織田九郎「ここは俺に任せてお前らは坂本へ行け」森左衛門「おいこら止めろ馬鹿」青地駿河守「……チェックメイト」「「お前しゃべれたのか?!」」
「2万だとぉ!!!」
岐阜城本丸の自室でその報告を聞いた林佐渡守(秀貞)は、思わず我が耳を疑った。
「それは確かなのか!」
「間違いありません!淡海(琵琶湖)の手の者、それも信頼出来る筋から複数の確認を取っています!率いるは当主の左衛門佐(義景)自身!!」
息を切らせた近習が、流れる汗を拭う間もなく続ける。
「現在、朝倉勢は淡海の西岸側を南下中、入洛が目的と思われます。またこれは未確認ですが、叡山の僧兵に動員が掛けられたとも」
この状況で比叡山延暦寺が幕府軍=織田家に味方するために挙兵したと考えるほど、林佐渡守は楽観論者ではない。最悪の事態を想定した老人の背中に冷たい汗が流れた。
「叡山についてはすぐに確認を取れ!最優先だ。坂本を抑えられると、南近江から京への兵站が断たれるぞ……浅井は!?」
先の合戦の傷が癒えない現状では動員は難しいだろうとする佐渡守の希望的観測は、すぐに否定された。
「こちらも当主の浅井備前が自ら兵を率いて出陣した模様です」
「小谷を監視させていた兵からも、同じ報告が届いております」
「浅井の総数は?」
「5千から6千。途中合流すると思われる豪族や国人も含めると、浅井・朝倉の軍勢は3万になるかと」
「ちっ!朝倉め、腐っても大国……いや、待て」
とにかく当主不在の状況では、筆頭家老たる自分が何らかの対応をとらねばならない。林佐渡守は苛立たしげに立ち上がると、畿内を中心とした地図を広げさせた。
幕府軍と織田家の主要戦力は三好三人衆を討伐するため摂津に出陣中。北の守りたる叡山が朝倉と通じれば、京までの道に軍事的障害は存在しない。
交通の要所たる坂本などを抑えられてしまえば、幕府軍の中核たる織田家の軍は戦わぬまま自壊してしまう可能性がある。まさに職業兵たる織田の欠点だ。
それを防ぐためには直ぐにでも南近江の各所に配置した織田家の城に連絡して、坂本を……いや、、この場合は六角の残党の動きも警戒せねばならない。坂本の死守に成功しても、他の拠点が落城しては意味がない。京の守りもおろそかには出来ぬ。では岐阜の後詰を動かすか?
「駄目だ駄目だ!!」
林佐渡はその考えを自分自身で強く否定した。
この状況で岐阜の兵を動かせば、甲斐の信玄坊主に足元を見られる可能性がある。前面動員が困難であれば、美濃の国人をいくつか引き抜いて……いや、それでも武田領たる信濃との国境を手薄にしては……
……ん?
「おい待て、なにかおかしくないか?」
「おかしいとは?」
すでに甲冑で身を固めた息子の新次郎が首を傾げるが、佐渡守は構わず地図を見据えたまま自らの考えに没頭した。
当主たる朝倉左衛門佐率いる2万の軍勢……確かに朝倉家だけなら先の野村合戦(姉川の戦い)による損害はそれほどでもないだろう。しかし大国越前であってもそれほどまでの大規模な動員がすぐさま可能なのだろうか?
……いや、この違和感の正体はそれではない。
……そもそも、何故この時期に朝倉の当主が動いたのだ?
まさか先の野村合戦(姉川の戦い)は陽動だったとでもいうのか?だからいち早く兵を引いたのか?いや、まさか……しかし六角残党の動きといい、先の朝倉勢の南下は浅井備前や六角と共謀していたと考えたほうが自然である。
ではいつから?
いつから朝倉と浅井は連絡を取っていた?
……いや、そうではない。何か重要な点を見落としている。
この違和感は何なのだ?三人衆の上陸と攝津における軍事行動は朝倉の南下と連携しているのか?むしろそう考えたほうが自然だ。では何が不自然だと感じるのだ?私は何に引っかかっている?
