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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
永禄13年(1570年) - 元亀元年(1570年)12月
20/53

三好日向守「こちら東成郡石山御坊前、野田城・福島城」岩成友通「二人でも三人衆、坊主丸儲けの巻」




 5人いるのに四天王とか、6人いるのに5人組とか、どう数えても20人以上いるのに十二神将等々。


 まぁ、よくある話である。


 足りない場合は格好がつかないが、それ以上の有資格者がいる場合には、これほどまでに優秀な人材がいるんだぞ!と強調する場合に使われることが多い。「実は四天王ではないがこんな人材がいたんだ!」といった具合である。


 ○○四天王と切りがいい方が色々と商売にしやすいという下世話な理由もあるのかもしれない。


 さて、三好三人衆である。


 彼らは当時から三好三人衆と呼ばれていたらしい。三好を頭につけずとも単に「三人衆」とだけ呼ばれる場合もあったが、三人衆といえば大抵彼らのことである。たしかにそれだけの存在感はあった。


 三好日向守(長逸ながやす)、三好みよし宗渭そうい、そして岩成いわなり友通ともみち


 前の2人は三好姓からも分かる通り三好一族なのだが、少し色合いが異なる。例えば5人の戦隊モノで、全員が赤の熱血漢や青の冷静沈着なタイプでは、話が作れないようなもので(むしろ内ゲバ展開しか思いつかない)それぞれ色に合わせた特色というものがある。


 時代を少しだけ遡る。


 細川京兆家のお家騒動に勝利した細川ほそかわ晴元はるもとは、守護代出身でありながら四国や畿内で着実に勢力を伸ばしていた三好みよし長慶ながよしとの権力闘争に敗北。その政治的な基盤ごと奪われる結果となった。それ以降、管領細川家は三好の傀儡となる。


 この三好政権を率いる-その後のと区別するために長慶政権とする-守護代出身の三好長慶は当然ながら管領にも、その他の幕府の重職にも就任できる家柄などではなかった。


 そこで彼は、特に家柄は決められておらず権限もない名誉職として利用されていた相伴衆(無任所の国務大臣)に就任。幕閣の一員として、傀儡の管領と傀儡の将軍を差し置いて幕府を牛耳った。


 現代にたとえるなら首相を辞任に追い込み、首相代理のもとで無任所の閣僚が全権を振るっているようなもの。滅茶苦茶といえば滅茶苦茶なのだが、一応は体裁を整えるだけの何かが残っているともいえる。


 つまり長慶政権とは細川晴元政権の、晴元居抜き政権である。


 前政権の中でも晴元派の木沢長政などは粛清されている。彼らに変わって政権内部で台頭したのが、三好三人衆であった。


 旧晴元政権からそのまま残った三好宗渭-彼が細川政権からの官僚を取りまとめ、細川時代から続く堺とのパイプ役となった。


 三好長慶の弟はそれぞれ著名であるが、分家したり別家を相続しているので親族衆の代表としては相応しくない。彼らに代わって三好長慶の弟達以外の親族衆をまとめたのが三好日向守。


 そして三好家臣の中でも特に畿内の代表格だったのが岩成友道である。


 同じ畿内の三好家臣団でも、松永霜台は長慶の右筆(秘書官)出身で、長慶個人の近臣という色合いが強い。


 長慶の死後、三好宗家を継いだのは甥の義継(当時は義重)である。


 これを三人衆と、旧長慶近臣を代表する松永霜台が両輪として支え、13代将軍暗殺まではそれなり(?)に、この義継政権は機能していた。


 しかし年若い当主を三人衆が侮り、これに反発する当主とそれを支える松永親子との間で軍事衝突に至るなど、14代将軍を支えるべき三好家の中でお家騒動が勃発した。


 三好の発祥の地ともいえる四国の勢力は三人衆に味方し、宗家の当主に絶縁状を突きつける逆転現象が生じた。これは三好家がこれから畿内の勢力として生き残るか、四国に損切りして戻るかという路線対立でもあった。


