斯波武衛「敦賀郡司がやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!!」朝倉伊冊「ネタが古すぎるわ!!」
美濃と近江国境近くの伊吹山地。その新穂山に姉川の源流があるとされている。
姉川は南に向かって川幅を広げながら流れた後、伊吹山の近くで西に向きをかえ、そのまましばらく蛇行しながらいくつかの川と合流しつつ淡海(琵琶湖)に注いでいる。
浅井氏の本拠地である近江小谷城は山を切り開いた典型的な山城であり、姉川を挟んで南に支城たる横山城。このほかにも小さな警戒用の砦はいくつかあったようであるが、この2城を中心に近江から北国街道を経て越前へ、また南近江から京都へ続く大小の街道に睨みを利かせていた。
大軍がくれば山城に引き上げ、撤退するとまた手勢を繰り出す。国人から下克上を果たした浅井氏らしいやり方ではある。
織田と浅井の間では「野村合戦」、朝倉では「三田村合戦」、徳川では「姉川合戦」と呼ばれる戦いは、この姉川を挟んで行われたのだが、その結果はまだ語らない。
言葉は悪いが、浅井氏のあり方は山賊と大して変わらない。しかし綺麗ごとばかりで、数ある国人勢力の中から抜きん出て下克上を果たすことなど不可能。
力なき権威など無力であり、権威なき力などただの暴力。
乱世を生き延びてきた諸侯は、そのどちらにも偏らないように慎重であった。
*
ではこの二つの理論の上に立ち、なおかつあえて幕府に弓引くことを決意した朝倉と浅井の当主とはいかなる男なのか?
幕府と織田弾正大弼に喧嘩を売った浅井備前守(長政)は元亀元年(1570)で25歳。
長政からすると信長は11歳年長の義兄であり、徳川三河守家康が27歳である。この年齢差と国力差を考えると、信長がこの2人の同盟者をどのように扱ったのか、想像出来なくはない。まして備前守には妹を嫁がせていた。
徳川三河守は情念の塊のような三河武士の主でありながら、御家のあり方や立ち居地に対する考え方は、きわめてドライであった。岡崎松平時代、東(織田)と西(今川)という大国の間にあって、独自の第三勢力たることは許されなかったからである。
そして今川時代に比べれば、織田家の当主は人使いは荒いし、銭感情に細かくせっかちで、おまけに言葉足らずの面はあるが、ある意味において三河武士と対照的であるだけに馬があった。何より約定をたがえない点は信頼に足った。
では備前守長政はどうか。
父が六角氏への過度な接近と敗戦による国人らの不満の高まりを受けて隠居を強いられ、15歳で家督を相続した。この点は信長と似ており、義兄が自分と似た経歴の若い義弟を可愛がったであろうことは想像に難くない。
六角との手切れを早々と宣言すると、懲罰のため派兵してきた六角家を撃破。六角家で御家騒動が発生したこともあり「独自勢力」としての地位を確保できた。その後は一色・六角・朝倉の間で均衡を保ちながら朝倉寄りの独自勢力を維持し、足利義昭の上洛に供奉することで歴代当主の中では始めて官位も得た。
独自勢力として自立すること。浅井氏はまさにこの一点で祖父の代から北近江に勢力を築き上げてきたといっても過言ではない。
その点では徳川と境遇は似ているようだが、従属支配を自らの手で打ち破った一種の神話のようなものが、浅井家には存在した。たとえそれが六角のお家騒動によってもたらされたものであったとしても。
*
「年恰好こそ似通っているとはいえ、置かれた場所や環境も違いますからな」
斯波武衛がいつもの調子で語る。
「徳川には西の織田家と同盟を組めば、遠江、そして駿河とお家が発展していく場所がありました。しかし浅井にはそれがありませんでしたな。越前に進むわけにも行かず、まして浅井単独で対峙するには朝倉はあまりに強国」
話を聞いているのかいないのか、少なくとも斯波武衛より明らかに年長と思われる僧形の老人は、ニコリともせずに黙したままだ。
