朝倉孫三郎「磯野?貴様があの餡でつつんだ餅を38個平らげたというあの……」磯野丹波守「磯野違いです」
敵対する両軍が大軍を率いて出陣した場合、互いの大軍による開けた地における会戦というものは、なかなか発生しない。
その理由は、戦ったとしても勝敗が簡単に決する可能性が低いことが挙げられる。
応仁の乱に至っては10年以上、同じ戦場で延々と争いが続いたほどだ。その例外である永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いの結果を総括するなら、物理的に相手の将の首を多数挙げた戦術的大勝利の上杉と、北信濃における勢力や拠点の確保に成功した戦略的勝利の武田となるのだろう。
厳島にしても川越夜戦にしても、また田楽狭間にしても、あそこまでの劇的な結末がついたからこそ、後世に至るまでその名が伝えられているのだ。決着もつかない上に、ただ顔合わせ的にとりあえず兵を出してみましたとでもいうような威力偵察まで合戦として数えていては、歴史書の枚数が足りたものではない。
敦賀郡司を解体し、その一族を『追放』することで敗戦責任を押し付けた朝倉左衛門佐(義景)は、自ら敦賀に乗り込んだ。突破された国境の防衛体制の再構築と、敦賀郡司の家に委任していた若狭への直接支配を強めるためである。
当然、これらの対応は先に若狭から越前へ侵攻した織田弾正大弼への牽制もかねていた。加賀一向一揆への対処もあるため、自らはそれ以上南下することはなかったが、浅井備前守や元近江守護の六角親子と連絡を取り合っていたことは想像に難くない。
*
5月11日。大野郡司の朝倉景鏡率いる5千の軍勢が近江に進入する。
この出兵の目的は、浅井備前守の軍勢や六角親子と連携して、京から本貫地たる美濃岐阜へと帰還を図る織田弾正大弼の挟撃を画策したものであった。
岐阜帰還の妨害には失敗したものの(5月21日に帰還)、朝倉軍は国境沿いの長比・苅安尾を拠点に何度も美濃侵入を試み、南下する姿勢を崩さなかった。
岐阜に帰還することに成功した信長は、南下する浅井・朝倉と一進一退の攻防を続けた。
6月4日には六角残党を柴田権六勝家と佐久間右衛門尉信盛が退けた後、15日には朝倉勢の一時的な撤兵を見た木下藤吉郎と竹中半兵衛の説得によって長比城主の堀秀村と家老の樋口が織田家に降伏。これを好機と見た織田家は一挙に長比・苅安尾を落城。そのまま長比に入った(19日)。
この迅速な軍事行動の背景には、動揺する畿内の諸勢力や美濃を安定させるため、自ら戦闘に立って、この朝倉と浅井の「侵略」に対処する必要があったと思われる。
織田家が動員した兵力は、先に越前から撤退した兵や新たに美濃や尾張から動員した兵も含めて約2万3千。これに若狭征伐以来2度目の援軍となる徳川三河守自ら率いる兵は5千の、合わせて約3万の大軍が浅井の本拠地である小谷へと向かった。
これに対抗するため朝倉義景は、越前安居城主の朝倉孫三郎(景健)を総大将に1万ともいわれる軍勢を組織し、浅井の援軍に向かわせた。
小谷城下を焼き払った後、織田・徳川連合軍は姉川を挟んで対岸となる横山城を包囲(6月24日)。これを牽制するため、姉川の対岸に1万3千の朝倉・浅井連合軍が布陣した。
対する織田・徳川連合軍は、姉川を挟んで浅井の対岸には織田弾正大弼率いる2万ほどの軍勢が、なんと12段の構えで布陣。裏切り者を自らの手で処するという信長の怒りの深さがうかがえる。
一方で朝倉8千の対岸には徳川5千が布陣した。
体よく数の多いほうを押し付けられたかのようにも思えるが、先に手柄を立てる場のなかった三河武士は意気軒昂そのものであり、朝倉宗滴の後継たる越前兵と戦えることに胸を高鳴らせていた。
その鼻息の荒さに、徳川の臣下として始めて従軍していた斯波義虎は「これに礼儀作法を教えるのか」と、その前途を早くも不安視していた。
そして6月28日、「姉川の戦い」は始まった。
*
後ろめたさとも後悔ともつかぬ感情を抱きながら、斯波義虎は三河守家康にあきれたように言った。