摂津の三好は1万、浅井が5千で、朝倉が2万……2万、2万か……
ん?2万?
「誰かある!!!」
地図を睨んでいた林佐渡守の顔面が突如蒼白となり、続いて悲鳴のような声を上げた。
「ち、父上?どうなされました」
「清洲と小木江城に命じ、伊勢の長島願証寺をすぐさま監視させよ!必要なら動員の許可も与えてかまわん!」
「佐渡殿!今の状況で本願寺を刺激するのは……」
「夕庵翁、事態は既に動いておるのだ!小牧山の織田五郎三郎(信広)殿にも連絡を取れ!!尾張国内、いや美濃から近江にかけての本願寺派寺院、それと山門派(叡山系)の天台宗寺院を監視させよ!!最優先すべきは京から岐阜、そして尾張までの街道の確保だ!これを何としてでも、うっぐぐ……」
「父上?!」
心の臓を抑えて倒れかけた佐渡の体を、新次郎と武井夕庵が慌てて支える。その横では佐渡守の命をうけた奉行衆や近臣らが、文書を起草するために慌てて駆け出していった。
そして父親が語る最悪の予想に、今度は新次郎の血の気が引いた。
「本願寺と朝倉、そして叡山は組んでいる、いや、最初から本願寺は……ちがう!そうではない!!朝倉左衛門佐は最初から本願寺と組んでいたのだ!」
「この謀の首謀者は朝倉だ!!」
*
『朝倉家主導の足利・織田包囲網』-この構想がいつから朝倉義景の脳裏にあったのかは定かではない。
足利義昭を「飼い殺し」にすることに失敗した時か、織田上総介からの上洛戦への誘いを断った時か、朝倉と関係の深い六角が織田の上洛を阻止することに失敗した時か、14代将軍の死と内紛により三好義継政権があっさりと崩壊した時か。それとも浅井備前守が謀反したと聞いた時か。
可能性いくつかあるが、それを確かめる術はない。
ただ本圀寺の変を見て、三好三人衆の実力が予想以上なのと、新政権の軍事の責任者たる織田弾正大弼が在京を避け、京と岐阜の「二頭体制」を続ける現政権に付け入る隙を見たのは事実だろう。越前と若狭を除いた山城の周辺諸国が次々と幕府に服していくなか、自分達だけが太平楽でいられると考えるほど朝倉は甘い家ではない。
……半年前まではその朝倉の中核にいた親子には、その家風というものについては十分すぎるほどに理解していたはずであった。
いや、理解していた「つもり」でしかなかったのだ。
「たしかに織田家の動員の素早さや、弾正大弼の決断力は見事である。しかし京と岐阜の物理的な距離はいかんともしがたい」
「距離を利用して政権内部の不和を促していたと?」
「今のところは大樹と織田弾正大弼との利害が一致しておるからな。離反はせぬだろう……今はな」
『今』という部分を強調する朝倉伊冊に、息子である松林院鷹瑳は疲れきった表情で応じた。
鷹瑳には、半年ほど前までは敦賀郡司として大国朝倉の南の守りの要であったという雰囲気はまるで感じられない。放っておけば絶食を選んで自死しかねない様子に「我が屋敷の中においては老衰を除けば、戦死と病死以外の死は認めない」が信念の屋敷の主たる斯波武衛は、自ら人選して監視させ三食を無理やり食べさせているほどである。
「一乗谷の御屋形様は、最初からこの絵を描かれていたのでしょうか?」
「どうであろうな。今更確かめる術もないしの。意外と行き当たりばったりなのやもしれぬ。浅井備前の謀反により、降伏せずとも状況を打開できると考えられただけなのか……それでも長年の宿敵である本願寺との同盟が一朝一夕になったとは思えぬ。少なくとも今年4月の朝倉攻め以前から着手していたのであろう」
少なくともわれらが越前にいた時には、そのような話はなかったし聞かされてもいなかったと伊冊は寂しげに笑い、鷹瑳はただ黙して応じた。
