津川玄蕃允「武衛さんからお手紙ついた。朝倉さんたら読まずにキレた」毛利河内「しかたがないので鞍谷に書いた『さっさと上洛してこいやぁ!』」
現在でも三重県は近畿地方か、それとも東海地方かという論争があるらしいが、県の公式HPによると「どちらも正しい」というのが公式見解であるらしい。行政区としては東海地方に属することもあれば、近畿圏に属することもあるからというのがその理由らしいのだが「そんなのありか」という疑問は、今は関係がない。
歴史的に見てもそれは正しい。
伊勢という南北に細長い国は、地域ごとに隣接する周辺諸国の影響と商業的結びつきが極めて色濃いのが特徴である。
北勢は文字通り伊勢の北部であり、濃尾平野を流れる木曽三川の河口であり、かつ商都津島と近いこともあって地域全体として尾張との商業的な結びつきが極めて強い。
これら三川の中の小さな島々には、島全体を大きな堤防で囲った輪中があり、その中で人々は生計を立てていた。
長島願証寺もそうしたひとつであるが、本願寺は永禄12年(1569年)当時においては、京を追放された近衛太閤とその一族を保護している以外には中央政界から距離を置いているので、織田家の伊勢侵攻においては問題とはされなかった。
その伊勢侵攻が目前に迫る中、尾張清洲城の守護館は約1年ぶりとなる本来の主の帰還により、騒がしい喧騒に包まれていた。
「武衛の爺ちゃん、管領やめたのか」
「おお、辞めたとも、辞めたとも。これで心置きなく、朝寝・朝風呂の生活に戻れるというものだの」
「いいなー、俺もそんな生活してぇ!」
「はっはっは!私のような働かずに食う飯の味を評価できる境地に至るまでには、茶筅殿では40年ほど修行がたりぬわ」
一見すると孫を膝の上に乗せてあやしている祖父のようなほほえましい光景に思えるが、交わしている言葉はどう好意的に解釈しようとしても碌でもないとしか言いようのない内容である。
現に周囲の侍女達は文字通り頭を抱え、警護の兵などは無表情を決め込みながらも眉間に皺がよっていた。
「武衛の爺ちゃん、北畠ってどんなところなんだ?」
「北畠か?それは北畠左近衛中将殿の治める領地がどんな場所かという意味かね?それとも北畠家とはどのような家かという意味かね?」
「両方!」
膝を枕に仰向けに寝そべりながら「爺ちゃん」と呼んだ人物の顎を、両手いっぱいに伸ばした手で撫でながら、織田弾正大弼の次男である茶筅丸は勢いよく答えた。
「両方か、それは難しいのう」と「爺ちゃん」とよばれた斯波武衛が困った顔をすると、何がおかしいのか「両方、両方!」と叫ぶ茶筅丸。駄々をこねる子に「しかたがないのう」と口にすると、武衛老は「では両方一度に話そうかの」と答えた。
「北畠という家はの。公家であり武士である家なのだ」
「……どっちなんだ?」
「どちらの側面もあるというのが正しいの。南朝の有力公卿であり理論的支柱であった北畠氏が、南伊勢に勢力をのばしたのがそもそもの始まりじゃな。伊勢国司を名乗ったが、事実上の武家領主として代を重ねた」
「だから今でも花押は公卿式のものを使い続けておる」という武衛に「いいとこどりだな」と茶筅丸は答えた。
「いいとこ取りか、確かに茶筅殿の言う通りだな。室町幕府も何度か討伐軍を送ったが、家を滅ぼすまでには至らなかった」
「強いんだな!」
「おうおう、強いとも強いとも。南北朝統一で、幕府も北畠の家を南伊勢の守護として認めた。認めざるを得なかったのじゃな。官位も南朝時代のものを継続して認められ、いまでも上洛せぬのに公卿としての地位を確保しておる」
「くぎょう、ってなんだ?」
