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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
永禄12年(1569年)正月 - 永禄12年(1569年)12月
12/53

斯波武衛「管領ならまかせろー(バリバリ)」織田弾正大弼「やめて!」


 足利義昭が一乗院から命がけの脱出劇をしてから将軍に就任するまでの約3年間の間、過去の将軍について学ぶだけの時間は十二分にあった。


 とくに足利義植(10代)、足利義澄(11代)、足利義晴(12代)、足利義輝(13代)の4人は、義昭と同じく各地を放浪し、義澄を例外としてそれぞれの形で都に帰京して政権の座に返り咲いている。もっとも彼らは征夷大将軍のまま流浪しているという点では義昭と異なり、ひょっとしたら義昭自身は自らを、湊川で敗れながらも九州に落ち延びて再起した等持院(足利尊氏)になぞらえていたのかもしれない。


 では彼を奉じて上洛した織田弾正少忠(信長)は、『誰『というよりも『どの政権』を参考にしたかといえば、10代の復権を支え10年近く管領代として政権の座にあった大内おおうち義興よしおき、または12代・13代の元で政権の中枢に有り、管領のみならず将軍すら傀儡とした三好みよし長慶ながよしであろうと思われる。


 この両者には共通点がある。


 すなわち両者が在京している間に両国経営に不安を抱え、それが原因で政権が崩壊したことだ。


 前者は辞任して帰国することで領国立て直しに尽力し、ある程度持ち直したものの、その後2代して毛利陸奥守に『喰われた』)。後者は後継者の早世により家の屋台骨そのものが揺らぎ、お家が分裂する結果となった(今も続いている)。


 特に三好は摂津や丹波、和泉といった京の周辺諸国にある程度安定した支配拠点を持ち、堺の経済的支援がありながらも崩壊した。


 過去の政権の例に照らし合わせてみると、織田家は本貫である尾張はともかく、美濃はつい2年ほど前までは一色領であり、政情は安定しているとは言い難い。そして婚儀により同盟を組んだとは言え、東にはあの信玄入道である。


 ちなみに義昭が上洛した年の12月、甲斐武田家は駿河今川との同盟破棄を正式に宣告している。今川の嫁を迎えた嫡男を廃嫡し、自害に追い込んだ上でのことだ。


 なんとも頼もしい「同盟者」であることか。


「いやいやいや、ちょっと待ってくれ」


 将軍義昭が「御父上」とまで呼んだ信長の帰国の意思を聞いた際、どのように反応したかは記録が残っていないが、まさにこのような気持ちであっただろう。幕府の要職を打診した際に断った時の反応から「ひょっとすると」という懸念は存在していたのかもしれないが。


 それは時期は前後するが、将軍就任後の人事構想にも現れている。



 将軍義昭が信長に提示したのは「足利家の桐紋の使用許可」「屋形号の使用許可」「尾張守護・美濃守護・近江半国守護(旧六角領)」そして「管領代」であった。


 桐紋の使用許可は、室町幕府体制下ではこれ以上ない名誉である。


 屋形号は有力守護や守護代、功績のあった国人領主などに認められる敬称で、これにより主家にあたる斯波武衛家と同じく信長は「御屋形様」と呼ばれるようになる。また家臣にも烏帽子や直垂などを着用させることが可能となるなど、早い話、織田家全体の武家としての格があがることを意味する(それも幕府公認で)。


 つまり斯波武衛家の権威に頼らずとも、「織田弾正忠家」として一本立ち出来るというわけだ。


 武家の名誉はこれぐらいにして、実質的なもので言うと2カ国半の守護は異例の大判振る舞いともいえるが、現状における織田家の実効支配領域を追認しただけともいえなくもない。


 管領代は文字通り「管領の代理」。当の管領を空席としたまま代理を指名したのは、将軍権力を縛られずに、信長に幕府の重職を打診したという世間向けの姿勢ともとれる。上洛戦の際に立ちふさがり南近江を追われた守護六角氏が、かつて管領代であったことも念頭にあったのだろう。