伊冊の導き出した解答は、敦賀郡司の家は朝倉の中枢の意思決定から外されていたことを認めるに等しいものだ。
何よりも親子にとっては認めたくはない事実であったが、朝倉義景は九頭竜川の戦いに象徴される朝倉家と加賀一向一揆の因縁の間柄を、朝倉宗滴の後継者たる敦賀郡司の家を潰すことで政治的に解消してみせた。
そうであるとするならば、例え金ヶ崎城落城の責任追及がなくとも本願寺との同盟を選択していた段階で、何れ理由をつけて潰されていただろう。
元敦賀郡司一族の政治亡命を認めたのも、粛清に使う時間よりも南下政策に取り組むためだったのかもしれない。そして若狭の統制強化の名目で敦賀に朝倉の当主がいても、誰も不思議には思わない状況を作り出した。
1年以上も上洛要請を無視して優柔不断さを天下に示していた「あの」朝倉家当主が、まさか南下政策のために敦賀に留まっているとは誰も思わなかっただろう……当事者であるはずの自分達も含めて。
「優しい御屋形様か」
伊冊は自らの読みの甘さを自分自身で嘲笑った。
それは優しさなどではなかった。朝倉宗滴の養子はもはや朝倉には必要ないという三行半だったのだ。
それにも気づかず、大野郡司に恨みをぶつけていた自分が情けない。
ひょっとすると長男の席次争いの一件も、最初から義景は事態収拾に取り組むつもりなどなかったのではないか。何か問題を起こせば、それを理由にして敦賀郡司の家を潰そうと考えていたとしたら。
景垙はその考えを察したからこそ、何も言わずに黙って自害することを選んだのではないか?
お家のためにも。そして残された敦賀郡司の家のためにも。
「……何も分かっていなかったのですね。我々は。そして兄上だけが全てを理解していた」
鷹瑳がより焦燥の色を濃くした顔で呟く。
若狭国人を統制し、国境の守護者としての役割を果たしていたと自負していたのが、主家にとってはただの邪魔者でしかなかったのだ。
まして朝倉家全体のためには、むしろ当主の権威を確立するためには政治的にそれが正しいと、正しいとわかってしまえるからこそ、親子はいたたまれなかった。自分達が朝倉の為を思い、必死に働けば働くほど、その存在が朝倉の御家のためにならないと判断されたのだ。
朝倉宗滴の後継者たる自負と責任は、最初から求められていなかったのだ。
「たしかに優しいな。御屋形様は。そしてどこまでも正しい。まさに宗滴の義父が評価していたように、朝倉の当主たるに相応しい」
「だがな」と言葉を区切ると、伊冊は手にした茶碗を握りつぶした。
「だからこそ、受け入れられん」
*
(思えば遠くへ来たものだ)
森三左衛門可成は、縁側に腰掛けて煙草をふかしながら、独り静かに考えにふけっていた。
美濃の国人に生まれ、土岐氏滅亡後に織田弾正忠家に仕えた彼は、清洲騒動では織田大和守の首をあげ、先の野村合戦(姉川の戦い)では我が物顔で織田の陣中を突き進んできた磯野丹波守の前に立ちふさがるなど、織田家屈指の猛将として知られている。今や外様でありながら、織田家の評定にも参加するほどの重臣に上り詰めた。
しかし今のように煙草をふかしてぼんやりと外を眺めている姿からは、戦場で見せる豪胆さは微塵も感じられない。彼の妻も、そして息子達もそんな普段の父が好きで仕方がなかった。
今の彼は近江宇佐山城代であり、彼を愛し、彼が愛する家族は遠く離れた金山の地にあった。
三左衛門は、基本的に強いものと大きなものが好きという10歳ほど年下の主君である信長とは、やけに馬があった。主と臣下という関係ではあったが、それ以上に親近感を感じてもいた。
その関係を友と呼ぶにはいささか気恥ずかしいが、そう言われて嫌な気はしないのも事実である。
(もし自分が御屋形様と出会ってなければ、いかなる人生を送っていたのであろう?)
