354話 竜王(後)
バハムスの話す内容は高度で概念的なものが多く、加奈以外には理解が困難だった。
『イド』という存在について語られても、シューデュディやセレシュルムには抽象的すぎる。
それはオルミレイアス王にとってもだ。
ましてや8歳のハルカには退屈な大人の話でしかない。
そんな中、ハルカの好奇心が疼いた。
いつものように、目の前にいる竜王の心を覗いてみようと精神感応を試みる。
無邪気な興味から、何気なく意識を向けた——その瞬間。
「小娘」
バハムスの低い声が謁見の間に響いた。
恐ろしいほど静かな声調だが、その奥に底知れぬ怒りが潜んでいる。
「我の心を覗くとは……万死に値するぞ」
竜王にとっては軽い威嚇のつもりだったが、あまりの迫力にハルカの顔が引きつる。
威圧感が津波のように押し寄せ、8歳の少女には耐え難い恐怖だった。
「うええええ……ん」
ハルカが泣き出してしまった。
「申し訳ありません!」
シューデュディが慌てて前に出る。
「私の娘が失礼を!どうか平にご容赦ください!」
ルナークの王も、竜王の前では一人のエルフでしかない。
「今日8歳になったばかりで……まだ礼儀というものを知らないのです!どうか、どうかお赦しを!」
娘を守ろうとする父親の姿に、バハムスの表情が微かに変化した。
「そうか……お前の娘か」
興味深そうに、そして少し楽しそうに笑う。
ドラゴンの笑みは、人やエルフには理解し難い感情を含んでいる。
「ところで——」
バハムスがゆっくりと口を開く。
「その娘の誕生の儀に呼ばれたわけではあるまい?」
威圧的に問いかける。
本人にその意図はないのだが、絶対王者の前では誰もが身が竦む。
シューデュディが冷や汗をかきながら答える。
「は、はい……あっ、もっもちろんでございます……」
セレシュルムがハルカを守るように抱きしめ、加奈も緊張で身を硬くしている。
謁見の間全体が張り詰めた空気に包まれたその時——
「コホン」
オルミレイアス王が咳払いをして、場の空気を変えた。
「すまぬな、友よ。それでは本題に入らせてもらおう」
何か重大な発表があることを、全員が直感した。
オルミレイアス王は深刻な表情で口を開く。
「我が命は……もうじき尽きるであろう」
衝撃が一同を襲った。
「なんと!父上!」
シューデュディが叫ぶ。
王として、そして息子として、信じられない、信じたくない言葉だった。
「寿命か?」
バハムスが端的に問う。
ドラゴン族、不死ともいえる存在から見れば、エルフの寿命とて短い。
「いや、そうではないのだ」
オルミレイアスは首を振る。
「ある時点から先の未来が視えなくなった。おそらく、これは我の死を意味する。病気や怪我、自然死の類ではあるまい」
予言の王として名高いオルミレイアスの能力を知る者にとって、その言葉の重みは計り知れない。
「そんな……お父様……」
セレシュルムが青ざめて呟く。
愛する父の死という現実を受け入れることができない。
加奈も事態の深刻さに言葉を失っていた。
この世界に来てから、オルミレイアス王は頼れる存在だった。
命の恩人。
もはや父とも呼べる存在。
その王が亡くなるということは、加奈にとっても耐えがたい。
「未来はやはり揺らいでいる」
王がため息交じりに続ける。
「これまでになく大きく、強く。そして転換期がまもなく来る」
「このままではエルフは全滅し、程なく世界は消滅に至るだろう」
絶望的な未来予想に、一同の表情が暗くなる。
しかし、バハムスは冷静だった。
オルミレイアス王の予知能力を誰よりも信頼している竜王だからこそ、その言葉の真意を理解している。
「それは起こりうる未来だが、回避できる絶望でもあるはずだ。違うか?」
「そうだ」
王が頷く。
「その為に、貴君に助力を請いたい」
「我はもういないかもしれないが……シューデュディとセレシュルムの力になって欲しい」
そう言いながら、エルフの君主が深々と頭を下げた。
その姿に一同が息を呑む。
王が頭を下げる。
その重大さを、誰もが理解していた。
それほどまでに重大な危機が迫っているのだ。
「そう簡単に死なれては困る」
バハムスが苦笑いを浮かべる。
「お前の力は、この世にとって無くてはならぬものだ」
二人が長年の友であることが、改めて実感される。
種族を超えた友情が、そこには確かに存在していた。
「父上……一体何が起きるというのですか」
シューデュディはいきなりの展開に混乱していた。
「お父様がいなくなったら……私たちはどうすれば良いのですか?」
セレシュルムも動揺を隠せない。
「残念だが具体的には何も分からぬ。時はそう多く残されていない。しかし希望と絶望は同じ道。恐れるな。怯むな。諦めるな。未来はお前たちの選択の結果でしかないのだ」
王が厳しい現実を告げる。
その重い雰囲気を感じ取り、ハルカも大人しくしている。
いつもの元気な様子はなく、何か重大なことが起きていることを、子供なりに理解しているようだ。
加奈だけは冷静に、状況を整理していた。
この会談の真の目的が、オルミレイアス王の死後への備えであることを。
世界の危機と王の死。
無関係であるはずがない。
加奈が意を決して前に出た。
「バハムス・ドラクロニアス陛下!」
震え声ながらも、しっかりとした口調で呼びかける。
「どうか……どうかお力をお貸しください。お願いいたします。この世界が消滅すれば次は異世界。いえ、数多の世界が危機を迎えてしまいます。それだけは防がねばなりません!」
異世界人である加奈も、深々と頭を下げる。
その必死な姿を見て、ハルカも母の真似をした。
「お願いします!」
小さく頭を下げる8歳の少女。
その純粋で必死な姿に、バハムスの表情が和らいだ。
恐ろしい竜王の顔に、初めて本当の笑みが浮かぶ。
「フッ……面白い」
バハムスがニヤリと笑った。
「エルフ王の孫娘の祝いと思えば、悪くはない贈り物だ」
茶目っ気を見せる竜王に、一同が安堵する。
「協力が欲しい時にはいつでも呼べ。何を置いても駆けつけてやろう!ただし一度きりだ、心せよ!」
力強い約束の言葉を残し、バハムスは威風堂々と謁見の間を去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、加奈は心の中で安堵していた。
世界最強の存在からの協力を得られた。
これで、どんな困難が待ち受けていても——
希望の光が僅かに見えた。




