☆78 戦闘準備
ブラックサーペントを倒す応援は来ない。今回ばかりはモスキーク領の自分たちでどうにかしなくてはいけない。
それでも、この領内には獣人の傭兵団がいる。マケインが使えるようになった拙い魔法だってあるし、ルドルフは剣の名人だ。
なんとかなる。なんとかするさ。そうじゃなくちゃ、もう後戻りなんてできないだろう?
「マケイン!」
戦支度をしているマケインの所に来たのは、トレイズだった。
印象的な萌黄色の瞳は今にも泣きそうになっている。そんな彼女を見て、マケインの胸中は否応もなくざわめいた。
彼女は涙をこらえながら切に叫んだ。
「まさか、貴方までブラックサーペントの討伐に参加するだなんて云わないでしょうね!」
「仕方ないよ、今回は俺の失態でもあるんだから」
そう、これはマケインの失敗だった。
上位の貴族から恨みを買った。やりすぎた。人が集まったタイミングを狙って行われた報復を、未然に防ぐことができなかった。少年の甘い楽観が産んだ事件だ。
「死ぬつもりなの!?」
ぎゅっと縋りつくように服の端を握りしめられ、マケインは苦笑が零れた。胃のあたりは今にも吐きそうなくらいになっていたけれど、それをこの女神に悟られるわけにはいかない。
「いいか、少なくとも俺の周りには獣人の元傭兵部隊がいる。父上だって戦場には参加するし、覚えたての氷属性魔法だってあるんだ、なんとかなるだろ」
「信じられない、そんなの何の保証にだってならないわ。いいこと、あたしにとって貴方は唯一無二の存在なのよ」
「そんなの、犠牲になった村人達だって同じことだったはずだ」
そうだ。彼らにだって家族や親友はいた。
人間の命はたったの一つだって代わりの利かない存在なのに。
だんだんキリキリと腹痛がやって来て、マケインは顔を曇らせた。
「それに、カラット子爵をみすみす帰したのだって納得がいかないわ! あんな奴、捕まえてさっさと情報を吐かせて拷問しながら殺してしまえば良かったのよ!」
「仕方ないだろ、証拠もないのに貴族を罰するわけにいかないんだ! 上位貴族への私刑は重罪だぞ。あそこでトレイズの存在がバレてしまう方がよっぽどデメリットが大きかったし、ベルクシュタイン家が代わりに家を潰す勢いで制裁を加えてくれるって……」
「そんなの、言い訳よ」
トレイズは膨れ面となった。
宝石のように光の加減で色合いが変わる瞳が、こちらへ向く。その眼圧の強さに、マケインは溜息をついた。
「トレイズ、ここでブラックサーペントを放置したら、モスキーク領は壊滅的な被害を被ることになる。そうなったら、君の安全を確保できるか分からない」
「あたしのことなんて、どうだっていいわ。ねえ、逃げましょうよ。マケイン」
「帝国に向かって川でも渡れっていうのか」
「神であるあたしの口利きがあれば、帝国もあたし達を受け入れてくれるはずだわ」
魅力的な提案。悪魔の囁きにマケインは横に首を振る。
「それはできないよ、そんなことをしたら、我が家の関係者がどうなるか……」
フッと笑みを作り、マケインはトレイズの手を力いっぱい握った。柔らかで労働を知らない肌に触れ、こう呟く。
「守りたいんだ」
こんな気持ちになったのは初めてだ。
前世でも、ここまで大切に思う相手なんていなかったと思う。なんだかんだで自分は転生した後の今の生活が好きで、この新しい人生に愛着を持っていたのだ。
「確かに俺は料理以外取り柄なんてないよ。トレイズのことも、本当はどんな気持ちで一緒にいるかなんて確証がない。だけどさ、それと同じくらい君のことを命がけで守りたいって感じるのも真実なんだ」
「…………っ」
少女の眼から涙が散る。
「ひどい……ひどい人。あたしがこんなに言っているのに」
「トレイズだけじゃないよ。ルリイも、ミリアも、エイリスも、タオラやリリーラ、マリラ義母さん、父上やその他のみんな、このモスキーク領にいる全ての人たちを守りたい」
ホントは勇気なんてないけれど。
ないはずの自信を取り繕い、日本人らしい愛想笑いを青白くなりながら浮かべる。
「――死なないで」
「死なないよ」
まだ成長期の最中のマケインよりも今のところ頭一つ背の高いトレイズは、少し屈んでその額へそっと口づける。
聖なる乙女のキスに、マケインはなんだか鼻の奥が熱くなった。
うわ、なんだか男なのに泣きそうだ。
なんて返事を言ったらいいだろう、未だ女性経験のない少年が気の利いた一言が浮かばず悩んでいるうちに、後方から誰かに声を掛けられる。振り返ると、急いで踵を返す。
「……じゃあ!」
トレイズは、不安を堪えて小さく笑った。