 ともあれ担ぎ出された14代将軍はいい面の皮である。


 だがそれ以上に、かつて細川晴元の居抜き政権で天下を取った三好が、それと似た構図でお家騒動となり、政権から転落していくさまは何と例えてよいものかわからない。


 因果応報というには喜劇的に過ぎるし、諸行無常というにはあまりにも散り際が汚すぎた。


 足利義栄の死去と足利義昭上洛により、三好義継政権は崩壊した。


 三好宗家の義継と、大和の松永親子は新政権に帰順。三人衆とそれを支持した四国三好家は潜在的な反政府勢力となった。そして彼らの多くは四国へと逃げた。



「四国を叩かねば、どうにもならんのではないか?」


 二条城で将軍出陣式が行われる直前、将軍足利義昭からの直接の下問に、織田弾正大弼(信長)は「まあ、たしかにそうですが」と口を濁した。


 種子島が爆発的に普及しつつあり、戦の形態が日々進化していく中では、将軍の大鎧はいかにも古めかしいものであった。しかしその古めかしいものを大樹が身につけるといかにも様になっていると、信長は妙な感心をしていた(将軍は将軍で、信長の鎧が派手であるなと感じていた)。


「三好宗渭が亡くなっていたのが幸いでした」

「堺との取次たる旧細川京兆家の代表格が亡き今、畿内と四国との接点が断てるやもしれぬの」

「だからこそ、その糸が完全に切れないうちに攻めてきたのかもしれません。このままでは堺に見放され、四国に逼塞するしかなくなります」

「一度吸うた権力の味は忘れられぬか」

「それにしても、2人でも三人衆なのですな」


 何気なく語った織田弾正大弼の言葉に、将軍が反応した。


「……弾正大弼よ、そちまで斯波武衛のような事を言うてくれるな」


 大樹の言葉に、織田弾正大弼は顔を大いに引きつらせた。



 またも時間を遡る。


 三好三人衆率いる四国三好家は、おそらく残していた自らの手の者に監視させていたのだろう。


 元亀元年(1570年)6月に朝倉と浅井の南下に織田家が対応するために畿内から撤収するや否や、性懲りもなく5千ほどの兵を率いて堺に上陸。


 そして摂津にその手を伸ばした。


 摂津三守護の一角を占める池田筑後守(勝正かつまさ)を、その一族や家臣と組んで追放。金ケ崎で殿軍を指揮した勇将も、後ろから刺されると弱かった。


 摂津情勢が俄かに動揺する中、幕府も織田弾正大弼も対応に追われた。


 信長は姉川の合戦のあと、急いで岐阜へと帰還。本来であれば2ヶ月は掛かってもおかしくない戦後処理をすざましい速さで終わらせると、死屍累々の文官と共に兵力再編に取り組んだ。


 さすがに姉川ほどの合戦の後、そのまま動員した兵力を右から左へと動かすだけの力は織田家にはまだなかった。それでもこの動員した兵力の再編の速さは、織田家の軍事ドクトリンの優秀さを証明している。それとも尾張統一や美濃攻略における長く地味な負け戦の積み重ねによって培われたものであろうか。


 閑話休題


 将軍義昭は御教書みぎょうしょ(公式文書)の形式では間に合わぬからと御内書ごないしょ(将軍個人の私文書)を各地に飛ばし(さすがにこの危急存亡の自体で『俺の書状がないから駄目』とはいわぬだろうと織田弾正大弼には事後承諾であった)、特に紀伊畠山家には四国三好の背後をつくように繰り返し要請した。


 しかしその紀伊畠山も、紀伊の独立国人勢力である雑賀衆などが傭兵として三好三人衆に加わっている状況では、背後を付くどころではなかったようだ。


 7月21日。三人衆軍は摂津中嶋にまで進出し、野田と福島に城を築いた。


 『中嶋』の、『野田』と『福島』である。


 地名にさんずいの付く地名には住むなとは、昔から経験則的に言われることが多い。そうした土地は元々の地盤が低く、または弱いために水害や地震に弱いからだという。


 そんなことを言ったところで、日本の平野はほとんどが河川の堆積物により形成されたものである。一体どこに住めというのか……というのは、今は関係ない。


 繰り返しになるが、『中嶋』の、『野田』と『福島』である。



「面倒なところに城を築きおって」


 1人欠けても摂津三守護。その1人である幕臣出身の和田伊賀守(惟政これまさ)は、幕府奉公衆など幕府軍の先遣隊を率いて、野田・福島から南東一里程の天王寺に着陣すると、地図を広げて思わず唸った。