「簡単に言うと朝議、朝廷における話し合いに参加できる資格のある公家ということじゃな。参加せぬのに参加資格だけはある……これが意外に馬鹿には出来ぬものでな。なにか旧南朝勢力に不利な決定をしようものなら、自分を参加させなかったから無効だ!とごねる事が出来るわけだ。まさに北畠は旧南朝勢力にとっては政治的にも軍事的にも唯一残った希望の星というわけじゃな」
「応仁の乱では東軍でありながら、今出川(足利義視)を匿ったしの」と武衛は付け加えた。
そのため室町幕府にとって北畠家といえば反幕府の陰謀が持ち上がるたびに、名前が持ち上がる、いわば「反乱の常連」である。関東公方、赤松氏の謀反、後南朝勢力の蜂起……その尽くに名前を連ねているという具合である。
何度も何度も守護を剥奪されながら、南伊勢に根を張った強固な一族支配は微塵も揺らぐ気配がなかった……今までは。
「ふだつきのワルって、やつだな」
「かっけーなあ!」と目を輝かせる茶筅丸。
権威に反抗するものがすべて格好がよく見えるお年頃らしい。思えば彼の父もそうであったか。
「その札付きの悪をやっつけるために、今回は茶筅殿の御父上が伊勢に出陣される。三十郎殿が養子に入られた長野のお家と、三七殿が養子に入られた神戸も協力されるそうだ」
三七の名前が出たとたん、茶筅丸はわかりやすく不機嫌になった。
彼にとっては母違いで同い年の「弟」は、何かにつけ自分に突っかかってくる鬱陶しい存在であった。
最初の頃は母親が違うだけにどうでもいい存在だったのだが、ああも何回も突っかかられては、あまり頭の回転が速くないと家中で噂される彼としても面白くはない。
何より三七が兄の奇妙丸には素直に礼を尽くしているのが、茶筅の癪に障った。
ぷいっと横を向いて「俺、あいつ嫌い」と言う茶筅丸に、またも困ったような顔をする斯波武衛。
宥めるように彼の頭を撫で、言葉を選びながら諭すように語りかけた。
「まあ、三七殿にも色々あるのだよ。兄として、弟のわがままを笑って聞き流すぐらいの度量は見せないと、カッコ悪いぞ?」
「嫌いなもんは、嫌いだ!あいつ生意気だし!」
「そうか。嫌いなものは仕方がないな」
「ち、父上。それはちょっと」
それまで二人の会話を黙って聞いていた津川玄蕃允(義冬)が慌てて口を挟む。
斯波武衛の次男である彼は、六角攻めや本圀寺攻防戦で見せた武勇が評価され、茶筅丸付きの近習となることが内定している。斯波と織田との融和と、緩やかな権威の委譲を内外に印象付ける人事だ。
その義冬からすれば「これからのこと」を考えれば、兄弟の不和をあえて追認するかのような姿勢は許容出来ない。
これに対して「嫌いなものは嫌いだ。致し方あるまい」と武衛は応じるが、視線は自らの顎を触り続ける茶筅丸に向けたままであった。
「しかしな茶筅殿よ。それを影で言ってはいかんぞ?」
「なんでだ?」
「カッコ悪いからだ。織田家の男子たるもの、嫌いなものは嫌いと、堂々と本人に言うべきなのだ。公的な場所では避けるべきだがな」
「なるほど、かっこわるいんだな!でも、なんでこーてき?なところじゃ言っちゃいけないんだ?」
「それはだな」と武衛は姿勢を改めて、茶筅丸を自らと向き合うように座らせなおすと、その目を見て重々しく宣言した。
「御父上が本気で怒るからだ」
「……わかった。絶対にいわない」
以前、侍女(どうやら信長のお手つきであったらしい)に対する粗相で「本気で怒られ」たことのある茶筅丸には効果覿面だったようだ。茶筅少年は顔を青くして、小さく何度も頷いた。
「でも俺、こーてきなば、っていうの知らないよ」