三左衛門はふと、自らがふかした煙草の煙が立ち上るのを見ながら、そのような埓もないことを考えた。
しかしすぐさま自分で首を振り、その考えを打ち消した。
仮に織田家に仕えていなかったとしても、自分はいつか何らかの形で織田家に関わっていただろう。なんの根拠もないが、三左衛門にはそう思えた。
そう思えることがとても幸せなことだとも感じていた。
「殿、こちらでしたか」
「兵庫か」
各務元正が、直垂をつけたまま足早に駆け寄ってくる。
主が煙管で煙草をふかしているのを見ると、兵庫はその顔をしかめた。
「殿、何度も申し上げておりますが、煙草なるものは火事の原因となるばかりでなく、体にも良くありません。武士たるもの、常に体を厭うことを……」
「ああ、わかったわかった。それ以上言うでない」
三左衛門は五月蝿そうに手を振り、そしてぽつりと呟いた。
「……1千対3万か」
主の言葉に、各務兵庫も黙した。
宇佐山から近江坂本まではさほど距離が離れていない……いや、宇佐山以外の城は距離が離れすぎていて時間的にも距離的にも間に合わないのだ。
すでに坂本からは叡山が兵糧や弾薬を集めているとの知らせも届いている。淡海を南下中の朝倉・浅井の連合軍に、叡山も加わるとなれば総数は3万を超えるだろう。
織田信治殿が宇佐山へ援軍に来ると知らせがあったが、間に合うか?
いや、間に合っても精々が2千か3千。30倍が10倍の差へと縮まるだけである。
それでも篭城して戦うという選択肢は、宇佐山城代たる彼にはなかった。
ここで篭城を選択すれば、朝倉・浅井は坂本に抑えの兵を残して京へと向かうだろう。そうすれば現政権は、主君たる織田弾正大弼は戦わずして死ぬことになる。主君の悪運がいかに強かろうとも前方に三好、後方に朝倉・浅井と戦うのは無理だ。
そして二正面作戦を避けるためには摂津方面の戦線を切り上げ、京へと帰還して防衛戦を立て直すしか方法がない。
そのためには美濃から南近江、そして京への補給路をたとえ一瞬であったとしても断たせるわけには行かない。また美濃に領地を持つものとして、林佐渡守の義理の弟でもある彼は、甲斐武田の脅威について義兄の口から嫌というほど聞かされてきた。
つまり美濃からの後詰も見込めない。
30倍か10倍の軍勢を相手に、交通の要所-これという障害物のない平地で戦わなければならない。
期限は主が京へと帰還し、体制を立て直すまで。
(よし、死ぬか)
三左衛門は自分自身でも驚く程に、その死をあっさりと許容してしまった。
死にたがりというわけでもないし、嫡男が金ヶ崎で戦死したことで世を厭って自棄になっているのでもない。確かに息子の死は悲しかったが、そもそも武士たるもの、いつどこであろうと死ぬる覚悟をすべきなのだ。しかし無為な死だけは受け入れがたいし、部下にも命じることは難しい。
自分が死ねば、子供も妻も悲しむだろう。
そこまで考えて三左衛門は、はてと首をかしげた。
では何故、今の自分はすんなりと受け入れられる心境となったのか?
