340話 カガクは科学
あの日から加奈は、エルフの国「ソラリオン」に王客として迎え入れられることになった。
宮殿内に豪華な専用の部屋を与えられ、その身に余る待遇に最初は困惑した。
美しいエルフの装飾品と快適な家具が揃った部屋は、まるで高級ホテルのスイートルームのようだ。
毎日3食の食事が運ばれ、身の回りの世話もしてもらえる。
侍女たちは丁寧で、加奈の些細な要望にも応えてくれた。
最初はこの状況に戸惑っていたが、次第に好都合だと思えるようになる。
生活のことに煩わされず、時間をすべて、元の世界に帰るための研究に使えるのだから。
シューデュディが定期的に様子を見に来てくれるのも嬉しかった。
「何か不便はないかい?」
そう気遣ってくれる優しさに、彼の顔を見るだけで心が弾むようになる。
金色の瞳に優しい笑顔。
王子としての気品を持ちながらも、親しみやすい人柄が魅力的だった。
しかし、少しずつこの世界での生活に慣れ始めたのが実感できてしまい、加奈は少し落ち込んだ。
(私、この世界を満喫している……?)
遥斗の笑顔を思い出し、胸が痛くなる。
早く帰らなければならないのに、この心地よい生活に安住しそうになる自分が怖かった。
***
エルフの知識人たちから、この世界の基本について学ぶ日々が続いた。
まずは種族について。
人族、エルフ族、ドワーフ族、ドラゴン族が存在する。
それ以外はモンスターに分類される。
ただし、ドラゴンはモンスターではない。
「レベルという概念があるのです」
白い髭を蓄えたエルフの学者が説明する。
「……経験を積むことで成長していく仕組みです。いくら鍛錬を積もうとも、レベルを上げなければステータスは向上しません」
続けて、ステータスについて教えられる。
力量、敏捷性、HP、MPなどの数値化された能力。
スキルは特殊な技能や魔法のような超常能力で、スキルを習得しないと基礎的なことしかできない。
「モンスターは、この世界に生息する危険な生物です。通常の動物とは全く異なる」
学者が続ける。
「モンスターはモンスター以外を襲う習性があります。倒すと経験値が得られ、レベルアップできます。素材をドロップし、その素材は加工してアイテム、武器防具になります」
「加奈様は人族に分類されます。人族には他種族にはない職業、スキルが与えられるのです」
(まさにRPGゲームのような世界ね……)
詳細な説明を聞いて、加奈は納得した。
学生の頃よくやっていたゲームと、システムがそっくりだった。
***
鑑定が出来る者を引き連れ、エルフの知識人たちが今日も加奈の元を訪れる。
水晶玉に手を置くと、文字が浮かびあがった。
「職業は『神子』、レベルは1……」
鑑定士が息を呑んだ。
「神子は非常に稀な職業です!神の力の代行者。この世界を統べる者とされています!」
エルフたちから驚嘆の声が上がる。
「エルフ族はある程度のスキルは自在に得られますし、基本能力が高く、寿命も長いです。しかし職業を持つことは出来ず、レアスキルは得られない。貴方様は幸運ですぞ!」
続けてスキルについて説明される。
「『ゴッド・クリエイト』は創造系の最上級能力です」
「錬金術よりも遥かに強力で、素材なしで何でも生み出せるとされています」
加奈の期待が高まった。
何でも生み出せるなら、元の世界に帰る道具も……。
「しかし、この能力には重大な制限があります」
鑑定士が真剣な表情で続ける。
「使用者がイメージできないものは創れないのです」
早速、元の世界へ帰る道具を創ろうと試してみる。
しかし、何度集中しても何も生み出せない。
異世界転移の原理が理解できないため、イメージが不可能だった。
代わりに、創造したパワードスーツで試してみる。
背中に推進装置を付け加え、空を飛ぶことができた。
