509話 天秤に掛けるもの
張り詰めた空気の中、遥斗は涼介の瞳を真っ直ぐに見返していた。
遥斗は信じていた。
涼介はぶっきらぼうで、言葉足らずで、誤解されやすい男だ。
けれど、今、誰よりも真剣に遥斗の話を聞こうとしてくれている。
(……昔から、そうだった)
元の世界にいた頃から、地味で目立たない自分のことを、涼介だけはいつも気にかけてくれていた。
彼が誰よりも正しく、誰よりも優しいことを、遥斗は知っていた。
かつて、遥斗を置いて旅立って行った時もそうだ。
あれは「足手まといだから捨てた」のではない。
「危険な旅に連れて行けない」という、彼なりの最大限の配慮だったことも、当然理解できていた。
でも。
それでも、「役に立たない」と烙印を押された気がして辛かった。
必要とされないのは辛かった。
ただ守られるだけの存在であることが、何よりも惨めだった。
たとえそれが、優しさゆえの決断だったとしても。
(あの時の優しさを否定しておきながら……今はその優しさに縋ろうとしているなんて、皮肉だな)
遥斗は自嘲しつつも、覚悟を決めた。
涼介は、仲間の頼みなら無碍にはしない。
現に、こうして対話のテーブルについてくれているのだから。
涼介が、静かに口を開いた。
「まず、あの樹がお前の母親だという話だ。……計算がおかしい。お前の母親が失踪したのは十数年前だぞ? 500年前の伝説の存在と、時間が噛み合わない」
「それは……時間の流れが違うからだよ。『ウラシマ効果』みたいなものだと思う」
遥斗は、憶測を交えて説明する。
「次元の狭間や、異なる世界間では時間の流れる速度が違う。母さんが転移したあと、僕たちよりずっと速く時間が進んだんだ」
「……なるほど。では、なぜ人間が樹になる? 魔物を生む?」
「進化だよ」
遥斗は即答した。
「この世界の『職業』や『スキル』は、生物としての進化を加速させるシステムに感じるんだ。……普通は『こうなりたい』『こうありたい』という強い意志が、世代を重ねることで形になる。でも、この世界の進化はもっと具体的なんだ。母さんはドラゴン族の秘宝の力を借りて……世界を支えるために、その形を選択したんだ。この世界はそれが可能なんだ。」
世界を守る何かになりたい。
その自己犠牲の精神が、彼女をユグドラシルへと導いたのだ。
「……分かった。次の質問だ」
涼介は淡々と続ける。
「エルミュレイナス……マーリンは、なぜ世界を破壊しようとしている? 狂人の戯言で片づけるには、計画が緻密すぎる」
「……心当たりはあるよ。彼はずっと『神を顕現させる』と言っていた。……世界が消滅することと、神がこの地に降りたつことはイコールなんだと思う。実際、ヴァルハラ帝国皇帝も神託を受けていた。僕達の思う神様と同一かは不明だけど『神』はいる」
「……『神』などいるはずがない」
「うん。でも、彼らにとっての『神』はいるし、少なくとも、それを信じている」
涼介は小さく頷き、そして核心を突く質問を投げかけた。
「次だ。……それでは、なぜユグドラシルは、スタンピードを起こす? お前の母は、なぜ人を殺す?」
空気が凍り付く。
それは、避けては通れない質問。
「……ユグドラシルは、世界を回復させようとしている。でも、人はレベルアップを続け、強力なスキルや魔法を使い続けている。……それが世界を削り取っているにも関わらず」
遥斗は苦しげに答える。
「どこかで抑制しなければ、世界の終わりが加速してしまう。特にそれを主導していたのがマーリンであり、アストラリアだった。だから……母さんは、世界を守るために、人を減らす必要があったんだと思う」
「ならば」
涼介の声が鋭くなる。
「人を殺したこと自体は、否定しないのだな?」
「……そうだ、ね。でも!」
遥斗は必死に食い下がる。
「人が職業を捨て、過度な力の使用を止めれば、世界は救えるはずなんだ! 共存できるはずなんだよ!」
「職業を捨てる、だと?」
涼介は呆れたように鼻を鳴らした。
「そんなことをすれば、人はどうなる? この世界にはモンスターが溢れているんだぞ。スキルや魔法なしで、どうやって身を守る? 人族は犠牲になれと言うのか?」
「……方法は……ある!」
遥斗は、一つの可能性を提示した。
「『イド』のエネルギーを使うんだ。母さんがやっていることを研究し、実用化できれば……魔法を使わずに、モンスターに対抗する力も、生活するエネルギーも得られる」
「……で?それは、いつ完成する?」
「えっ?」
「いつだ、と聞いている。明日か? 一年後か? 百年後か?」
遥斗は言葉に詰まった。
まだアイデアの段階だ。
実用化には長い年月と、世界中の協力が必要になる。
「……いつかは、分からない。でも、みんなで協力すれば道は拓けるはずだ!」
「……ふっ」
涼介は、深く、重いため息をついた。
それは失望の色を帯びていた。
「悪いな、遥斗。……俺の正義は、そこにはない」
「……え?」
遥斗は耳を疑った。
「どういう、意味……?」
「俺が『闇』を討伐すると決めたのは、この世界を救うためじゃない」
涼介は、冷徹な事実を告げた。
「あの『闇』は拡大を続けている。いずれこの世界を飲み込み……そして次元を超えて、俺達のいた世界にまで侵食する可能性がある。そう聞いた。だから戦った」
「なっ……」
「俺にとって、この異世界がどうなろうと知ったことじゃないんだよ」
その言葉に、大輔も、美咲も、さくらも息を呑んだ。
勇者の動機。
それは慈愛ではなく、徹底的な「防衛本能」だった。
自分の世界を守る。
それが涼介の正義。
「つまり、だ。ユグドラシルを倒して闇が終われば、それでよし。……逆に、この世界が『暁』で消滅し、闇ごと消え去ってくれれば、俺たちの世界への脅威もなくなる。それでもよし」
涼介は両手を広げた。
「どちらに転んでも、俺にとっては『利』しかない。……不確定な未来のために、確実な脅威を放置するリスクは冒せない」
遥斗は唖然とした。
確かに、涼介の言う通りだ。
こちらの世界の責任は、この世界の住人が負うべきで、異世界人である自分たちが命を懸けて守る義理はない。
涼介の思考の天秤は、すでに傾いていたのだ。
論理的には完璧。
だが、この世界で多くの人と出会い、大事なものができた遥斗には、到底承服できなかった。
「……それには、大問題があるよ」
遥斗は震える声で反論した。
「この世界が無くなったら……僕たちは元の世界に戻れないじゃないか!」
「……」
「僕達をこの世界に召喚したのはマーリンだ。ゲートを開けるのは彼だけだった。……でも、彼はもう死んでしまったんだよ!?」
世界を消滅させてしまえば、帰還の手掛かりすら失われる。
自分たちも虚無の空間に放り出され、死ぬだけだ。
それこそ、「利」などと言っていられないはず。
しかし。
「ふ、くくく……」
涼介は、肩を震わせて笑った。