『恥ずかしいのだがな、俺はお前を友だと思っている』
顔を真っ赤にして気恥かしげに語る三郎信長の顔が、三左衛門の脳裏に唐突に浮かんだ。
それを聞いていた武衛屋形にからかわれ、さらに顔を赤くして怒鳴り散らしていたのも、もう20年近く前のことになる。
あの頃はまだ清洲に皆がいて、その気になればすぐに顔を合わせることができた。
今は東海から畿内にまで織田の勢力が広がり、昔馴染みともそう簡単には会うことすらできなくなった。
ふと、空を見上げてみる。
キリシタンの宣教師いわく、この大地は丸いらしい。どこに居ても繋がることができるひとつの世界を創り上げたひとつの神……とかなんとか語っていたことを思い出す。
説教の内容よりも、どこにいてもつながっているという言葉だけがやけに印象に残っている。
珍しく雲一つない青い空は、確かに摂津まで続いているはずだ。
家族のためでもなくお家のためでもなく、ただ友のためか。
なるほど、悪くはない
「殿?顔が赤いですぞ」
「気にするな」
煙管をひっくり返し、火種を地面に落として草履を履いた足で踏み潰す。主の所作に兵庫が顔をしかめるが、知ったことではない。かつてはこれ以上の悪行を10歳年下の主君と繰り返しやらかしてきたのだ。
それに渋い顔をしていた林佐渡守が今は自分の義兄というのも、面白い話ではないか。
「さて、いくかな」
顔を上げた森三左衛門は『鬼』となっていた
*
「殿、ここは撤退するべきです」
天王寺に後退した織田家の本陣で、柴田権六勝家は主である織田弾正大弼に軍事上の進言をしている。いや、進言というような生易しい雰囲気ではなかった。現に信長は今にも鯉口を切らんばかりの怒気を漂わせている。
しかし勝家はあえてそれに気がつかないか、無視するかのように振る舞い、言葉を続けた。
「このまま摂津に滞在しても、戦況の変化は望めませぬ。我らは数こそ上回りますが、石山攻めを目的とした本格的な攻城戦の用意はありません。確かに徴用するなりして用意は出来なくはないでしょう。しかしこのまま滞在が長引けば朝倉家が再度南下してくる恐れもあります」
血走った目で自分を睨む主君の目から視線をそらさず、勝家は続けた。
「三好三人衆、そして浅井・朝倉。どちらかだけなら確実に勝てます。しかし二正面作戦となると、例え勝利したとしても、こちらの損害が大きくなります。甲斐に付け入る隙を与えることにもなりかねません」
政治、とくに家中における政局や主導権争いは得意とは言いがたい勝家は、軍事面における自らの役割と立場を明確化することで生き残ってきた。
すなわち軍事上の懸念材料は隠すことなく率直に意見する、そして一度命じられた役割は何があろうと、どのような言い訳もせずに必ず実行してきた。率直に意見具申するのも、どうせ命じられるなら自らの見解や懸念を表明したほうが気持ちよく戦えるからである。
勝家は摂津戦線における「損切り」を主君に進言していた。
9月12日深夜に打ち鳴らされた鐘は、本願寺の四国三好家への加勢を知らせるものであった。
石山御坊は福島まで一里ほどの距離にあり、開戦前に幕府と織田家から使者を送り一言申し添えてあった。すなわち逆賊退治に協力すれば所領を安堵するという内容である。そして四国三好家の野田・福島入りから今に至るまで、本願寺はかつての盟友たる三人衆の要請を黙殺。厳正中立を決め込んでいた。
それゆえ幕府も織田家も本願寺がまさか三好方で参戦するとは思いもよらなかったのだ。
実際には本願寺顕如は9月の初頭に、近江の門徒に『信長の上洛で迷惑しており、無理難題に耐えて我慢していたが限界なので立ち上がれ』(意訳)といった内容の激文を飛ばしている。
足利の大樹でも織田家でもなく、信長個人を名指ししているところが異例とも言えるが、今はそれは語らない。
ともかくこれにより全国各地の本願寺派の寺院は、にわかに反信長の姿勢を鮮明にした。各地の寺院は寺内町を抱えており、突如として敵の要塞が織田家の領内に発生したようなものである。