「わからぬことは聞けば良いのだ。そこにいる私の息子の義冬に教えてもらえばいい。知らぬことは知らぬと言えるのが茶筅殿の良いところじゃな」
そう言って再び武衛が頭をなでると、茶筅丸は「子供扱いするな!」と顔を赤くして怒った。
*
「子供に理屈を言っても始まらぬからな」
前管領という肩書きを得たばかりの斯波武衛は、津川義冬と毛利河内(長秀)の二人の息子と向き合いながら、湯冷ましをすすった。
義冬は斯波氏庶流の津川氏、長秀は長く斯波武衛の近習である毛利十郎に、養子縁組というかたちで家を相続させたものだ。
その毛利十郎は家を義息に譲った後も、相変わらず武衛の近習であり続けている。
「駄目なものは駄目、その理由を他人に教えられることなく理解し、また他の人間にも説明出来るようになるのが大人になるということだ。しかし子供にそれを求めるのは酷というもの。ならば理屈を理解せずとも、『これをすれば』『こうなる』『だからしない』ということさえ、最低限判断出来るようになれば、それで良い」
「しかしそれでは何も成長がないのでは」と義冬が反論するが「伊勢攻めまで時間がないのだろう?」と武衛は続けた。
織田三郎(信長)が清洲城へと居城を移してから、斯波武衛はその家族と親交があったのだが、その中でも茶筅丸は武衛によく懐いた。
嫡子と同腹の弟として厳しく躾けられる環境の中で「働かずに飯を食う」という、それまで聞いたこともない言葉や発想が茶筅丸の興味を大いに引いたらしい。
これにしかめっ面をした父親とは対照的に、守護と守護代の次男は大いに関係を深めた。
働かずに飯を食うための四十八手なるものを伝授された茶筅丸は「将来働かないためには、今、勉強しなければならない」という訳のわからない結論に至ったらしい。
ともかく茶筅丸のことを、良くも悪くもその実父よりも理解しているのかもしれない斯波武衛がいうのなら、その方が良いのかもしれないと義冬は自分自身に言い聞かせた。
そんな息子の葛藤を知ってか知らずか、武衛は続ける。
「神戸、長野とくれば、北畠とて次は自分の番だと思わないはずがなかろう。いつまで持ち堪えることが出来るかは分からぬが、和議の条件となれば織田との養子縁組が最低条件となるはずだ。
伊勢の主要な勢力は、北から順番に、北部は関氏やその庶流たる神戸氏など小勢力が乱立し、中部は伊賀へと通じる交通の要所を抑える長野氏、そして南部の北畠氏である。
北伊勢は土岐氏が守護となるなど幕府との結びつきも強かった。そして伊勢中部から以南では長く長野と北畠が覇権を争ったが、長野が敗れ、北畠から養子を迎える形で従属して決着がついた。
これにより北畠氏は伊勢制覇に向けて大きく前進した。
ところが長野の庶流である分部氏や家臣団などがこれに反発。親北畠と反北畠の間でお家騒動となり、これにつけこんだのが織田氏である。
永禄11年(1568年)に自らの弟である三十郎信包を養子とし、北畠からの養子当主を追う。これにより織田と北畠との合戦は避けられない情勢となった。
この前年には北伊勢に侵攻した織田家に対して、神戸氏が3男の三七を養子に迎え、その家名を維持しながら降伏している。そしてこの状況下で茶筅丸が美濃岐阜城ではなく、津川義冬を始めとしたお付きの家臣団とともに尾張清州にいることが、すべてを物語っていた。
「三七殿が神戸なら、嫡子奇妙丸様と同腹の次弟たる茶筅殿がどこのお家となるかは、想像がつく。奇しくも北畠自身が、長野工藤にそうしたようにな。毛利陸奥守(元就)ではないが、養子縁組によるお家乗っ取りはよくあるやり方ではある」