同じ頃、毛利長秀は織田弾正大弼の後陣に配置された丹羽五郎左衛門尉の軍勢の中で叫んだ。
「弱すぎますな」「強すぎる!!」
浅井の先鋒は近江佐和山城主の磯野丹波守(員昌)。これがもう、なんと例えていいのかわからないぐらいに強かった。
織田兵が弱すぎるのか、磯野が規格外なのか。対六角戦で数々の戦功をあげ、常に浅井の先陣をまかされたという47歳の歴戦の武将は、鎧袖一触とはこのことかといわんばかりに、無人の野を突き進むが如く駆け抜けた。
織田の先陣であり金ヶ崎の退き口にも参加した坂井政尚をたやすく打ち破り、上落戦をはじめ数々の戦場で16歳でありながら軍功を立てていた織田家期待の星であった尚恒をあっけなく戦場の露とすると、池田に木下、柴田に佐久間、織田家の重臣・譜代に新参に一門を次々と撃破。
ついには後ひとつ陣を打ち破れば、もうそこは信長の本陣というところまで迫った。
義虎はその光景に気が気でなかったが、新たな主君の感想はまったく異なったものであった。
「伸びているな」
徳川三河守の独言に義虎が首を傾がせるが、徳川家旗本先手役の榊原小兵太が「ええ。今ならいけます」と槍をしごきながら応じた。
三河守は27歳、榊原小兵太は22歳。最年長たる酒井左衛門ですら47歳と、自分より10以上も若いときている。織田家と徳川家、斯波家と徳川家の家風以上に、義虎は世代間の懸隔を認識せざるを得なかった。
「ではいってくれるか」
「承知」
榊原小兵太は踵を返して陣幕を出た。言葉を数多く交わさずとも、主の意を理解しているのだろう。
(よい家臣、そしてよき主である)
義虎は三河守家康の顔を見ながら、やりにくい場所ではあるが、同時に仕えるに値する主君であるとも考え始めていた。
*
榊原小兵太率いる徳川旗本衆の横槍もあり、軍勢が伸びきった朝倉家は撤退に追い込まれた。
これにつられて浅井の先鋒の動きが鈍ったところに、体勢を立て直した織田家の軍勢が「このまま逃がすか」とでも言わんばかりに果敢に逆襲に転じたことで、さすがの磯野の動きも止まった。
結果、この合戦では織田・徳川側が1100近い将兵を討ち取り、織田家の軍勢に深く攻め入っていたがために、浅井方は遠藤・三田村ら名のある将が数多く討たれた。
結果だけを見れば織田と徳川の連合軍の大勝利である。
少し先の話となるが、このあと横山城を落とした信長は対浅井の最前線となるこの城の定番に木下藤吉郎を置く。朝倉の南下を食い留め、浅井に打撃を加えたという点で、戦略的にも戦術的にも勝利を収めた。
戦術的勝利?
親衛隊たる赤母衣衆・黒母衣衆のあり方に代表されるように、土地を関係しない金銭における雇用関係を中心とした織田家の軍事ドクトリンは、一年中いつでも即応可能で、一定の軍勢が確保可能という点で、先年の北畠攻めなどで大いにその効果を発揮した。
最終的に美濃一色が織田家の攻勢に耐え切れなくなったのも、10年以上季節を問わずに延々と攻められたことで蓄積した制度疲労に耐えられなくなったからである。まさに織田家の粘りがちといってもよい。
結果はともかく途中の戦況をつぶさに研究すれば、姉川合戦は織田家の兵農分離の戦術ドクトリンの優位性に疑問符をつけるものであった。
すなわち「歴戦の将兵が銭金で雇った職業兵を率いるより、歴戦の将兵が土地と密接に結びついた農民兵を率いたほうが強いのではないか」というものである。
実際に「本土防衛線」となった浅井は、それはもうやたらと強かった。何せ元が国人出身である。地元との結びつきは乾いた大地に根付いた雑草のように強固である。
しかし、そのような戦術面での分析をつぶさにした人物は少ないだろう。
多くの人間はもっと単純にこの「姉川合戦」を見ていた。
すなわち「織田は弱い」
経験豊富な将だろうと譜代の将であろうと新進気鋭の者であろうと、個人で武勇に優れた将であっても、誰が率いても弱い軍勢。それも数が多いだけ。
「ひょっとして、何とかなる?」