言うまでもなく本願寺派の寺院や門徒は畿内を中心に、山陽道や北陸道の諸国、そして東海にいたるまで広く分散している。全国規模の組織を持つ教団の反信長宣言は、全国に、なにより現在の政権に大きな衝撃を与えるのだが、それはまだ少しだけ先の話だ。
- にわかに西風が吹いて西海より高塩水が噴き上がり、淀川逆に流れたり - 『細川両家記』 -
どうも本願寺の参戦と時を同じくして、9月13日は大阪湾の大潮の時期であったらしい。地元である本願寺はそれを認識していた可能性もある。
ともかく元から海抜が低い土地とはいえ、本願寺方の野田・福島のみならず、幕府軍の本陣に至るまで水没したというのだから、よほど酷かったのだろう。これに加えて幕府軍(織田家)は、堤防を決壊させて本願寺の進軍を阻もうとしたようであるが、この調子では決壊したのか自壊したのかわかったものではない。
四国三好方は本願寺の加勢で士気が鰻上りだ。水に濡れようと足元が泥濘んでいようとお構いなしに、生殺与奪権を奪われてただ死を待つばかりだった今までの鬱憤を晴らすかの如く反撃に出た。
高台にあり火薬庫が無事であった本願寺の鉄砲衆の擁護、そしてなんと顕如自ら鎧兜に身を包んで前線に出て指揮したというのだから、士気が下がる余地などなかった。
そして幕府軍には指揮が上がる理由など、どこにもなかった。
残暑はとうに過ぎ去り既に秋の気配色濃い旧暦の9月。高潮による浸水被害と決壊した堤防から溢れた水で足元は泥濘み、自らも濡れた。しかし拭くものなどどこにもない。頼みの綱たる大小の鉄砲、火薬に玉薬も然りである。食料も、燃料たる薪ですらすべからく水没した。着替えも寝所も何もかもだ。
これでは数がいくら多かろうとも、地元を知り尽くした本願寺の加勢する四国三好に対する好材料とはならなかった。
「撤退しかありません」
「……撤退してどうなるというのだ。いや、撤退したらどうなると思っているのだ?」
勝家があえて無視していた政局に与える影響を理由に、信長は拒絶の意向を匂わせた。
上洛戦以来勝っている、いや勝ち続けてきたからこそ、岐阜に滞在しながら幕政に対して影響力を保てたのだ。
野村合戦(姉川の戦い)で織田家の軍事力の質に疑問符がついた今、明らかに勢力として弱小な三好三人衆相手に敗退したとあっては、織田家の幕政に対する影響力は地に落ちる。
「三人衆も本願寺も目先のご馳走を見逃すほど愚かではあるまい。だからこそ打ち破らねばならぬ」
「殿。このままでは京どころか、逃げるところすらなくなるのですぞ!南近江で六角残党がひしめいている状況で、再度浅井と朝倉が出てくればいかなる状況になります?」
「岐阜には佐渡の爺がいる!あれは物事の優先順位は間違えぬ男だ!尾張の三郎五郎(信広)も、小木江の信興も一向一揆如きには遅れは取らん。兵站を維持するための兵力なら残してある!」
「本願寺が決起したのですぞ!近江の門徒が六角と組めば、いや北伊勢の長島から津島や清洲を突かれでもしたらどう対処なされるというのです?」
勝家と信長の言い合いを中断させたのは、岐阜の林佐渡守からの急使と、野府城主として京の留守を事実上任せていた、信長の実弟である織田九郎(信治)からの急報であった。
- 朝倉左衛門佐(義景)率いる2万の軍勢が敦賀から移動。浅井備前の5千の兵が合流し、淡海(琵琶湖)西岸を南下中。尾張の本願寺派寺院に不審な動きあり -
- 朝倉・浅井より先んじて坂本をおさえるために宇佐山城代の森三左衛門と合流する予定。直ちに京に戻られたし -
信治の使者は14日に京を発ったという。
つまり今まさにこの時間、信治と合流した宇佐山城代が自軍の何十倍にもなる朝倉・浅井の軍勢とと戦っていることを意味していた。
それを理解した、理解出来てしまったがゆえの主君の押し殺したような悲痛な叫び声を、勝家は生涯忘れることはなかった。
「三左衛門っ…!!!」