断絶した津川氏の名跡を相続した兄はともかく、それを自分の前で言うかと長秀は思ったが、実父の背後に黙して控える義父の姿に何も言わなかった。
「今の朝廷はそれほど北畠のお家の存続に関心があるわけではない。むしろ神宮(伊勢神宮)のおひざ元が旧南朝勢力に抑えられた状況よりは、好ましいとすら考えておる。朝議にも参加せずに南伊勢から口だけ出す有様を、多くの懐事情がさみしい公卿はよく思っておらんしな」
ついこの間まで京に滞在していたために朝廷や幕府の空気を誰よりも知る父の言葉に、「結局は金ですか」と義冬が悪態染みた溜息をつく。政治的な勝者であるはずの北朝勢力が、旧南朝勢力よりも経営的に厳しいというのは、確かに面白くないだろうと義冬や長秀ですら想像がついた。
「では大樹(将軍)様は?」
「北畠は織田にとっての『加賀一向一揆』になると説明すれば、理解してくださった。実際にその通りではあるしな」
南伊勢を北畠が確保していること自体が悪いわけではない。伊勢湾全体の海路に、ひょっとしたら出てくるかもしれないという可能性が商いにとっては悪影響なのだ。
北伊勢のみならず尾張にとっても、その先の近江にしても、織田と敵対する勢力が南伊勢にあるというのは好ましい影響であるはずがない。
「あまり攻略に手間取るようであると、上様としても仲裁に乗り出ささざるを得ないだろう。三好の勢力が完全におとなしくなったわけでもないのに、織田がいつまでも伊勢に手間取っていては、いざという時に間に合わなくなるからの」
「そうならないように、全力を尽くします」と北畠攻めへの従軍が決まっている義冬が勢い込む。
それにしても、織田にとっての加賀一向一揆かと、長秀は呟いた。岐阜城の奇妙丸付きになることが決まっている長秀にとって越前は隣国といってもよく、関心がないといえば嘘になる。まして朝倉は斯波氏にとって因縁の間柄だ。
「……朝倉はどうなのです?」
長秀の質問に「どうもこうも、何もない。言い訳の手紙ばかりは山のようではあるが」と、先日まで幕閣の要職にあった斯波武衛は答えた。
武衛が辞したのち、管領は再び空席となっている。自分がいなくとも幕府は何とかなると当の本人は嘯いているが、幕閣に留まった義銀からは、悲鳴の如き手紙がひっきりなしに届いているそうだ。
越前朝倉氏は将軍義昭からの上洛の要請にうやむやとした、するともしないとも解らない内容の長いだけの書状を返すばかりで、動く気配すら見せなかった。
その中に「加賀一向一揆の動きが不穏で」という一文を見た将軍義昭は、自ら本願寺との仲裁にのりだして「とにかく上洛してくれ」と何度も朝倉に上洛の催促を繰り返していた。
これは何も放浪時代に自分たちを保護した朝倉の恩顧に報いたいといった情緒的な話ではない。越前朝倉は現在の政権にとって、最後に残った政権の不安材料であったからだ。
現在の畿内の情勢を順に述べてみる。
山城は幕府のお膝元で、現在のところ大きな問題はない。
摂津は分割して親幕府派の守護をおき、和泉には斯波氏の守護のもとで織田氏が。そして近畿のみならず全国的に影響力の大きい本願寺は局外中立。
河内半国守護の三好宗家は幕府側、もう半分の河内守護にして紀伊守護の畠山氏は義昭派であり、大和は幕府側の松永親子が切り取り次第を許されている。
別所や小寺など大国播磨にひしめき合う赤松氏の庶流は先の織田氏の播磨攻めで帰順済。
但馬守護の山名氏(この年8月に正式に降伏した)と丹後守護の一色氏も幕府に従い、丹波の山間にひしめき合う諸勢力もこれも同じ。
南近江は織田で、北が織田と同盟を組む浅井氏。
尾張と美濃は織田の領土であり、伊勢はまさに今織田が飲みこまんとしている。