ジェット推進の原理は理解しているので、問題なく機能する。
しかし反重力装置は創れない。
原理が分からないためだ。
「物理法則の限界が私の限界なんでしょうか?」
加奈が質問すると、エルフの学者が首を捻った。
「物理法則とは?」
逆に問い返される。
驚いたことに、この世界では物理という概念自体が存在しなかった。
火の燃焼について尋ねると、学者は当然のように答える。
「炎の精霊が力を発揮しているのです」
「魔法は精霊にMPを捧げることで、現象を行使するのですよ」
この世界と自分の世界では物理現象が違うのかもしれない、と一抹の不安がよぎる。
加奈がゴッド・クリエイトで集光効率の高いガラスを作った。
レンズの形をしており、太陽光を利用して紙に焦点を当てる。
あっという間に紙が燃え上がった。
普通に物理法則が働いていることを実証した瞬間だった。
「これは!今何が起きたのですか?」
エルフの学者が驚愕する。
「光は真っ直ぐ進む性質があります。でも、密度の違う物質を通ると曲がるんです」
加奈が丁寧にレンズの原理を説明する。
「ガラスの形を工夫することで、光を一点に集めることができます。集まった光は熱を生み、紙を燃やすんです」
ガラスはあってもレンズはこの世界に存在しなかった。
魔法があるために技術進化が歪だと理解する。
魔法で火を起こせるなら、わざわざレンズを作る必要がない。
便利な魔法が、逆に知識の発展を阻害していたのだ。
学者が大喜びで尋ねる。
「これは何という術なのですかな?」
加奈がしばらく考え込んだ。
候補として「物理学」「化学」「光学」「熱力学」、色々と頭に浮かぶ。
しかし、それは専門分野の名前だ。
最終的に包括的な言葉を選ぶ。
「科学です」
「カガク!」
学者が大興奮で復唱する。
この瞬間、異世界にカガクという概念が生まれた。
「お願い申し上げる!もっと我らに知識の享受を!」
学者が目を輝かせる。
加奈も少し嬉しくなった。
自分の知識が、この世界で役に立つのかもしれない。
元の世界に帰るための手がかりは見つからないが、少なくともここで意味のあることができそうだった。
そこへシューテュディとィと、女性エルフが入ってきた。
女性エルフは目を見張るほど可愛らしい容姿で、銀色の髪に銀の瞳。
まるで人形のような美しさだった。
しかもシューデュディと、大変親し気な様子で並んで立っている。
その光景を見て、なぜか加奈の胸に痛みが走った。
(あれ?なんで……私?)
自分でも理解できない感情に戸惑う。
女性エルフが加奈を見回して言った。
「へー、これが異世界人?ふーん?」
物珍しそうにじろじろ見回す。
「お兄様が熱心に語るからどんなのかと思ったけど……普通ね。他の人族との違いが分からないわ」
失礼な発言に、シューテュディが怒った。
「セレシュルム!佐倉殿に失礼なことを言うな!王客だぞ!」
厳しく窘める王子。
セレシュルムと呼ばれた少女エルフは、ふくれっ面で頬を膨らませた。
シューデュディが加奈に向かって頭を下げる。
「不躾な妹が失礼した」
妹だと聞いて、加奈がなぜかほっとした。
それが何故なのかは、加奈自身にも分からない。
ただ、胸の奥の痛みが嘘のように消えていく。
「いえいえ、お気になさらず。本当の事ですから」
加奈が微笑む。
セレシュルムは王子の妹で、後にツクヨミと呼ばれることになる少女だった。
この時の加奈には、もちろんそんなことは知る由もない。
ただ、シューテュディへの自分の気持ちに、薄々気づき始めていた。
(まさか……ね……)
心の奥で、新しい感情が芽生え始めている。
元の世界に帰りたい気持ちは変わらない。
息子の遥斗に会いたい思いも消えない。
しかし、この世界での生活が、確実に加奈の心を変え始めていた。