上京の武衛屋敷に設けさせた少々広めの茶室。自分が招待した老僧の態度にさして気にするそぶりも見せず、武衛は茶筅で茶碗の中のそれを掻き混ぜた。
「浅井備前は織田に勝てると思われるか?」
老僧はただひとつだけ首を横に振り「わが義父の目利きを疑われるか」とだけ答えるだけに留めた。
太田道灌を誅殺した扇谷修理大夫(上杉定正)しかり、関東管領家に謀反した長尾景春しかり。主君は自らの器量以上の臣下を統制出来ず、また臣下は自らの器が主を越えるとすれば、君臣の関係は何からの形で壊れるものだ。
その対応と所作を見て判断するならば、この老人はその典型なのだろう。
「朝倉の今の当主殿はたしか37歳でしたな」
越前朝倉氏の11代当主たる朝倉左衛門「佐」義景は、将軍義昭と同い年の33歳。信長よりは1つ年上であり男として脂が乗った年齢である。
それを証明するかのように、朝倉は隣国の若狭守護武田家の家督相続問題に付け入る形で武田親子を一乗谷に『保護』して、事実上2カ国の国主となった。
普通であれば器量に疑いの余地などないはずだ。
「普通」であれば。
「偉大過ぎる部下を持つと、苦労が大きいのでしょうな」
「照葉宗滴様は決して一乗谷の歴代当主を軽視した事などございませんでした」
「だからこそというべきだろうか。宗滴殿が真の忠臣だったのは疑う余地がない。だからこそ左衛門佐(義景)殿にとっては忠誠が重たかった。その主にふさわしいものとならんと欲すれば、どれほどの重荷であることか」
朝倉宗滴。
3代の朝倉氏当主を支えた武将にして政治家。その生涯の戦歴は、今の織田家と徳川の両当主を足しても到底及ぶところではない伝説の存在である。人格者、文化人であり技術者としての側面もあるという、おおよそ完璧という言葉が似つかわしい人物はそうはいない。
「宗滴殿であればよかった。宗滴殿であれば朝倉家中においていかなる特別な扱いを受けても、おそらく許されていた」
「……いったい誰が、朝倉宗滴の後継者足り得ましょうか」
無遠慮にも聞こえる武衛の問いかけに、老僧は呻く様に漏らした。
功績を立てれば立てるほど、その偉大なる背中を追えば追うほど、その存在感に打ちのめされ、そして膝をついた姿ばかりが義父と比較される。
この老僧も俗世にあったころは人並み以上に武勇に長け、大永7年(1527年)の上洛を皮切りに、永禄年間の加賀征伐に従軍。敦賀郡司として若狭逸見家の鎮圧や、粟屋氏攻略など、数々の武功を立てている。平凡の将ではありえない戦歴と軍功の持ち主である。
それでもなお及ばない。及ぶはずがないのが朝倉宗滴の宗滴たる所以である。
「敦賀郡司の家を相続するとは、そういうことです」
如何に努力を重ねようとも、どれほどまでに追いかけようとも決して追いつくことのない存在。それと永遠に比較され続ける環境。
「……人の身でありながら、生きる伝説となってしまったことを、義父は酷く悩んでいたものです。このままでは朝倉は駄目になってしまう。自分が死してその後、自分のいない朝倉がどうなるかと、死去する直前まで苦悩を続けていました」
手にした茶碗を握りつぶすかのように力をこめて持ちながら、朝倉伊冊-元の越前敦賀郡司であり朝倉宗滴の養子でもあった朝倉景紀は独言した。
「結局、私は最後まで義父の目には適わなかったようです。織田三郎はあれほど評価していたというのに……」
そこで伊冊は言葉を区切った。
65歳という年齢は、この時代いつ倒れてもおかしくない高齢といってよい。
それでも義父とともに先陣を駆け抜けてきた老僧は、まだ倒れるわけにはいかない。その執着だけが、この老人を現世に留めていたといってもよい。
義父の遺言。「織田上総介の行く末だけを見届けられなかったのが心残り」というあの言葉の真意を確かめるまでは。
黙りこむ伊冊に、斯波武衛が言葉を選びながら尋ねる。
「中務大輔(景恒)殿は?」
「再び出家致しましたので、松林院鷹瑳と名を変えました。すでに京へと入っている頃かと」
越前敦賀郡司の朝倉氏は、朝倉宗滴の養子となった景紀とその子が代を重ねた。しかしいくら功績を立てても、宗滴の政治的後継者としては誰も認めようとはしなかった。