「いいか、ブラックサーペントが現れたら、とにかく何も考えずに氷魔法を放つのじゃ。そなたの魔力量なら、そのまま無事に終わるじゃろう」
「本当に?」
ダムソンのアドバイスに、お古の鎧に着替えさせられていたマケインはオドオド応えた。着なれない重みがやけに心臓に圧し掛かる。
「だって、相手は大型モンスターなんですよ? 本当に、それだけでいいの?」
「いい機会じゃ、自分の規格外さをとくと実感してくるとよかろう。本来なら、マケイン殿の魔力量は王国へ従軍するべき大きさじゃ。コントロールの甘さは、来たと思った方向へどかーんじゃ」
「ええ……」
引きつったマケインの表情に、ダムソンはウインクをして見せる。
隣に控えている今にも倒れそうな顔色のドグマは、逃げ出したいのを必死に我慢しているのが見え見えだ。
「ドグマ、お前、今にも吐きそうな顔をしているな。大丈夫か」
「いえ、その辺りはもう平気です。マケイン様」
「意外と肝が据わっているのか?」
「……既に胃が空っぽになった後でございますので」
つまり、とっくに恐怖で嘔吐した直後ということだ。
荒事に慣れていない従者の少年の虚ろな笑いに少し同情してしまったマケインは、ドグマの肩を優しく叩く。
その時、開いたドア。入ってきたのは女性物の鎧を身にまとった虎獣人のタオラだ。金の耳を不機嫌そうに動かし、尻尾で床を打った。
「……こいつ、むしろ足手まとい。私が、マケインを守るわ」
「期待してるよ」
口だけではない。わりと切実な言葉だった。
こと、接近戦においてマケインはタオラに逆立ちしたって敵わない。なんていったって彼女は武神の加護を頂いているのだから。
マケインは思った。トレイズに文句があるわけではないが、食神のご加護でブラックサーペントと対峙するというのは甚だ無謀な真似だと。
(俺は守れるだろうか。みんなを、そして領民を)
目を瞑れば――桜色の髪をなびかせた一人の少女の横顔が浮かんでくる。
この想いが恋かどうかは分からない。けれど、トレイズのことを考えると何故か胸が締め付けられるのは何故だろう。
支度を終え、がやがやと騒がしい本陣へと乗り込むと周囲の注目が一斉に集まるのを感じた。
「……勝たなくちゃいけないな」
「そうだ、我々はなんとしても勝たねばなるまい。このまま招待した貴族関係者たちが全滅することだけは避けなくてはならない」
モスキーク家当主。ルドルフ・モスキーク男爵は顔相を強張らせて唸る。
「マケイン。いくら子どものしたこととはいえ、お前が企画した事業がそもそもの発端だ、流石にぬくぬくと安全な場所で待っているわけにはいかないことは分かるな」
「承知しています」
「場合によっては、幾人かの命を落とすことにもなりかねん。しかしながら、刺し違えたとしてもこのルドルフ、領民を守る貴族の務めとして必ずやブラックサーペントの首を獲って参ろうぞ。
逃げる場所もないのならば、窮鼠猫を嚙もうではないか」
「父上……」
駄目だこの人、貴族のくせに最前線で出張る気満々だ。
マケインは心の奥で冷や汗をかく。
「しかしながらマケイン、お前はケジメの旗頭として戦地に行くのは仕方なくとも奥にいろ。戦い自体は慣れた者に任せるのだ。食神のご加護を持っているとて、お前はこの男爵家の跡取り。一度に当主と後継両名とも殺されるようなことがあってはならぬ」
「……多分、俺にだって戦えます」
「冗談は休み休み云え! まともに剣を振れぬお前が最前で戦えるはずもなし!」
マケインはどもる。……そういえば、父の前で氷魔法を見せたことは一度もなかったのだった。どうにか説得できる言い訳はないかと探したが、そもそも制御できていない魔術に本当に価値があるのかすら怪しかった。
目を右往左往していると、ダムソンが笑ってルドルフに話しかける。
「失礼ながら、ご子息の魔術の腕をご存じでないのかの」
「魔術? そんな大層なものはうちの息子は使えるはずがない」
「いやいや、子どもとは親の知らぬうちに成長してゆくもの。マケイン殿は国内でも有数の氷魔法の使い手でありますぞ。そして、総じて蛇は寒さに弱い生き物じゃ。むしろ、発動した未熟な制御の魔法の威力に巻き添えにならないことを心配した方がよきかな」
「そんな、馬鹿な……」
懐疑的な灰色の眼差しを受け、マケインは自信がなくなって俯いた。
「とにかく、そんな戯言は俺は信じない。魔術だかなんだか知らないが、魔物討伐で最後にものを云うのは剣だ。実戦で頼れるのは武術なのだ」
「素直じゃないのう……」
ダムソンは呆れて溜息をついた。
まったく、これだから脳筋は困るのだ!!