「文字通り島であるな」


 伊賀守の言葉に、弟の定利さだとしを始めとした配下の諸将も硬い表情で頷く。


 両城の置かれた中嶋は、西側が海、北・南・東は川に囲まれているという、まさに島としか例えようのない場所にある。


 天然の要害たるここに四国三好家は堀を掘削し、壁を立て、逆茂木を組み、そして櫓を建てていた。これはちょっとやそっとの攻撃では落城させられる代物ではない。


 おまけに当初は5千ほどだった軍勢は、三好一族の重鎮たる三好山城入道(康長)、安宅や十河といった四国の三好一門が各地から率いてきた援軍の到着や、細川六郎(元管領細川晴元嫡男で四国三好方)、果ては信長から目的達成のためのしつこさの重要性を学んだとしか思えない美濃の旧国主たる一色龍興率いる浪人衆の参陣。一体どれだけ金を積んだことやら雑賀衆の鈴木孫一率いる援軍などもあわせると、総数は1万ほどにも「水ぶくれ」していた。


「これでは軽々に攻めれませぬぞ」


 摂津三守護最後の1人である伊丹いたみ次郎(親興ちかおき)の言葉に、伊賀守は再度渋い表情を浮かべた。


 もとより分国守護は対等の建前であり、いかに和田伊賀守が官位を持つ正式な幕臣だとは言え、伊丹が協力しないと言えばそれまでだ。「一刻も早く上様のご出馬を」と伊賀守自身、何度も打診していた。このままでは命令指揮系統が崩壊しかねない。


「かと申して、このままでは畿内の物流が滞りかねない。淡海おうみ(琵琶湖)から京と巨椋池を経て続く水上物流の、最後の拠点となるのがこのあたり一体だ。このあたりで小さな船は大きな船に、大きな船は小さなものへとその荷を積み替える。外洋から淀川を上って京への船もここを通る。そんなところをいつまでも抑えられては……」

「あの糞どもは、人の足を引っ張ることばかりしおってからに!」


 そう怒鳴りつけるや否や、床几を蹴り倒す伊丹次郎。


 その彼自身、細川京兆家の家臣として三好三人衆とは組んだり離れたり、離合集散を繰り返しながら勢力を維持してきた人物である。


 今更、かつての同盟相手を怒鳴り散らすとは、どのような神経をしているのかと思わないでもないが、そのようなやわな神経では複雑怪奇な畿内の政局を生き延びることなど出来ない。


 面倒なことだと伊賀守はため息をつき、織田弾正大弼の早期の再上洛を願った。



 この四国三好家の軍事行動に幕府側において最も早く、そして効果的に対応したのが大和の松永霜台(久秀)・久通父子である。


 斯波武衛はその動向を疑っていたが、考えてみると四国三好家は、松永親子にしてもその主君たる三好左京大夫(義継)にしても二重の意味での仇敵だったのだ。


 松永親子はすぐさま兵を整えると河内へ進軍。河内半国守護たる三好左京大夫の後援に動いたのだが、一足遅かった。


 松永親子と入れ違いで、四国三好家は河内古橋城(三好義継方)を攻略した。


 古橋城の兵は約300ほどであったというが、四国三好側があげた首級(首の数)が、なんと218。古橋の城兵は玉砕に近い形であったという。


 逃げる間もなかったのか、逃げれなかったのか、それとも四国の山猿に一矢報いたかったのか。真相は不明のままだ。



「御屋形(信長)様、もう少しだけ時間をくだされ!今のままではせいぜいが3千、どう見積もっても5千ほどしか動かせませぬ!」

「美濃の守りは如何なさいます!甲斐武田との交渉とて、こうも当家が兵を東奔西走させていては、足元を見られますぞ!」


 岐阜城二の丸の大広間において、不機嫌さを顔に貼り付けた主君に対して、軍事面から柴田権六が、外交面から筆頭家老の林佐渡守(秀貞ひでさだ)が口を酸っぱくして諫言を繰り返していた。


「やかましいわ!三好の山賊共が京に攻め入らんとしておるのに、そのような悠長なことをしておれるか!」

「しかし武田はどうなさいます!!信玄入道は力の信奉者。美濃に兵なくば平気で東濃か中濃に手を入れてきますぞ!」

「それを何とかするのが、筆頭家老たる爺の仕事だろうが!」


 林佐渡守が諫言するように、この時織田家と甲斐武田家は、数年来続く同盟の更新に向けて詰めの調整に入っていた。


 詳細は省くが織田の嫡男と信玄入道の息女の婚約を前提に、あくまで対等の同盟でありながら、面子の上では武田を立てれるよう、それでいて余計な言質を与えないようにという、なんとも慎重というか、相手に気を使った細心の交渉が行われていた。