伊賀は不安定であるが、畿内全体の情勢を左右するほどの軍事力があるわけではない。
大内氏の先例に照らし合わせるならば上洛可能な勢力として安芸毛利氏の存在があるが、九州の大友や山陰の尼子と死闘の最中にあり、安国寺なる臨済宗の外交僧が上洛して就任祝いを述べているので問題はない。
そして越前朝倉である。
隣国若狭の守護である武田氏は、事実上朝倉の傀儡(一乗谷に『保護』されている)であり、幕府に出仕する若狭国人はそれぞれ独自の動きで関係がない。
なにゆえ朝倉の動向に幕府がこれほどまでに神経を尖らせているかといえば、越前朝倉氏は朝倉宗滴が指揮する軍勢が上洛して管領細川高国を失脚させた先例があるように、その気になればひと月もせずに上洛できるだけの場所にあり、なおかつ実際に動員可能な軍事力を有していたからである。
そうした場所にありながら、新政権発足後も1年近くこれという反応を示さず、かといって敵対する姿勢も見せず。いざとなれば京を狙える位置にある大国が旗幟を鮮明としない状況は、政局の不安定要因であった。
「条件闘争をするわけでもなく、懸念材料である加賀一向一揆を説得したところでなんの動きもない。かつて三好に追われた上様を保護したことがあるからといって、それは今も甲賀のどこかで放浪している六角親子を見ればわかるように対した政治的資産とはならない」
首をひねる武衛に「織田の御屋形様が気に入らないとか」という仮説を長秀が披露したが、武衛がまたもや顔を横に振った。
「守護代家の嫡流であったとはいえ、元が下克上で成り上がった家だ。格式を大事にはしているだろうが、上洛するかしないかという判断条件に、他の条件よりも優先するということはありえぬだろう。最も考えられる現実的な軍事的脅威が一向一揆だったのだが……」
「それゆえ管領をやめられたのですか?」と再び長秀が尋ねると、武衛は大きく頷いた。
「考えても見ろ。朝倉にとって斯波武衛家は越前守護を争った家柄。決着がついても、あきらめることなく何度も策謀を巡らせた相手だ。尾張から出た斯波武衛一族が京にあり、おまけに管領として政権の中心にあれば、朝倉としては越前にまたやってくるのではないかと疑わないほうがおかしい」
こうした理由を説明したところ、当初こそ引き止めた将軍義昭も管領辞任を受け入れた。斯波一族すべてが役職を辞して退去するわけではないので、政権内の動揺を最小限に抑えることも出来たし、なにより管領の政治的な首を差し出すことで朝倉氏に対するこれ以上ない政治的な配慮になると判断したからである。
そして仮に、これでもなお朝倉が動かない場合は、その先のことを踏まえた喧伝材料にも成り得るという計算があった。
すなわち「ここまでしても朝倉は譲歩しない。討伐あるのみ」という世論工作の材料である。
なお南伊勢攻めや武田氏との外交交渉に掛かりっきりで、幕閣内部の一連の動きをほとんど追認した信長であったが、辞任した斯波武衛が「再び清洲に居住したい」と述べたと聞くと、天を仰いだという。
その理由は誰にもわからないが、ひょっとすると歓喜の涙を家臣に見られないようにする配慮だったのかもしれない。
「唯一の懸念材料ですか」と義冬が唸る。
上洛戦に三好氏との戦いを終え、予定される伊勢攻めに従軍したあと、その先にさらに朝倉との戦いがあるとすれば、義冬でなくとも多少なりともうんざりとするだろう。
足利氏を奉じて上洛すればそれで終わりかと思っていたら、その先に次々と新しい敵が出てくるのだ。
ならばまたその先もあるのではないかと、考えてしまうのも無理はない。