 そうした点を差し引いたとしても、義昭としては自らの政権発足直後に、最大の功労者たる人物を「在京させたまま」幕閣に取り込む重要性は認識していたと思われる。


「辞退いたします」

「……今、何とおっしゃいましたか」

「辞退いたします」


 使者の三淵大和守があっけにとられる中、信長は「桐紋の使用許可」と「屋形号」を除いた全てを固辞した。


 これでは対外的に「名誉は受け取るが、実のない幕府の役職などいらぬ」と宣言したに等しい。


 いったいどこまでが信長の対外的な姿勢であったかどうかは定かではないが、とにかくその決意は固かった。慌てた幕府側が働きかけを強化し、朝廷を巻き込み、ついには危機感を持った将軍自らが説得に乗り出したものの、信長の回答は変わらなかった。


 美濃の領国支配化が軌道に乗ってもいない状況では、信長としては「在京」が条件となる複数国の守護は無論のこと、まして管領代など受けられるはずがない。これまでの政権の失敗を考えるなら「在京」を求められては本末転倒であったからであ


 る。交換条件として信長が旧三好家の差配していた和泉(堺を含む)の支配権を求め、これを義昭が受け入れるたものの、政権発足の最大の功労者の取り込みに失敗したとあっては、鼎の軽重が問われかねない。


「……そういえば武衛がおるではないか」


 人事構想に頭を悩ませる将軍の脳裏に、いつもにこにこして毒にも薬にもならぬ老人が思い浮かんだ。


 家柄と格式だけは文句のつけようがない斯波武衛家の当主。ほとんど独自の政治的な基盤を持たないというのが、幕閣内のどの政治勢力からも-なにより将軍家としても都合がよい。織田の主家筋を取り込むことで、世間的にも配慮を示したことになる。


 そうなると斯波武衛をどの地位につけるかだが……というよりも、ひとつの地位にしか就けないのだが。


 こうして武衛家としては、応仁の乱の西幕府管領の斯波義廉をのぞけば、6代将軍足利義教の下で管領であった斯波しば義淳よしあつ以来、なんと137年ぶりに就任した。


 織田信長の正式な任官(従五位下弾正少忠)に先立ち、斯波義統は兵衛左佐から兵衛左督へ、位階も従四位下へとすすんだ。位階に関してはなんと一挙に5つもあがり、歴代管領だった斯波氏当主のそれと並んだ。


 上洛戦においては馬の背で揺られていただけの老人にとっては、まさに法外とも言える恩賞である。


 信長の固辞した尾張・美濃守護は息子の斯波義銀に与えられた(近江は浅井氏に配慮して空白のまま)。同時に義銀もこれまた従五位下・治部大輔の官位を得た。


 これによって位階だけは信長と並んだ格好だが、この上おまけに義銀は侍所頭人を兼ねた。


 この役職はかつて美濃守護家の土岐氏が就いたもので、文字通り斯波氏が土岐の名跡を名実ともに継承したといえなくもない。


 このほかにも義統の弟である統雅むねまさが、和泉守護職にくわえて新たに外様衆に列するなど、一族から何人かが幕府の役職についている。



「体のいい厄介払いだろうのう」


 斯波高経が室町2代将軍の元に一族で繁栄を極めた以来ともいえる栄達であったが、一族の総領として幕府管領となり「在京」が義務付けられた斯波武衛は、極めて冷めた反応であった。


 何より信長からは通り一遍の祝辞以外は、これという反応がないことがすべてを物語ってる。


 尾張守護といえば斯波武衛というのが長く常識であった。まして弾正忠家は尾張守護代の家臣という立場から下克上を成し遂げた立場。そのためいくら信長が尾張を軍事的にも政治的にも統一していたとしても、公的な身分においては官位においても幕府の役職においても、尾張国内においては斯波氏の次という位置づけであった。


