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☆82 報告と告白




伯爵との約束の期日は、意外と早く訪れた。

荷造りの済んだ鞄。軽装のドレスに身を包んだリリーラが、落ち着き払った態度でスカートの裾をつまんだ。


「お世話になりました」

「いやはや、寂しくなりますな」

顎鬚を撫でながらルドルフ・モスキーク男爵は苦笑する。


迎えが来るまでの時間、マケインは何度も刻限を確認しようとしていた。この世界の時計は精度が低く、貴族といっても貧乏なモスキーク家は広場から聞こえてくる鐘を目安に生活をするしかない。

最初はなかなか慣れないものがあったが、今ではなんとなく体感時間というものが身についてきたように思える。人間は環境が作るのだ。


「あなた、引き留めてはなりませんよ」

その妻であるマリラが言った。


「うぐ、」

「いくら親しくさせていただいたとはいえ、このお方は伯爵家の姫君なのだから。少しはうちのマケインはお役に立てたでしょうか?」

問いかけられ、リリーラはにっこり笑った。


「それはもう。ここでは得難い経験をさせていただきましたの。マリラ様、私、一人で美味しいスープを作ることができるようになりましたのよ」

「まあ、そうなのですか」

いまいちピンときていない様子のマリラに、金髪の巫女はくすくす笑う。いつになく上機嫌の姿にマケインはどことなく不穏なものを感じた。

何故だろう。このままで終わらないような予感がするのは。


「いっちゃやだ!」

「もう、わがまま言ったらダメよ」

ルリイとミリアがリリーラに抱きつこうとする。


「大丈夫ですよ、きっとまた会えます」

メイド服を着たエイリスが、聖母のように微笑む。山ほどの荷物を片づける仕事をしてくれた彼女に、マリラがお礼を言った。


「ありがとうね、エイリス」

「この私に任せてくだされば百人力です!」

誇らしげにエイリスは胸を張る。


「またっていつ?」

「ルリイ様が素敵なレディになったら、ではないでしょうか」


その言葉を聞いて、リリーラは咳払いをした。

視線を明後日の方向に向いている巫女様は、「そ、そうですわね。それほど遠くはない未来だと思いますわよ」


「本当? 約束よ?」

今度はルリイを諫めていたはずのミリアが身を乗り出す。本心ではこちらもリリーラにいなくなって欲しくないのだ。

笑顔を返したリリーラは、駆け寄ってきた双子を抱きしめた。


神様らしい恰好のトレイズ・フィンパッションが固い表情で部屋に入ってくる。その気配に巫女は頭を下げた。

「いいの、緊張しないで」

「しかしながら、トレイズ様……」


「思えば、あたしも随分と大人げない態度をとっていたと思うわ。綺麗なあなたにはマケインを取られてしまうような、そんな妄想を抱いていたのよね」

「…………」


「あなたさえ許してくれるなら、別れの前に神からの、その、祈りをね。贈らせて欲しいの」

「……この身に……余るお言葉ですわ」

「汝、リリーラ・ベルクシュタイン。貴女の旅路にトレイズ・フィンパッションからの細やかな祈りを」

目を伏せたリリーラが何を考えているのかは分からない。けれど、恐らくは感激に震えているのだろうと想像に難くなかった。


その時、正午の鐘が鳴った。

近くにいた鳥たちが羽ばたく。場の空気が変わる、そんな風が吹いた。天からは白い日光が注ぎ、その中を一台の馬車が立てるヒズメの音がする。

屋敷の玄関に、黒づくめの上質な背広を着、同じく黒い帽子を被ったベルクシュタイン伯爵が現れた。

リリーラの父親だ。

「我が娘よ、久しぶりだな」


「御父様」

いつになく機嫌の悪そうな伯爵は、杖をカタカタさせながら唸る。


「ここまで多忙な身の私が迎えに来たのだ。このモスキーク家でトレイズ様の側に置かせてもらえて、少しは嫁入り修行が身についたか?」

「はい、けれどいいえ、御父様」

リリーラは仰々しく頭を下げ、強い意思の宿った瞳でこう返した。


「御父様はお料理を学んでくるようにと容易くお命じになられました。しかしながらこの技術は知神のご加護を抱く私にしても到底一朝一夕に学びきれるものではございません」


(いや……もしかして、喜んでいるのか?)

マケインは彼女の変化に気が付く。

父親の前に立ったリリーラは明らかな歓喜に満ちており、頬はうっとりとバラ色に染まっていたのだ。

まるで恋する乙女だ。


「マケイン様の料理は、この世に存在する前時代の体系とは全く異なるアプローチによるもの! つまるところ、未だ私が直面したことのない未知!! そのものでございますれば!」

「ほう」


「確かに彼は剣や魔法に関しては凡才の域を出ないやもしれません。しかし、この歳にして私の指導で希少な氷属性を発現させ、ブラックサーペントの討伐に貢献いたしました。竜を倒したことも納得させる武勇ですわ」

「…………」

僅かに驚いたように伯爵はマケインを見た。その真っすぐな眼差しに、少年は居心地の悪さを味わう。


「なるほど。私は些か貴殿を侮っていたようだ。まさか食神のご加護で氷属性魔法を習得するとは」

皮肉めいた響きだ。その余韻が消える前に、間髪入れずリリーラが大声を出した。


「彼こそ、マケイン様こそ私が望んでいたお方ですわ!」

「ん?」

その空間にいた全ての人間が鳩が豆鉄砲を食ったような表情になる。

リリーラは金髪を翻してマケインの腕をとった。そうして、抱きつくようにすり寄った後、悲鳴のような声で叫ぶ。


「父上! リリーラはマケイン様の下にこそ嫁ぎとうございます!」

辺りの空間が凍り付く音がした。


「マケイン様こそ、未知を体現している異性はおりません。一生かけて、このお方の見る景色を共に見ていきたいのでございます!」

「何を言っておるのだお前は!」

ぎろりとベルクシュタイン伯爵に睨まれ、マケインは叫んだ。


「誤解です! 俺は手を出していません!」

「そういう問題ではない! うちの娘が何を言っているか分かっているのか!」


「大丈夫です! 俺はリリーラさんとは結婚する気はありませんっ 正直、可愛いとは思うけど我がままな女の子には困ってないんで……」

「リリーラでは不足と申すか!?」


「伯爵令嬢じゃ格上の家すぎるんですよ! モスキーク領なんて本当に何もないんですよ!? 草と川しかないんですから、幸せになんかできませんって!」

マケインの反論に、伯爵は顔が怒りで赤くなっていく。


「……本当に無礼の数々申し訳ありませんうちの倅が!」

その時、ルドルフによってマケインは無理やり頭を下げさせられた。今にも沸騰しそうになっている伯爵に、その後ろの方から笑い声が聞こえてくる。


そこには、ほっほと愉快そうに笑っているダムソンが立っていた。どうやらタオラが連れてきたらしい。老人はドングリみたいな瞳をきらめかせ、伯爵へと声を掛ける。


「そろそろ素直になったらどうじゃ? ベルクシュタインの小僧や」

深々と、伯爵は絶望的な溜息をついた。





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