朝倉宗滴の権威が、当主以外の一門に受け継がれることを許さなかったのだ。
結果、伊冊の嫡男であった景垙は、他の朝倉一門衆との政争に敗れて自害。僧籍にあった次男が還俗し、朝倉景恒として家督を継いだ。
そして先の若狭征伐-朝倉征伐を迎えた。
かつて宗滴が行く末を見届けたいと言い残した織田上総介は織田弾正大弼となり、幕府軍を率いて越前へと攻め入った。
越前金ヶ崎城(敦賀城)にてこれを迎え撃ったのが、越前敦賀郡司たる朝倉景恒であった。
景恒は少ない手勢で果敢に戦うも、結局兵力の差もあり数日で降伏を決定。すでに朝倉氏全体の空気として降伏に傾きつつあり、その時間稼ぎのための役割でしかないことは彼自身もわかっていた。
ところが浅井備前守の謀反が政局を一変させる。
伊冊に言わせれば「どこまでも戦局ではなく政局なのが朝倉の限界」であると、口惜しげに語る。
とるものもとらず撤退した幕府軍を見て「こんな連中に負けたのか」と徹底的に攻め立てたのが一門衆筆頭格で越前大野郡司の朝倉式部大輔(景鏡)。
景垙が自害する原因となった席次争いの相手でもある因縁の男は、敗戦責任追及の先頭に立った。
「朝倉名字の恥辱なり」(どの面を下げて朝倉の苗字を名乗るか)
「天下のあざけりを塞ぐによんどころなし」(これから何をしてもこの失態は取り返せまい)
かくの如く批判された景恒は、自ら辞して永平寺へと蟄居に追い込まれる。越前敦賀郡司も廃止され、敗戦責任は景恒個人にあるとされた。
景恒は少なくとも恥を知る人間であり、そのままであれば食も絶ち自死していたであろう。
そんな息子の顔を、朝倉伊冊は「犬畜生たりとも勝つことが本義と宗滴様の言葉を忘れたか」と殴りつけると、亡き景垙の子である七郎(8歳)ら旧敦賀郡司の一族を連れて、京へと政治亡命を果たした。
織田弾正大弼は、特に自分を評価していたという朝倉宗滴の養子が亡命してきたという事実を喜び、六角が跋扈する南近江を敵中突破しての岐阜へ帰還する(千草越え)直前にもかかわらず、自ら謁見してこれを受け入れた。何より朝倉の面子をつぶせたというのが大きい。
そして織田弾正大弼から越前敦賀郡司一族の供応役を任されたのが、幕府侍所執事の斯波義銀と、その父にして前管領の斯波武衛であった。
因縁のある相手にそれを任せる辺りに、織田弾正大弼の性格の悪さがあらわれているともいえる。
「朝倉左衛門佐(義景)殿が、よく許可したものだ」
「あの方はお優しい方ですので」
こう一言だけ言うと、伊冊は茶を服そうとして、その手を止めた。
「……毒など入っておらんでしょうな」
「そんなものがなくとも、貴殿には直ぐにでもお迎えが来るだろうよ」
武衛の冗談というにはいささか「毒」の入った言葉に、「噂通りのお方ですな」と伊冊は笑いもせずに再度口をつけて茶を飲み干すと、ひとつ息をついた。
越前から一族を連れての政治亡命。精神的にも肉体的にも疲弊していないわけがない。
「左衛門佐(義景)様はお優しいのです。ですから式部大輔(景鏡)が憎まれ役を引き受けたのですな」
「進んで引き受けたの間違いだろう」
「あれもひとつの忠義のあり方なのです。私としては許すことなど出来るはずもないですが……朝倉宗滴の政治的な後継者たらんとする敦賀郡司の家を、家中の誰もが好ましく思っていなかったのも事実。一門衆のなかでも更に特権的な地位を、義父ならともかく養子にまでみとめるほど、朝倉のお家というものは甘くはありませぬ」
「そして左衛門佐殿は、貴殿と一家の亡命を許した」
「後ろめたいお気持ちがどこかにおありだったのでしょうが……」
それ以上は伊冊は口にしなかった。
主君が家中を統制しやすくするために(あるいはその名目で)憎まれ役たる式部大輔(景鏡)としては、これでは何のために自分が努力して追い落としたかわかったものではないだろう。主君の黙認は、家中で自分の大野郡司の家だけが浮き上がることにもつながりかねない裏切り行為ともいえた。