 それを官位は斯波武衛が上という体制は変わらないが、在京が義務付けられている管領に就任することで尾張から追い払えるというのなら、信長としても願ったりかなったりである。そのためには実のない幕府の役職など、いくら斯波一族にくれてやってもかまわないぐらいの判断はするだろう。


 しいて言えば和泉守護ぐらいが実のあるものであろうが、その下にあって堺代官や各奉行の人事を決め、これを差配するのは織田家とあれば、斯波氏に実があろうはずがない。


「とまあ、これぐらいのことは弾正少忠(信長)も考えているのだろうて」

「……それを上様に報告しろと?」

「その程度のことは大樹様とて、見抜き見通しお見通しというやつだろうな。むしろそんなことを報告してみろ。いらぬことを申すなと勘気をこうむるぞ」


 斯波武衛はあくまで善意から三淵大和守に忠告した。


 腹の中の化かしあいのはずが、互いが互いの手札を知っていて、なおかつそれでも知らぬ存ぜぬを続けながら試合を続行する。イカサマ博徒が裸足で逃げ出す茶番である。


「……武衛様はまさか」


 断りはしますまいなと大和守が目だけで問うと、斯波武衛は何とももったいぶった調子で懐から扇子を出してばさりと開いた。


 そこには見事な筆運びで『受諾』と書かれてあった。


 どこまでも人を喰った対応に、三淵大和守の額に青筋が走った。


「幕府の面子は立つ、織田は実利を得る、わが武衛一族は名誉を得る。誰も損をしない、なんとも素晴らしい人事ではないか。喜んで受け入れようぞ」


 ぱたぱたと機嫌よく扇子で自らを扇ぎ始めた武衛に「その言葉が聞ければそれでいい、自分の仕事はこれで終わりだ」と自らに言い聞かせた大和守は、藪をつついて蛇を出す前にさっさと辞そうと腰を浮かす。


「しかしだ」


 それを武衛はと呼び止めた。


「いくら尾張から出て行こうとも、私が織田三郎の上役であることには変わりないのだよ」

「……?確かに官位はどちらも弾正少忠様よりは、武衛様のほうが」

「違う。そうではない」


 「そういうことではないのだ」と斯波武衛は手にした扇子を閉じて畳を指し、何度かゆっくりと首を左右に振る。


 官位も幕府の役職も確かに重要だが、いわば形式に過ぎない。形式だけにこだわりすぎた結果が、今の室町の有様ではなかったか。


「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず。これまた逆も真なりということだ」


 「おっしゃる意味がよくわかりませんが」という三淵大和守に、斯波武衛は笑いかけた。


「わからんでもいい。わかるはずもないからな……しかしな大和守よ。私は尾張から出て行こうとも、たとえ将来において官位で三郎に追い抜かされようとも、そう簡単に『織田信長』の君たることを止めたりはせんぞ?」


 「何せこんな面白い役割が、この世に二つとあろうはずがないからの」と、斯波武衛はあっけに取られた顔の三淵大和守の前で哄笑した。



 さて「帰る」「帰らないで」「ちょっとだけだから、せめて畿内の情勢安定するまで」「いや帰る」「そんなこといわないで」「いや帰る」-という朝廷に幕府と織田家という三者が入り乱れた綱引きの結果、帰国を選択した信長であったが、本圀寺の変により、畿内の情勢に関する自らの見通しの甘さを認めるしかなかった。


 そのため将軍の御在所として新たに二条城を築城し、自ら普請工事を指揮する一方、山城の周辺諸国に積極的な軍事介入を行った。


 何せ相手は将軍に刃を向けた反逆者である。大概の無茶は許された。


 まず手始めに摂津に出兵。三好三人衆に属した勢力を討ち、親幕府派を守護とした。


 または和泉においては三好三人衆を支援した堺に武力介入をちらつかせて代官を派遣。返す刀で播磨守護赤松氏の一族である赤松下野守の要請を受けて、播磨に出兵するという具合である。


