☆94 武神と魔神との邂逅は、刺激的すぎる。
ふわふわとした夢見心地で道中を歩いた。
トレイズと二人、笑いながら手を繋いで回廊を進む。ぐるぐると混迷とした裏道を歩き、やがて誰もいない大廊下へと繋がった。
絢爛豪華とはこのことだ。この世とも思えない贅の限りを尽くした芸術で飾られたその建築物は、どうにも現実味に欠けていた。
金銀サファイヤ、オパールを砕いて絵具にして書かれた神々の姿。その一体に桜色の髪の女神を見つけ、マケインはじわりと心に何かが滲む心地となる。
嘘のようだ。
神話に出てくるこの女神が、今は己の恋人として隣に立っているだなんて。
「トレイズ」
「あたしはもっと綺麗だわ」
照れくさいのだろう。彼女はそう呟いた。
「「こちらが奉納の間でございます」」
そう言って。そこまで案内をしてきた使者は煙のように姿を消した。
ここから先は、トレイズと二人。二人で行かなくちゃいけない。
一人ではない。だけど、こんなに不安になることなんてあったろうか。カラカラになった喉を鳴らすと、振り返る前に背後で扉が勢いよく閉まった。
瞬きの間に、部屋の中央にそびえていた祭壇はぐにゃりと形を変えた。吸い込まれるように辺りが目まぐるしく変化していく。
マケインは息を呑んだ。
手のひらには温もりがあった。変わらぬ彼女の体温に安堵した。
ああ、良かった。トレイズは一緒にいるんだ。
視線を上げると、そこには老人が二人立っていた。不思議なほどに無機質なその表情。見かけ以上の並々ならぬ威厳を感じる雰囲気を放っている二人組だった。
一人は老爺。一人は老婆。
マケインは突然、己の全身がガタガタと震えたのを感じた。放たれている殺気への魂の奥底からの震え。頭の上から大きな力で押さえつけられている。そんな感覚に襲われた。
恐れで言葉を発することができない。一瞬でこちらのことなど破壊してしまえるほどのプレッシャー。
「……何年振りか、食神よ」
「おやおや、随分久しぶりにお会いしましたねえ」
トレイズは不遜にあっかんべーをした。
「ふん、あたしはアンタたちになんて会いたくもなかったわ」
その態度にマケインは驚愕する。
しかし、とても口を開くことができない。目の前の老人二人への恐れに口を支配されたかのようだ。
「……あれほど可愛がってやっているというのに、相変わらずの態度じゃな」
「アンタたちのそれは、見下しているっていうのよ」
「それは誤解ですよ、私はトレイズ神。あなたのこともちゃあんと慈しんでおりますとも。博愛とは罪人にまで平等に与えられるものですから」
辛辣なやり取り。
トレイズはぴくっと眉根を上げた。
(……罪人?)
マケインは疑問に思う。
「人を生まれで差別しておいて、よく言えたものだわ。この話は忘れましょう」
「そうですね」
「……その子どもは、そなたのいとし子か。全く、人間の幼子一人に魂を売って、勝手な独断で現世に受肉するなど、とうとうとち狂いおったか。トレイズ・フィンパッション」
不機嫌そうな老爺の言葉にマケインは引きつった。
(……す、すっごい怒ってらっしゃる――――!!)
考えてみれば当然のことだった。
どうやら、彼ら神様サイドはトレイズが相談もなしに神界を捨てて現世に降臨したことを憤っているらしい。
……そりゃそうだ。
そりゃあそうだ!