 外交は可能性の芸術というが、相手は甲斐の専制君主。その気分一つで全ての前提がひっくり帰る可能性はあった。


 交渉責任者である林佐渡守にとって、織田の本拠地である美濃に一定数は存在してしかるべき常備兵がこうも東奔西走していては、武田側に「どうぞ、ここが足元です!そしてここが弁慶の泣き所です!!」と大声で怒鳴っているに等しかった。軍事的必要性の是非はわかるとしても、なにゆえこの時期にという嫌みの一つでもぶつけたくなる。


「兵もないのに、甲斐の山猿相手にどう交渉しろとおっしゃるので!?」

「こちらは四国の山猿の相手で精一杯じゃ!優先順位というものを考えんか!!!」

「優先順位とおっしゃいますが、殿のそれは大体はその場凌ぎではありませんか!!大体、殿は昔からいつもいつも当日になって慌て出す……甲斐の虎に腸を喰われてからでは遅いのですぞ!」

「京に兵火が及べば、織田の信頼と権威そのものが吹き飛ぶわ!木曽の朝日将軍の例を知らぬ爺ではなかろう!!!」

「摂津で負けて京から撤退すればまさに朝日将軍でしょうな!!!ですから美濃と伊勢を固めて、武田との同盟関係を深めてから上洛するべきだとあれほど……」

「機を逃せば、今頃我らが三好に征討されておったわ!!だいたい爺は昔から済んだことをいつまでもグチグチグチグチと……」

「済んではおりません!どれもこれも今の問題でしょうが、今の!!!」


 今にもつかみ合いを始めんばかりの主君と筆頭家老の言い合いに、「畳の上での戦は苦手」を自認する権六勝家は、そそくさと退出して軍の再編にとりかかった。


 引き際を知るのも名将の条件である。



 古橋落城の一報に、信長は林佐渡の嫌味を振り払い、3千ほどの即応可能な馬廻りを率いて出陣。3日で近江を突き抜け、京の本能寺(日蓮宗)へと入った。


 この率先垂範の効果もあってか、京についた時には織田の軍勢は4万ほどに膨れ上がっていたという。


 後始末を押し付けられた林佐渡守の怒り狂った顔が容易に想像出来たが、権六勝家はしばらく岐阜には立ち寄らないことを決めた。


 そして5千がせいぜいと見積もった自らの見通しの甘さを主君が忘れてくれていることを願った。


 ともあれ幕府軍は本陣を天王寺に設置。これまた入り組んだ地形であるために周囲に陣を分け、地元の地形に詳しい三好左京大夫や、松永霜台親子、和田伊賀守らをそれぞれ先導役として配置した。


 4万対1万。攻撃三倍の法則に従うなら、十分過ぎるともいえる。


 この数を頼りに力攻め……するほど、信長は自ら率いる軍勢に信をおいていなかった。先の戦いを見ればなおさらだ。


 まずは倍する兵力で降伏を呼びかけるという、自身が得意な(という認識があったかどうかはともかく)戦略的な切り崩しに取り掛かった。


 これは効果を発揮し、8月末までに細川京兆家当主の細川六郎や三好庶流の三好政勝、讃岐の国人である香西氏などが降伏している。


 9月3日に将軍義昭が奉行衆2千を引き連れて中嶋城へ入城すると、幕府軍の士気は否が応でも高まり、四国三好の士気は地に落ちた。いくら自らが引き摺り下ろそうとしている存在とはいえ、足利の名前と征夷大将軍の威光はやはり健在であった。


「さて、御器囓り退治じゃ」


 信長は中嶋で将軍を自ら出迎えると、すぐさま「御器囓り退治」を開始した。


 幕府の長たる征夷大将軍の武家の棟梁としての権威を立てつつ、実際に指揮を取る自分自身の姿を幕臣にも諸侯にも見せつけることで、誰が幕政の中心人物であるかを主張した形である。普段は在京を避けているため、こうした有事に自分の存在感を主張する必要がどうしてもあったのだ。