それをわかっていながら左衛門佐義景は亡命を許した。自らの器が壊れるのを恐れたのだ。
確かにそれもひとつの見識ではある。
「優しさだけでは、織田弾正大弼には勝てますかな」
伊冊の問いかけに斯波武衛は何も答えず、再び茶を勧める。そのさりげない所作が堂に入っていた。
ふと伊冊は問うてみたくなった。
「武衛様は……」
義父の名声に耐え切れなかったのが朝倉義景、そして敦賀郡司の自分も含めた後継者達。
その義父が唯一認めたのが織田弾正大弼信長。
さらにその主家であるのが斯波武衛家だ。
室町幕府を再興して最も天下人に近い地位にあるであろう人物の名声は、何れは朝倉宗滴のそれをも凌駕するやも知れぬ。
「織田弾正大弼殿の主家であることに、嫌気がさしたりはしなかったのですかな?」
斯波を追い出した朝倉になくて、朝倉に追い出された斯波にあったもの。それが何かを聞いてみたくなったのかもしれない。
あまりにもぶしつけな質問に斯波武衛は「さて」と一言口にすると、勧めた茶碗を自らの手元に引き戻した。
その視線は茶碗の中で波立つ茶にむけられている。
「……織田三郎に頼まれたからな」
「三郎?」
「今の当主の父親、弾正忠家の先代だよ」
5歳で三郎信長が代行として家中を取り仕切らざるを得なくなったのは、父親がたしか40かそこらで病に倒れたからだと伊冊は記憶している。確かその先代が三郎信秀だったか。
「実を言うと私は、それまでは三郎が家督を相続して尾張を統一でもしたら、さっさと尾張を出て京かどこかに隠棲しようと考えていたのだ。適当な手切れ金でも貰ってな」
武衛が『三郎信長が尾張を統一するのは当たり前のことであった』とでも言わんばかりに語るのが、伊冊には不可思議であった。弾正大弼が当主になった頃の尾張の状況は、そのような「当たり前」と言い切れるような状況ではなかったからだ。
「しかし頼まれたのだ。それまで散々、好き勝手をしてきたはずの三郎信秀にな」
尾張末森城主に隠居して療養生活を送る信秀を見舞った斯波武衛は、思わずその目を疑うほどに驚いたという。
いつも口を馬鹿のように大きく開き、天をむいて豪快に笑うのが持ち味だったその人物が、布団に横たわっている。
手足はやせ衰え、土田夫人の手を借りないと布団から起き上がれないまでに病み衰えていた。それなのに目だけが爛々と輝いているのが余計に哀れであったと。
「生きているのに死んでいる。そうとしか言いようのない姿であった」
そんな男が、斯波武衛に頼んだというのだ。
「三郎をどうにか見捨てないでほしいと。親の欲目ではあるとおもうが、あれには物事を成し遂げるだけの強い意思がある。この苦境を乗り越え尾張を統一すれば、必ず羽ばたくことが出来ると、こう言ってのけたのだ」
そして尾張の虎は、斯波武衛に頭を下げた。
あれだけ勝手気ままに振舞い続けてきた男が、傀儡守護として存分に利用しつくしてきた相手に頭を下げたのだ。
「頭をひとつ下げたぐらいで、なんとも安い男なのかもしれんが」
斯波武衛は茶碗に落としていた視線を上げて笑った。
「親というものは有難いものだと、私は心底そう思わされた。『織田信長』であるなら、私がいなくとも大丈夫だろうという思惑は、子を思う真摯な親の願いを前にしては何の意味もなかったのだよ。あの姿を見てしまえばな」
「だから私は織田三郎を見捨てたりはしない」と武衛は力強く断言した。
「もっとも、私が先に織田三郎に愛想を付かされる可能性のほうが高いかもしれないが」
斯波武衛が口を大きく開けていかにも楽しそうに笑う様が、伊冊には一瞬だけ義父に重なって見えた。
朝倉景鏡「君はいい友人であったが、君の父上がいけないのだよ」
朝倉景垙「え?俺、君と友人だったことあったっけ?」
朝倉景恒「僕が一番、敦賀郡司の家をうまくあつかえるんだ!」
朝倉景恒「殴ったね! オヤジにもぶたれたことないのに!」
朝倉伊冊「俺がその親父だよ!!!」
*
・浅井長政の備前守任官はこの話オリジナルです。