「……仮にですよ父上。仮に朝倉が父上の辞職を受けても、それでも何の動きも見せないとすれば。その先は」
慎重に言葉を選びながら尋ねる長秀に、武衛は「朝倉攻めだな」とあっさり答えた。
「昨年の六角攻めから始まった上洛戦、その集大成となるのが朝倉攻め-上様はそのようにお考えだ」
「果たして、そのように事が上手く運ぶものでしょうか」
「長秀の疑問も最もではあるが、まだ朝倉が上洛を拒否すると決まったわけではない。私も何度か書状を書いたが、ことごとく無視されたしな」
「……まさかとは思いますが」
長秀は自らも半信半疑と言う口調で、更なる可能性を指摘した。
「鞍谷公方を擁立するつもりでは」
鞍谷公方(*)は4代将軍争いに敗れた足利一族の子孫で、越前に居住する。今の当主は斯波義廉の男系子孫である足利嗣知。義廉は応仁の乱で、今の斯波武衛の曽祖父と家督をめぐり争った人物である。
「その可能性もあると大樹はお考えだ。将軍家にとっても、わが斯波武衛家にとっても因縁のある間柄。上様は朝倉が自分を奉じての上洛を拒否したのは一向一揆に原因があったのではなく、当初から鞍谷を擁立する気ではなかったのかと疑念を深めておられる」
「しかし、この状況下で朝倉氏も、まして鞍谷公方もそのような政治的冒険をするでしょうか?」
「事実がどうであるかはこの際問題ではない」と、斯波武衛はめずらしくピシャリと強い口調で断言する。
「背後には局外中立の加賀一向一揆。天地が逆さになろうとも朝倉の援軍に来ることはない。つまり孤立無援の状況。その上で朝倉討伐を将軍が呼びかけ、動員をかければ親幕府と中立諸侯の色分けも出来る。永禄の変以来、失墜していた幕府の権威を立て直せるし、何かと空回りと揶揄されていた当代の大樹個人の権威も高まる」
「ここまですれば、朝倉も降伏せざるを得ないだろう。若狭で形式的に一戦したのち降伏というのはありえる」と武衛は続けた。
「そうなれば三好と親しかった本願寺とてあえて幕府に敵対することは困難である」
「室町による、統一がなされるわけですね!」と義冬が興奮気味に身を乗り出したが、武衛は鬱陶しそうにそれを押し返した。
「えい、暑苦しい。私は男に言い寄られて喜ぶ性癖など持ち合わせておらんわ……まだ朝倉の解答があったわけではない。しかし上様としては将来的な禍根を断つ好機と考え始めておられるのも確か」
長秀は管領辞任も含めた一連の動きは、ひょっとすると自らの父が絵をかいたのではないかと疑ったが、それをあえて尋ねることはなかった。
将軍の考えにしろ、斯波武衛が仕事をしたくがないための辞任のための理由付けが始まりだったとしても、朝倉征伐で幕府の再興がなるという考えは、養子に出たとはいえ斯波一族に連なる自分としては、感じるものがないわけではない。
「動きが出るとすれば?」
故に長秀はそれだけを尋ねることにした。あくまで現状では仮定の話に過ぎない。しかし可能性があるとするならば、何かしらの用意はしておく必要はある。
「織田の北畠攻めが3ヶ月を超えるようでは大樹様も仲裁に乗り出さざるを得ない。朝倉氏への猶予もそれほど与えるわけにはいかぬ。他の諸侯に示しがつかんからな」
そして斯波武衛は何かを考えるように目を細めてから言った。
「永禄13年(1570)。つまり来年の正月が、朝倉の回答期限となるだろうな」
*
斯波武衛の予想通り、元号が元亀へと改元されたこの年は、幕府・織田のみならず全国各地の諸勢力にとって、また斯波武衛家にとっても大きな転換点となった。
(*):鞍谷公方は斯波義廉の子が婿入りした説をとっています
札付きの悪の語源は江戸時代?こまけーこったあ(ry




