351話 誕生日
ダンジョン最下層の研究施設に、弾むような声が響いた。
「お母様ぁ!お母様ぁ!面白い物ぉ見つけたのー」
黒髪の美しいエルフの少女が、両手を広げて加奈に向かって一直線に走ってくる。
「ハルカ、走っちゃ駄目よ!何度言ったら分かるの!」
加奈が慌てて注意するが、時すで遅し。
少女が研究器材の台座に足を取られて、豪快に転んでしまった。
「痛いーーー!えーーーん!」
大げさに泣き声を上げるハルカ。
加奈が「もう!」と言いながらも慌てて駆け寄る。
「大丈夫?どこか怪我してない?」
少女の体を隅々まで確認する。
膝が擦りむけて血が滲んでいた。
「痛いよぉーーーお母様ぁーーー」
「まったく、この子ったら……いくら言っても聞かないんだから」
加奈が苦笑する。
「はいはい、ケガの治療が先ですわよ」
セレシュルムが優雅な動作で近づき、優しく手を差し伸べた。
「おいで、ハルカ。治してあげますわ」
「セレおばさま!」
ハルカが嬉しそうに手を伸ばす。
「ヒール」
緑色の柔らかな光が傷を包み込むと、擦り傷がみるみる治っていく。
魔法の効果で、ハルカの膝は元通りの綺麗な肌に戻った。
「わぁあああ!すごぉーい!魔法ってぇ不思議!叔母様って魔法のぉ天才ね!」
ハルカが大喜びで飛び跳ねる。
その天真爛漫な姿に、セレシュルムの顔がほころぶ。
「あらあら、この子ったら。お世辞が上手になりましたのね」
「お世辞ぁじゃないもん!本当ぉだもん!」
むくれるハルカが可愛らしい。
しかし加奈は真剣な表情で娘を見つめた。
「ハルカ、いい加減にしなさい。目が見えないんだから、もっと慎重に歩かないと危険よ」
母親らしい厳しさを込めて叱る。
「ここは研究施設なの。一歩間違えば爆発したり、毒ガスが出たり、怪我じゃ済まないかもしれないのよ」
「はーい。でもぉお母様はぁ心配しすぎだわ」
8歳とは思えない大人びた口調で返事をするハルカ。
「あなたがそそっかしいからでしょう!」
加奈が頭を抱える。
「親に似たせいですわ」
セレシュルムがくすくす笑いながら呟く。
「誰のせいだって?」
「さぁ?どなたでしょうねえ」
とぼけるセレシュルムに、加奈が頬を膨らませた。
このハーフエルフの少女はハルカ。
加奈が8年前に産んだ娘だ。
ハーフエルフには何らかの異常を持つことが多く、ハルカは生まれつき目が見えない。
しかし、その代わりに他者にはない思議な力を持っていた。
政治的な複雑さから、ハルカは加奈の私生児として登録され、このダンジョン内で密かに育てられている。
王族の血を引く子供であることは、絶対的な秘密として扱われていた。
ダンジョンの研究員や技術者たちは皆ハルカを「お嬢」と呼んで可愛がっており、8年間この地下で育った彼女にとって、ここが世界の全てだった。
8年の間にダンジョンも大きく様変わりしている。
上層階は「モンスター生態研究所」として本格的に整備され、珍しい魔物から危険な古代種まで、様々な種類のモンスターが管理された環境で飼育されていた。
最下層のオカート研究施設は今や「最先端技術研究所」と呼ぶに相応しい姿に発展し、魔法と科学を融合させた革新的な技術が次々と生み出されている。
オカートの実戦配備により、魔法を使わずともモンスターと対等に戦える装備が完成。
ルナーク王国の軍事力は飛躍的に向上していた。
しかし、世界情勢は依然として予断を許さない状況が続いている。
***
加奈の心境は複雑だった。
もう8年も経つのに、元の世界に帰る目処が全く立たない。
最近では帰還の研究をする時間さえ確保できない状況だ。
ハルカの存在が大きな理由の一つだが、それだけではない。
『闇』の拡大が止まらず、その侵食速度はむしろ加速している。
オルミレイアス王の予言も日に日に悪化の一途を辿っており、このままでは確実に異世界にまで闇が溢れ出してしまう。
専門家の計算では、あと30年もすれば次元の壁を突破するだろうと予測されていた。
もはや闇を何とかしないと、遥斗のいる世界も危険にさらされてしまう。
ふと加奈の脳裏に、懐かしい息子の顔が浮かんだ。
(今頃は中学生になっただろうか。背も伸びて、声変わりもしているかもしれない)
心の中で呟きながら、4歳だった遥斗が12歳になった姿を想像してみる。
「それがぁお兄様でしょ?すっごくぅかっこいい!お母様にそっくりね!」
ハルカが突然割り込んできた。
「こら、また勝手に人の心を覗いたわね!何度注意すれば分かるの!」
加奈が慌てて娘を叱る。
「だってぇ、お母様が『遥斗』って名前を何度も心の中で呼ぶからぁ、気になっちゃうの」
ハルカが無邪気に言い訳する。
「プライバシーというものがあるでしょう!」
「プライバシーってぇ何?美味しいの?」
首を傾げるハルカに、加奈が額に手を当てる。
「この子ったら……」
セレシュルムが笑いながら見守っている。
その時、廊下の向こうからニコニコ笑顔のシューデュディがやってきた。
両手に大きな包みを抱えている。
「お父様ぁ!」
ハルカが気配を察知し、大喜びで走り出す。
「ハルカ!だから走っちゃ駄目だって!」
加奈の制止も聞かず、ハルカがシューデュディに飛び込んだ。
「こらこら危ないぞ、ハルカ」
シューデュディが包みを落とさないよう器用に娘を受け止める。
そして娘を抱き上げながら言った。
「お誕生日おめでとう、ハルカ。8歳になったね」
「お父様ぁ来てくれたのね!嬉しい!」
ハルカが首に抱きつく。
「プレゼントもあるぞ。何だと思う?」
「えー、なんだろうぅ?当ててもぉいい?」
「もちろんだ」
「んー……とね、えー……と」
真剣に考え込む姿が微笑ましい。
普段は政治的理由で会えない分、こうした特別な日は思い切り甘やかしたくなる。
「本!」
「残念」
「お人形!」
「違うな」
「お洋服!」
「それも違う」
「むー、何だろう」
この薄暗いダンジョンの最下層での密やかな誕生日会。
外の世界では、ルナークの王と軍事の要である異世界人、王族の血を引くハーフエルフという、極めて複雑な立場の三人。
しかし今だけは、普通の親子として過ごせる貴重な時間だった。
世界の危機が迫り、それぞれに重い責任を背負っている彼らにとって、この場所こそが唯一の安らぎ。
「答えは……これだ!」
シューデュディが包みを開けると、美しい竪琴が現れた。
「わあ!楽器!」
「目が見えなくても音楽なら楽しめるだろう?」
「ありがとう、お父様ぁ!大切にする!」
娘の喜ぶ姿に、シューデュディの表情が緩む。
加奈とセレシュルムも、その温かい光景を見つめていた。
ハルカの無邪気な笑い声が、静かなダンジョンに響いていく。
世界の命運がかかった重責を背負いながらも、この小さな家族の絆だけは確かに存在していた。