 8月には畿内平定の締めくくりとして木下藤吉郎(秀吉)に命じて但馬を攻め、守護山名氏を降伏させた。


 ところでこの間の出兵において、織田家はかつての天下人たる大内・三好の両家とはかなり異なる姿勢を示している。


 すなわち武家によって横領された寺社領の返還である。


 長門・周防が本拠地の大内氏や、畿内に地盤があることから寺社勢力との対立を避けたい三好氏は、可能な限り迅速に横領された所領を元の持主たる寺や神社へと返還するように務めた。


 これは当時の知識階級であった寺社への世論対策もかねていたと思われる。


 ところが織田家はどうかといえば、これがかなり色合いが異なる。


 たとえば先年の美濃制圧に、時の帝より「御料所の回復」を求められた信長の回答は-


 「まずもって心得存じ候」(前向きに善処いたします)


 これは信長が朝廷を軽視していたことを意味しない(軽視していたのならそもそも回答しない。そのような例はいくらでもある)。


 そもそも織田弾正忠家は美濃を領有したはいいもの、そもそもどこに誰が所領を持っているのか、それともいないのか。それすら確定していない状況の中で美濃攻略に功績のあった家臣には恩賞を与えなければならない状況にあった。


 その過程で上洛戦に望まざるを得なかったわけだが、そんな中で先に御料所の回復を約束すれば、当然ではあるがその分だけ国内政策にしわ寄せが来る。


 15歳で家政を代行して以来、正室と寄り添った時間とほぼ同じ間だけ領地問題に悩まされてきた信長は、この手の問題には極めて慎重であった。


 この方針は永禄12年(1569年)の正月より始めた畿内制圧作戦でも踏襲したと思われる。


 すなわち三好方が横領していた寺社領に元の主より返還要求が出されても、すぐにはそれに応じなかったのだ。


 この時の織田家はあくまで反幕府勢力の打倒を名目としており、各守護や国人などへは協力を要請するという立場であった。おまけに織田弾正大弼自身は幕府の役職には就いていない。相手に対して返還を約束出来るだけの法的根拠もなかったのだ。


 むしろ信長が口先だけでも「すぐに返します」とでも宣言しておけば、それほど大きな混乱にはならなかったのかもしれない(何れもっと手ひどいしっぺ返しをうけたであろうが)。むしろ多くの戦国期の領主はそうして口約束を繰り返し、いざとなれば軍事力により横領することで勢力を拡大してきた。


 ところが信長という人物は、きわめて約束事に対する認識が潔癖であった。


 これは日本有数の経済都市を地元に抱え、契約とは相互の信頼関係があって初めて成立するという商慣習に影響されていたのかもしれない。


 こうした信長の寺社領返還への慎重な姿勢は、当然ではあるが知識階級たる寺社勢力にも伝わる。彼らがそれをどう受け取ったかは-さほど間を置かずして明らかとなった。



 畿内における反幕府勢力の掃討作戦が評価され、織田信長は3月には正四位下・弾正大弼へと官位を進めている。これで位階は旧主たる斯波武衛と並ぶことになった。


 まさに順風満帆、室町幕府と織田弾正大弼の前には敵なし。永禄12年はこのまま再統一にむけて大きく前進する年と……


 ならないのが世の常というものである。


「というわけで、この辺りで管領を辞したいのですが」


 完成したばかりの二条城における祝いの席で突如として管領が言い放った言葉に、将軍を始め参加した幕閣や守護、奉行衆などは言葉もなく、ただ発言の主を見返すばかりであったという。



堂々と嘘かけるって楽でいいですね(おい)論文じゃこうはいかない。


義昭と信長の最初のやり取りは大筋を除いてすべて付加(捏造)したものです。

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