上洛戦から始まる織田の不敗神話は、むしろ「姉川の戦い」の織田・徳川の大勝利により崩れ去ったのである。
*
「三好三人衆が出てくるだろうなあ」
朝倉・浅井連合と織田・徳川連合との決戦の詳細がつぶさに伝わるにつれ、顔面蒼白となる幕臣らを尻目に、前管領たる斯波武衛は、またものんびりと呟いていた。
多くの幕臣の本音としては屋敷にでも引っ込んでいてもらいたいというのが本音ではあったが、最近屋敷で供応している「朝倉宗滴の後継者」たる元の敦賀郡司を知恵袋としているからか、妙な冴えをふくんだ指摘をするから、早々無視する事が出来ない。その事実も幕臣達の苛立ちを誘った。
「出てくるとは?」
こう尋ねたのは目の下の隈をこする三淵大和守(藤英)。浅井備前守官位停止の一件で、実弟の細川兵部大輔と方々を走り回っているためか疲労の色が濃い。
それなのにいつの間にか幕府の中で前管領の供応役を押し付けられているらしく、この暇な老人が二条城に出仕すれば必ずお呼びが掛かるようになっている。
「先の正月のような大規模なものは難しいかもしれぬが、畿内における何らかの勢力を誇示するために、どこかに兵を出してくるということがありえるのではないかと思っての。それにしても真にしぶとい。御器囓りのようだ」
「しかし金主たる堺は、織田の代官を受け入れているではありませんか」
「名前ばかりの代官をな。事実上の現状追認をしただけのことよ。堺のすべてがそうとはいわぬが、死の商人たる連中は儲かれば何でもよいのだろう。全体として冥加金で締め上げてやればいいのだろうが、あまり締め付けて完全に三好につかれても困る」
「そんな根拠もなしに、制裁のような真似は出来ません」
大和守は引きつった声を上げた。
たしかに彼らに金を出すとすれば和泉の堺か、大和の今井ぐらいのものだろう。
「今井はまだ松永霜台が睨みを効かせていますが」
「いや、それは余計に安心出来ないのではないか。あの男は三好左京大夫(義継)の政治的な安全が確保できるなら、三人衆相手であろうと平気で玉薬や兵糧の融通ぐらいはするぞ」
前管領の指摘を、三淵大和守は意図的に無視した。あれもこれも疑い出せば、畿内における幕府勢力が戦う前に自壊しかねない。
「すると出てくるとすれば」
「金主の近くたる和泉ではやらんだろう。松永が黙認するなら大和も、三好左京大夫が政治的に危うくなりかねない河内も避けるだろうて。畠山はともかく紀伊の国人に喧嘩を売るほど馬鹿ではないだろうし……」
思案するために目を細めていた斯波武衛は、ひとつの名前を挙げた。
「かつての三好の勢力圏で、分国守護をおいた摂津だろうか。守護権力は分断しているので互いに牽制して動きがとりづらい。兵力の少ない三人衆としても、やりようはあるだろう。これに対処するためには摂津の軍事指揮権を統一する必要があるだろうが」
「摂津を1人の守護にしろとおっしゃるので?」
「そんなことをすれば、三好が出てくる前に幕府が崩壊するだろうな」
武衛はさも冗談めかして言うが、それを冗談として笑い飛ばすだけの余裕が大和守にはなかった。
表情を崩さない大和守の態度が面白くなかったからか、すこし唇を尖らせつつ斯波武衛は続ける。
「3人の分国守護の主たりえるのは上様だけ。隣国の守護に正式な出兵を命じられるのも上様だけ。正式な役職についていない織田弾正大弼殿ではない」
「上様自らのご出陣を求められると?!」
「何を驚くことがある。前例など掃いて捨てるほどあるだろう」
文字通り「掃いて捨てられた」例も-出陣中に将軍が失脚した例もあるのだとは、さすがに場所が場所だけに三淵大和守は言葉にはしなかった。
その葛藤を知ってか知らずか、武衛は懐からまた怪しげな扇子を取り出しつつ、次のように言ってのけた。
「将軍の権威を高めるためといえば、上様とて断らんだろうて。夷を制する大将軍。まさに本来の仕事ではないか」
『よっ!征夷大将軍!』なる不穏極まりない文字の書かれた扇子で自らを扇ぐ斯波武衛は満足気であり、大和守は辺りを憚らずに頭を抱えた。