 これは織田弾正大弼の権威が増せば増すほど、将軍たる自分のそれも確立される義昭にとっても願ったり叶ったりの申し入れであったため、喜んで受け入れた。


「数は力ということを思い知らせてくれるわ」


 畿内における戦争の最先端にいた四国三好家は、様々な局面における鉄砲の使い方に慣れていた。さらに紀伊雑賀衆の助けもあり、一種の一斉射撃や、集中射撃のようなこともしていたらしい。日ノ

本でこれほど鉄砲を扱う事に習熟した軍勢というのは、なかなかお目にかかれないだろう。


「それがどうした!」


 浦江城(福島の西にあった付け城)の対岸で松永久通が叫ぶや否や、大小の鉄砲から文字通り大砲までが雷のように鳴り響き、白煙を立てて鉛の玉を四国三好方へと馳走する。文字通り「数」が違っていた。


 織田弾正大弼は「三好が雑賀衆ならこちらも雑賀衆を使うまでよ」と、将軍が到着するまでに金に糸目をつけず雑賀衆の顔を銭の束で殴り続けたのだ。祖父・父・信長と続く金の暴力的な使い方は、芸術的ですらあった。


 ともかくこうして2万の-誤字ではない。2万である-の雑賀衆を雇い入れた。


 数の力をより強固にし、そしてさらに信長は慎重になった。


 1つ1つの付け城や砦に、それこそ味方がドン引きするほど火力を集中させ、文字通り殲滅していく。すべての付け城や砦を潰してから、本丸たる野田城と福島城に取り掛かろうという寸法だ。戦術など、


 どこにも入る余地のない戦略的優位性を生かした数の暴力、何よりその背景にある明確な排除の意図を見て取った四国三好家は震え上がった。これはとてもではないが自分達が適うような相手ではない。


 四国三好は慌てて「これまでの合戦と同様に」和睦交渉を試みた。何故ならこれまでの室町幕府を舞台とした権力闘争では、一通り合戦をして勝敗が決すれば、敗者は京を明け渡し、勝者が新たな政権を発足させるのが通例であったからだ。


「アホかお前は」

「たわけ!遅いわ」


 将軍も信長もけんもほろろに拒絶した。


 当代の大樹(将軍)である足利義昭は、兄の死を受けて各地を放浪した末に政権を得たという経緯もあるが、僧侶になるための教育が基本であった彼にとって、理屈で説明不可能な馬鹿げた政治慣習は唾棄すべきものであった。


 その茶番とも言える合戦ごっこを繰り返した挙句が、現在の幕府の衰退である。何より兄が必死に守ろうとしていた征夷大将軍の権威をこれ以上貶めるつもりなどなかった。


 その際大の支援者である信長としても自らの優位性と正統性のため、旧政権の幹部をそのまま許すわけには行かなかった。


 何より約束事を守るという点では将軍以上の潔癖さの持ち主である彼にとっては、自分が都合が悪くなったら降伏し、いざ風向きが変わったら寝返るというこれまでの京の政治勢力のあり方に辟易としていた。先の朝倉征伐以来の苦境を経て、見事なまでの手のひら返しを見せつけられた今となっては尚更である。


 とはいえ将軍も織田弾正大弼も、戦略的優位性-数の暴力に酔いしれていたことは否定出来ない。


 勝利は目前であった。











 カンカンカンカン!カンカンカンカン!カンカンカンカン!カンカン………


- 九月十二日夜半に寺内の早鐘つかせられ候へば、即ち人数集まりけり(9月12日の夜中に石山御坊の鐘が打ち鳴らされた。すぐに多くの人数が集まった) -


- 信長方仰天なく候(信長は天を仰ぐ他なかった) -『細川両家記』-




 石山本願寺決起。


 それを知らせる早鐘の音は、足利義昭の描いていた政権構想と織田弾正大弼の戦略的優位性が足元から崩壊していく音でもあった。












「さて、どうしたものか」

「どうするかが問題ではありません。問題なのは今、我々が何をすべきかです」

「相変わらず硬いの。ま、それはともかく少しは上役らしいところを見せんとな」


「……今更ではあるが、信じてもよいのか?」

「……そこは嘘でも『信じておるぞ』と、私の肩を叩くところでは?」

「冗談だ、冗談。それではひとつ頼む」

「心得ました」

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