結局、幕府軍と織田弾正大弼が京への撤兵を正式に決断したのは、これより1週間ほども先のことであった。
殿を務めたのは摂津三守護の1人である和田伊賀守、そして柴田権六である。
両者は追撃する四国三好方を何度となく撃退した。
*
撤退の最中、足利義昭が信長に何かを語りかけたという話が伝えられている。しかし『信長公記』を始め、どの軍記にもそのような会話は残されていない。
共通するのは従軍していたはずの当代の足利大樹の反応というものがまるで伝えられていないという点である。
ただ『信長公記』の『第一次石山合戦』には次のような記録があるという(加筆修正の可能性もある)。
- 足利の大樹は弾正大弼様を労われた -
将軍の労いが意味するところはなんなのか。現在でも議論の対象となっている。
*
織田九郎(信治)は槍を振るいながら、嬉々とした表情で叫んだ。
「こいつはいい!右を向いても左を見ても、前も後ろも敵ばかりだ!撃てば当たるぞ!」
「まったくですな!どんな下手くそであろうとも矢を撃てばあたり、石を投げればぶつかるというもの……邪魔じゃどけえぃ!!!」
その歓喜に満ちた時の表情は、やはり実兄たる信長のそれとよく似ていると森三左衛門は思った。その間にも休まずに槍を振るい、敵将を落馬させている。
こうも敵が多いと刺している手間すら惜しい。一度槍を振るうと、その倍する槍と刀が向かってくるのをまた槍で振り払う。
信治も三左衛門も針鼠のごとく矢が突き刺さっているが、何ら戦闘には支障をきたしていないかのように見えた。
鐙を踏んで人馬一体となり駆ける織田九郎を、森三左衛門が援護しながら追う。
「高名欲しくば、これほどまでにふさわしい戦場もあるまい、どけ殺すぞ爺!!!」
「九郎殿、もう殺してますよ!……兵庫!左が崩れかけている、貴様が出向いて立て直して付いて来い!残りは肥田の指示に従い、右の朝倉勢をつっきれ!……殺すぞ下郎、我らが御屋形様の弟様に手を出すな!!……いいか、この距離なら鉄砲も弓矢も同士討ちをおそれて使えぬ!恐れず進め!!……ブッ殺すぞ貴様ら、どけやこらぁああ!!!」
嬉々として先陣を駆ける織田信治に引きずられるように突き進む野府城の将兵。槍を振るいながら、敵に罵声を浴びせつつ指揮をふるう森三左衛門は、500の手勢を手足のように扱い、数に勝る浅井・朝倉を翻弄した。
「………」
同じく援軍に駆けつけた青地駿河守(茂綱)は、水を飲む手間すら惜しいと口の中に水を含ませた手拭をつっこみ、黙々と刀を振るう。
家臣達は沈黙する主の所作を見て、その意図を言われずとも察し、そして主と同様に暴れまくった。
9月16日。まさに摂津で信長が慟哭の悲鳴をあげていた頃、朝倉・浅井の連合軍はついに坂本に到着しようとしていた。
宇佐山城代の森三左衛門は、援軍に駆けつけた織田信治と地元の国人である青地茂綱と合議の上、数的劣勢を覚悟の上で、坂本を先に占領した上での決戦に臨んだ。
一刻でも多く主の帰還のための時間を稼ぐ。
ただその戦略目的を達成するために、2千の軍勢は3万の連合軍に果敢に攻めかかった。
*
「織田が弱兵と誰が言ったのか」
朝倉左衛門佐(義景)は坂本より一里ほど北の本陣で呟いた。
織田と朝倉が直接的に戦火を交えたのは、これまでほとんどない。先の三田村合戦(姉川の戦い)では三河の者としか戦っておらず、途中まで浅井備前に一方的に蹂躙されていたのを見ていただけだ。
敦賀郡司は無能ではなかった。少なくとも勢いや数だけでなんとかなるほど、宗滴の後継たるあの家は甘くはないからだ。何より織田が数だけの軍勢ではないことは、目の前の光景が証明している。
「しかし勢いばかりで、後に続くものがいませぬ」
年寄筆頭の前波左衛門五郎が冷めた声で指摘する。
確かにその通りだ。六角親子を動かし、南近江の各地で蜂起させる手はずはすでに整っている。美濃や尾張からの援兵を望めない以上、浅井・朝倉の戦略的な優位性は疑う余地がない。
