465話 三十分
神人ミラージュリヴァイアス。
その姿を、言葉で表現するのは困難だった。
人型。
しかし、人間ではない。
全身は青白い金属光沢を放つ肌に覆われている。
まるで精錬された銀のような、冷たく硬質な輝き。
生物の温もりは微塵も感じられない。
頭部は竜。
鋭角的な顎のラインに、小さな角が生えている。
口のような亀裂は、僅かに開いたまま動かない。
瞳は蒼。
深海のような、冷徹な光を湛えている。
その眼差しには、生命への慈悲など存在しなかった。
筋肉質な体躯。
一つ一つの筋繊維が、まるで兵器のように研ぎ澄まされている。
鱗の名残が胸部や腕に浮かび、幾何学的な模様を描いていた。
それは——
神獣と人間、そして異世界人の力を融合させた存在。
もはや生物ではない。
超越者。
神人と呼ぶ以外に、形容する術はなかった。
***
殺気。
それは形を成し、空間を支配していた。
ヘスティアとマリエラは、動かない。
いや、動けなかった。
足が竦む。
手が震える。
呼吸が浅くなる。
二人は数百年を生きてきた。
数多の戦場を駆け抜け、幾多の死線を越えてきた。
しかし——
こんなことは、初めてだった。
「はぁ……はぁ……」
ヘスティアの呼吸が荒くなる。
体が震えている。
「こんな……こんな存在……」
マリエラも同じように震えていた。
アマテラス。
ツクヨミ。
神の名を冠する者たちですら、これほどの殺気は放たなかった。
この神人は、それらを遥かに超越している。
畏怖。
するにはあまりにも邪悪。
純粋過ぎるほどの。
本能が叫んでいた。
逃げろ、と。
その時、グランディスが動いた。
全身から紫電が迸る。
雷光が空気を劈く。
「うおおおお!!」
咆哮と共に、拳を振るう。
雷を纏った一撃が、神人の顔面に直撃した。
衝撃が広がる。
大気が震える。
しかし——
神人は、微動だにしなかった。
まるで子どもが殴りかかったかのように。
ミスリル……いや、それよりも遥かに硬い。
蒼い瞳が、グランディスを見下ろす。
前蹴り。
それは、単純な一撃だった。
軽く放ったソレの威力は絶大。
「ガハッ!」
グランディスの体が、弾け飛んだ。
砲弾のように空を切り裂き、遥か彼方へと吹き飛ばされる。
ドガァァァン!
建物に激突。
壁が崩れ、瓦礫が雪崩のように降り注ぐ。
グランディスは、その下敷きになった。
「グラーーーン!!」
マリエラが叫ぶ。
息子の名を。
心配でたまらない。
今すぐ無事を確かめたい。
しかし——
体が動かなかった。
奥歯がカチカチと鳴る。
制御できない震え。
神人が、こちらに歩み寄ってくる。
一歩。
また一歩と。
ゆっくり、確実に。
ヘスティアもマリエラも、その場にしゃがみ込んだ。
もはや逃げることすらできない。
これは生物が感じる根源的な恐怖だった。
魂を鷲掴みにされ、身動き一つ取れない。
数百年の戦闘経験など、何の意味も成さない。
死が、目の前に迫る。
その時——
光が走った。
極大の光線が、神人を直撃する。
閃光が全てを包み込む。
それはルナフォックスのセレスティアル・ムーンライトだった。
月光のごとき神獣が咆哮を上げる。
るなが眼前まで迫っていた。
そして、その後ろから、さくらが走ってくる。
「ミラ!」
彼女の声が響いた。
さくらは、異常に気づいていた。
信じたくなかった。
ミラージュリヴァイアスの気配が消えたことに。
完全に。
跡形もなく。
それは、ありえない。
先ほどまでは、確かに感じる事が出来たのだから。
何かが、起こっている。
不吉な予感がさくらを突き動かした。
そして神人を見た瞬間全てを理解する。
「そんな……」
もはや取り返しがつかない。
そう、悟った。
あれは——
神獣でもない。
異世界人でもない。
ミラの魂が捕らわれたわけでもない。
新たな何か。
それが、そこにいた。
るなが、唸り声を上げる。
グルルル……
神獣の本気の威嚇。
しかし、神人は意に介さない。
蒼い瞳が、るなを一瞥するだけ。
たったそれだけで、るなの体が硬直した。
恐怖。
モンスターのるなですら、恐怖を感じている。
神人が——喋り出した。
「……お前たちの勝ちだ」
その声は、人のようでありながら全く違う。
まるで魔力を込めているかのよう。
声を聞くだけで、身が竦む。
離れた位置にいるエレナですら、体が震えた。
「私は……じきに消滅するだろう」
敗北宣言。
誰もが、耳を疑った。
勝った?
この状況で?
しかし——
次の瞬間、希望が絶望に変わった。
「残りし時は三十分程……それを過ぎれば、この体は維持できぬ」
「ゆえに……それまで殺し尽くす。全てをな」
三十分。
三十分耐えれば、終わる。
しかし——
今の状態では、それは悠久と変わらない。
ここにいる者など、数十秒もあれば全員塵と化すだろう。
大輔ですら声が出ない。
恐怖で唾を飲み込む事すらかなわない。
これは異常だ。
あまりにも。
これほどの恐怖を感じるなど異常過ぎる。
さくらも、るなも、動けない。
全員が——絶望の淵に立たされていた。
その時、声が聞こえた。
「うーん、三十分か。立て込んでるからね。ちょっと待てないかな?」
軽い口調。
誰もが、その方向を見た。
遥斗だった。
空間が殺気で埋め尽くされる中、平然と近づいてくる。
「遥斗くん!」
エレナの顔が明るくなった。
遥斗が来てくれたのだ。
希望。
それは、確かな希望だった。
しかし——
ヘスティアとマリエラは、さらに背筋が凍った。
違う。
今まで見てきた遥斗とは、まるで違う。
その姿は言葉では言い表せない異形。
形となった不吉。
漆黒の瞳。
それは、深淵そのもの。
感情が読めない。
何を考えているのか、分からない。
ただ——
恐ろしい。
神人とは別種の、恐怖。
神人が、空に向かって咆哮した。
「グオオオオオオオ!!」
それだけで、空気が振動する。
意識が途切れそうになる。
しかし、遥斗だけはポーカーフェイスのまま。
漆黒の瞳が敵を捉え、微動だにしない。
瞬間、神人が——消えた。
いや、超高速移動だ。
すでに遥斗の背後に立っていた。
拳が振り下ろされる。
頭を砕く一撃。
誰も視認出来ない一撃。
だが、拳は勝手に軌道を変えた。
自分の顔面へと。
グシャ!
「!?」
神人が僅かに後ずさる。
遥斗が事前に張り巡らせていた糸。
マリオネイターの黒糸が、拳を操ったのだ。
そして寄りかかるようにしてクリスタルシールドを押し付けた。
「シールドバッシュ!」
神人の体が弾き飛ばされた。
地面を転がり、数メートル先で停止する。
遥斗が、静かに呟く。
「君も時間がないだろうし……早めに決着を付けようか」
その声には——
何の感情も込められていなかった。




