の判断に委ねたいとの事です」
男の言葉に、美咲は複雑な思いを抱いた。王都の危機。そして、彼らに課せられた重大な任務。その重圧が、彼女の肩に重くのしかかる。
「それでは」
男は立ち上がると、まるで影が溶けるように、音もなく店を出て行った。
残された5人の間に、重苦しい沈黙が流れる。
「みんな...どうする?」
美咲の静かな問いかけに、一瞬の沈黙が訪れた。
「ノヴァテラへ行こう」
その沈黙を破ったのは、涼介の力強い声だった。
その言葉に、全員の視線が一斉に涼介に向けられた。大輔が疑問を投げかける。
「なぜだ?ソフィア共和国の方が近いじゃないか」
涼介は腕を組み、真剣な表情で答えた。
「ノヴァテラ連邦は武器が最も充実していると聞いた。実は以前から一度行ってみたいと思っていたんだ」
その説明に、千夏が目を輝かせて賛同の声を上げる。
「賛成!新しい武器を見てみたいな。それに、涼介くんが行きたいって言うなら、きっといいところだよ!」
しかし、大輔の表情はまだ晴れない。彼は深くため息をつき、心配そうに尋ねた。
「遥斗はどうする?俺たちがいない間、大丈夫なのか?」
その問いに、涼介は自信に満ちた表情で答えた。
「心配ない。俺たちは装備を整えたらすぐにアストラリア王国に戻る。それまでの間だけ、遥斗には我慢してもらおう」
千夏が明るい声で付け加える。
「そうだよ!むしろ私たちがいないほうが目立たなくて安全かもしれないよ」
大輔は腕を組んで少し考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「...わかった。お前らの言う通りかもしれない」
涼介は満足げに微笑み、立ち上がった。
「よし、決まりだな。それじゃあ、準備をして明日出発しよう」
美咲は涼介の表情を見つめていた。彼の眼には、不安や迷いは微塵も感じられず、むしろ希望に満ちていた。
その姿に、美咲は僅かに不安を感じた。
(涼介くん...こんな大変な状況なのに、どうしてそんなに強くいられるの?)
美咲は自分の中に湧き上がる複雑な感情を抑えつつ、静かに頷いた。
さくらは黙ってその様子を見ていたが、最後に小さく呟いた。
「ノヴァテラか...面白くなりそうね」