何より決死の兵と戦うこと無用な損害を出すことは、この状況を作り出した朝倉左衛門佐の美意識にも反していた。
「一度兵を引かせよ。備前守にもだ。叡山に横から攻めさせれば、さほど被害も出まいて」
*
9月19日になると、朝倉の呼びかけに応じた比叡山延暦寺が坂本に進出。その動きは明らかに織田を標的としたものであった。
北より迫る3万の軍勢を必死に食い止めんとしていた森三左衛門・織田信治・青地茂綱であったが、流石に西からの僧兵に対処するだけの力は残されて
「俺は尾張の大戯けのダチだぞ、舐めるな!!!」
「俺はその弟だぞこらあぁ!!!!」
「……………」
残っていた。
決死の3将率いる死兵となった織田家は僧兵を蹴散らし、浅井の騎馬武者を馬から引きずり下ろし、朝倉の旗指物を何度も踏みにじった。
しかし数に劣る彼らは、自らが倒した敵兵の数以上に織田木瓜の旗指物を踏みにじられ、馬から引き摺り下ろされ、そして蹴散らされた。
「九郎殿!」
「っち!浅井備前め。さすがに上手い」
すでに敵のとも自分のものともわかぬ程に血にまみれた森三左衛門の焦った声に、腹に刺さった槍を抜かずに、柄だけを切り落としてそのまま戦い続けていた織田信治が舌打ちをした。
浅井備前は正面で織田家と戦いながら、少しずつ前線から兵を抜き出し、東側に兵を回り込ませる用意をしていたらしい。これでは軍勢は三方から挟み撃ちされることになる。
「九郎殿、貴方は」
「逃げろなどと抜かしたら、まず貴様から殺すぞ」
「…………………」
「家来を見捨てて京へと帰った織田弾正大弼にはすぎたる武士よ……いかにも惜しいが、いたしかたあるまい」
これで投了だ。
そう確信した朝倉左衛門佐はさらに兵を押し出そうとした。
「伝令伝令!援軍、援軍でござる!!敵方、織田方に後詰が!!!」
まさにその時、鳥居兵庫が本陣にあわてて駆け込んできた。
「援軍、馬鹿な?!」
普段は冷静な前波が叫んだが、義景は直ちに何かの見間違いであろうと判断した。
京の防衛のためにはこれ以上兵を動かせるわけがないし、尾張や美濃からの後詰が間に合うわけもない。摂津からの帰還には織田の早足でも最低あと4日は必要だ。
近隣の南近江の織田方の城には六角を貼り付けてあるし、伊勢方面からという可能性もなくはないが、これを長島門徒が見過ごすわけがない。
義景が客観的な事実を指摘して「ありえない」と静かに宣言すると、一門衆や重臣はそろって安堵の表情を浮かべた。
決断が遅いとされる当代の屋形ではあるが、彼がその怜悧な頭脳で何度も推敲と修正を繰り返すことによって出された判断に、今まで間違いなどなかった。それは今までの朝倉氏の躍進が全てを物語っていたし、何より堂々と「ありえない」と指摘する義景には天下人の風格すらあった。
確かに冷静に考えれ見れば、援軍などありえるはずもない。客観的に考えてみても『織田』にこれ以上の兵がいるわけがないのだ。
しかし鳥居兵庫だけは、それを受け入れなかった。
「後詰の兵は4千、いや5千!」
「指物は?まさか永楽銭の馬印でもみえたか」とすでに虚報であると信じきっている大野郡司が揶揄するように言うが、鳥居兵庫はそれに構わずに続けた。
「六つ星に梅鉢、あれは大和の筒井です!!!」
「ああん?!!筒井?ここは近江の坂本だぞ?!」
大野郡司の声が一段と高くなる。これは完全な見間違いであろう。松永霜台に追われてどこにいるかすらわからない大和の筒井が、今更どうして近江に現れるというのか。
陣幕の中は呆れを通り越して怒りすら漂い始めたのにも関わらず、鳥居兵庫の「ありえない」報告は尚も繰り返された。
「大和ではなく京からです!筒井に、伊丹、あれはなんだったか……そうだ、彼奴だ!緑の下地に、白字の丸に二両引き!!」
その「あまりにも見覚えと聞き覚えのある」家紋に、朝倉の将たちは驚くよりも前にあっけにとられた。
「あれは武衛です!斯波武衛、間違いありません!!!」
「………は?」
森可成「かがみーん」
各務元正「その呼び方はやめろ!!」