「トレイズ、謝った方がいいって」
マケインが必死の思いで話すと、トレイズはソッポを向く。
「いいえ、あたしは悪くないもの。だって、占神なんて年がら年中行方不明になっているのよ。居場所が分かっているだけあたしの方が相当マシじゃない」
「根無し草の占神はいいのだ。元々我らが縛れる定めではない」
「そうですよ。特にあなたは我々の特別なのですから、勝手な行動をされるのは困ります。神が不用意に人間界に介入すれば、世は荒れるのですよ」
「黙ってちょうだい。マケインは何も知らないのよ」
「……ほう?」
なんの話をしたらいいのか分からない。だが、完全にこちらに落ち度がないということもないのだろう。
とにかく懸命に真っ赤な顔でマケインは勢いよく頭を垂れ、持ってきた料理を差し出した。
「ァ、あの……! 武神様、魔神様! こちらは俺が作った奉納品の料理です! できれば……召し上がっていただけると!」
「ふん、この殺気の中でも、物を言うことができるとは。度胸だけは認めてやろう、人の子よ。話より先に名乗る方が先か」
老爺は視線を動かし、つむじ風と共に姿を変えた。
鍛え上げられた細身の身体に鎧をまとった、美貌の青年が顕現する。白髪に灰色の目。変わらないのは不機嫌そうな氷の表情だ。
「……この姿を只人へ見せるのは半世紀ぶりだ。我は武と鍛錬の神。オグマ・モドラという」
同時に姿を変えたのは、老婆も同様だ。
白い霧と共に流れるようなドレスと豪奢な杖を持った、豊満な体つきの肉感的な美女が現れる。張りのある二つの大きな乳房に細い腰。妖艶な雰囲気を漂わせた泣きぼくろの若い女性だ。
「オグマが関心を持つだなんて珍しいことがあるものですねえ、ふふ。私の名は、キシャナ・ペカトリーネ。万物の具現を司る魔神です」
恐らくこちらが本当の姿なのだろう。
マケインは息を呑み、慌てて地面へと額を擦り付けた。土下座の体制で、ひたすら真摯に頭を下げる。
びりびりとした威圧感、その中でもトレイズは悠然と立ち続けている。背筋を伸ばし、食神はにまりと微笑んだ。
「これは、一次関門は突破ってわけ」
「それ相応の戦士としての度胸と丹力がなければ上位者の神の御前で言葉を発することはできぬ。少なくとも、未熟なところはあれど神と対するに不足しているわけでもなさそうだ」
「そうですねえ、この悠久の中でオグマが矮小な人の子を気に留めるだなんて珍しいことですよお」
マケインは強張った口を必死に動かす。
「あ、ありがとうございます!」
「それで、こちらが件のお供え物ですか」
指先で興味深そうに魔神・キシャナがフライドチキンをつまむ。
「随分特異な見た目をしていますね。それにこの匂い、ふうん」
魔神は何気なく揚げた鶏肉を口に運んだ。そして、驚きに目を見開く。トカゲのような表情で視線を動かし、妖絶に笑んだ。
指先一つでマケインの肉体を呼び寄せ、しゃがれ声で囁く。
「……小僧、この料理をどこから着想を得ましたあ?」
「……ぇ、」
「並列世界太陽系アースのF系列。そこに似たような文化があったのを以前知神から聞いたことがあります。そこでは、確か食物を芸術として調理するとか……あなた、もしや異世界の記憶があるのではないですかァ?」
その言葉に血の気が引く。ぐらぐらと煮え立つような息苦しさ。
首根っこを掴まれた酸欠にマケインはあえぐ。
「旦那様に何をするのよ!」
血相を変えたトレイズが叫ぶ。
「あなたは黙っていなさい! 仮にも食神を名乗るくせに、この子どもの特異さが分からないだなんて……」
「分かっているわよ! マケインがおかしいことぐらい分かっていたに決まってるじゃない!」
そこで、武神が魔神を静止する。
「キシャナ、そのままでは子どもが死ぬ」
「…………!」
深く溜息をつき、ようやく魔力の拳で握られていたマケインの首根っこへかけていた力を魔神はゆるめた、ロングヘアを振り払い、キシャナ・ペカトリーネは憂鬱そうに呟く。
「ありえないのですよ、高度異文化世界の魂を持つ只人だなんて……」
「キシャナ。いっそ、ここで殺してしまうか?」
「…………いえ、この世に生まれてしまったものは仕方ありません。死と生は癒神の領域。トレイズ神のように存在の次元を落とさぬ限り、私が汚れへ踏み込むことはできません」
荒い息で呼吸をしているマケインに、そこで魔神は微笑んだ。
「よくもまあ無事に生まれてこれたこと、驚きです。異世界の魂とこの世界は、本来位相がずれています。神に匹敵する何者かが変換をしない限り、無事に産まれてくることなど……」
「これは」
魔神と武神が驚いた。
「……何故この子どもから眠っているはずの邪神の匂いがするのです?」




