☆95 君に生まれつき胸がなくても
――邪神。
おぞましく、残酷な響き。
その単語を聞いた瞬間、場の空気が凍るのを感じた。
隣に立っていたトレイズの気配が変わるのが分かる。一瞬にして殺気だった彼女は、イライラとした調子で言葉を発した。
「はあ? マケインから邪神の匂いですって?」
武神は口元を隠す。
「そなたが分からないのも無理はない。食神は生まれが汚れておる故な」
「これ以上無駄口を叩くとぶっ殺すわよ!」
マケインはぞわりと背筋が寒くなる。
振り返ると、愉快そうに口端を上げた魔神が目に入った。
「そうなのね、そうなのね……あなた、邪神によってこの世界へ招かれたということ……、彼女は眠っているはずなのに一体どうやったのかしらァ……」
「意味が分からな……」
「マケイン・モスキーク。あなたの運命はトレイズ神と深く絡み合っているわ。その根源は想像以上に根深い……それがこの世界にとっていいことなのか悪いことなのかはまだ分からないけれど、ふふ」
キシャナは唇を舐める。
妖艶な雰囲気を漂わせながら、視線と口を動かした。
「少し、昔話をしましょうかァ」
「まって! 旦那様になにを話すつもりなの!」
「全てではないけれど、彼も知っておいた方がいいでしょう」
殺気を迸らせるトレイズを落ち着かせるように、マケインは彼女に触れた。ゆっくりと手を握ると、食神はびくっと怯えた目になる。
「この世の邪気に汚染された邪神は、トレイズ・フィンパッションの双子の姉であるのよ。元々、食神と邪神は双子の姉妹関係なの」
「だからさっき……」
「そう。破壊を司る邪神の名は、ミューシャ・フィンパッション。彼女は絶望の象徴。余りにも危険なので今は十の神宝石によって時空の狭間に封印されているわ」
マケインは、息を呑んだ。
いつか見た夢の断片を思い出す。地を這うような狂った笑い声。鮮血よりも赤い唇から放たれる呪詛。
美しくも呪われた少女。
「なんで俺がその、邪神に呼ばれてこの世界に来たんですか」
「今は分からない。ただ、トレイズがここまであなたに執着しているということは、呼ばれた理由もそれに準じたものであることが予想されるわねえ」
「俺は邪神の恋人になんかにはならない!」
暗い瞳で俯いているトレイズの手を握ってマケインは叫んだ。
絶望と破壊の象徴の邪神。何故かマケインがその存在に気に入られているとはいえ、そんな危険な存在と関わり合いになりたいとは思えない。
こんな可愛い恋人を放り出して邪神の恋人になるはずがない。あり得ない。
「考えただけで反吐が出る。俺には家族もトレイズがいるんですよ。みんなさえいれば、俺は後はどうでもいいんです。そんな破滅的危険人物とわざわざ仲良くしたいはずがないじゃないですか」
「……君はあれを人と呼ぶのか」
武神が驚きの表情となる。
マケインは怪訝に思いながらも、こう言った。
「だって、どんなに迷惑な存在でも一応人格はあるのでしょう。いや、神様かもしれないけど」
「…………そうか」
しばし、何か考え込むような顔つきとなったオグマ。
キシャナは楽しそうに話す。
「ねえ、この子に賭けてみましょうよ。もしかしたら劇薬かもしれないけれど、この停滞した状況を変えてくれるかもしれないわァ」
「それはスキルを渡すということか」
「そうね。だったらこういう条件はどう? もしもこの子が大なり小なり英雄としての功績をあげるようなことがあったら、その時は私たちも役に立つスキルを渡す、というのは」
「ふむ、なるほど」
マケインは驚きに目を見張る。
「い、いいんですか!?」
「あなたの存在が善悪のどちらに転ぶかは分からない。そもそも善も悪も二面性を持つもの。私たちは人の一生を決めることはできない。ただ、加護を持たずして英雄になれるほどの器であるなら、こちらも歩み寄らないでもないわ。何より、この異界の料理はとても美味しいしねえ」
とろりと蕩けた眼差しでキシャナはフライドチキンを見る。熱のこもった視線でよだれを拭った。
「口の中に広がる揚げた鶏のうま味……なによりこの香ばしいニンニクとパリパリの皮がたまらないわ。一度こんなの知ってしまったら価値観が変わっちゃう。ねえ、トレイズなんかやめておねーさんの愛人にならなぁい? ただれた夜を教えてあげる」
ボンキュッボンなどエロイ魔神の誘いにつばを飲み込むマケイン。反してつるペタ代表美少女、トレイズが金切声を上げた。
「冗談じゃないわ!!」
「いやあね、そんなに怒らなくてもいいじゃない」
「むきーーーーっ」
ひっかこうとしているトレイズを抑え、マケインは笑う。
「それはいつか機会があったらお願いします」
「機会なんてないわよ!! 死んでもないわよ!」
一応心はトレイズに捧げちゃいるが、エッチなおねーさんとのあっはんうっふんが魅力的なのは否定できない。つくづく男とは欲に忠実な生き物である。
(……というよりは、俺が誘惑に弱いだけかも?)
マケインは思った。もしもこの先女の子に迫られたら、ちゃんと断り切れるだろうか、と。
(そもそも、この先リリーラのことはどうしたらいいんだろう)
トレイズと両想いになっても問題は山積みだ。なんとなくリリーラ・ベルクシュタインは自分のことを諦めないのではないかという嫌な予感がする。
しばしマケインはなんとも言えない気分になったところで、景色が薄れていくのが分かった。
霧が晴れるように二柱の姿が消えていく。夢見心地のふわふわした感覚から、麻酔が切れたときのように胃のあたりが重くなった。
トレイズ、と声をかけようとしたところで、彼女が泣きそうな顔をしていることに気付いた。
(まさか、俺がおねーさんの誘惑に屈しそうになったからか。いやでも、あの巨乳を目にすれば男なら誰でもぐらっとくるのは仕方のないことであって)
「トレイズ」
彼女が長いまつ毛を上げる。
「マケイン……あなたは、私のことを蔑む? あたしの生まれのこと、聞いたでしょう」
そうか。トレイズは不安なんだな。
魔神との会話で自分に自信が持てなくなっているんだろう。
震えた声で尋ねられ、マケインは少し考えたあと、
「俺は魔神のおねーさんと違ってトレイズに生まれつきおっぱいがなくても仕方のないことだと思ってるよ。俺は紳士だから愛に胸の大きさは関係ないんだ」
そうサムズアップして答えた。
気まずい沈黙が流れる。
先ほどまで切なそうな顔をしていたトレイズ・フィンパッションはにっこりと静かに笑った。そして、マケインのむこうずねを――これでもかと力いっぱい蹴り飛ばしたのであった。




