☆76 集う貴族家の使者
開いたパン屋兼カフェの店舗。
香ばしい小麦の香り、お茶の湯気が店内に充満する。
飛ぶようにパンはどんどん売れていった。
貴族の召使いとしてやってきた人間たちは興味深そうにパンを試食して目を見張る。焼いても焼いても全然足りやしない。
目の回るような忙しさ。
(本当にこれは開店初日か。今まで経験したどんなバイトよりも過酷だぞ!)
それでも、働いている従業員は誰もが満ち足りた誇らしそうな顔をしている。みんな自分の仕事に矜持を持っている証拠だ。パンが売り切れてしまうと、今度は貴族たちからの予約注文が殺到した。
戦場のような多忙さだ。
そこに、可憐な声が響く。
「マケイン!」
忙しいのに声を掛けられ、少年は急いで振り返った。
そこには、頬を紅潮させたリリーラが目を輝かせて立っていて。今まで誰も見たことのないような嬉しそうな顔で少年の手を握りながらこう言った。
「……すごいわ!」
ベルクシュタイン伯爵令嬢は、その慧眼故に気付いていたのだ。
「マケイン、あなたって本当に最高よ! あそこの馬車も、どの馬車もみんな名だたる貴族の使いだって分かってる? あちらなんて我が国の誇るアストランカ公爵家よ!」
「……え?」
「隠しているけれど、さっき紋章が見えたの。公爵家ってことは、王家に連なる貴族があなたのパンを買いにみえたということ! こんな貧しい僻地にまで来ていただけたなんて革命が起きたも同然だわ!
もしも公爵家から何か言われたら決して逆らってはいけないわよ! あなたは男爵家の人間なんだから!」
マケインは驚いた表情で店内を見る。
この賑やかな客層にそれほどまでの大物が混ざっているだなんて思ってもみなかったからだ。
「いやいや、まったくもって素晴らしい限りです!」
丁度その時の出来事だ。リリーラが立ち去った後、教えられたばかりの公爵家の使いがそう満足げに声をかけた。
大変なことになってきた。この店の主である少年はあまりの緊張感に口の中が乾く。
「あ……、どうも、です」
気の利かない返事だ。無礼でしかない。
「モスキーク男爵家が生み出した奇跡のパンの噂話は耳にしておりましたが、この味なら我が主君の御為ここまで通ってくるだけの価値があるというものです。そのような幼い歳でこのような革新的なものを生み出せるだなんて……失礼ですがご加護は?」
「滅相もない、過大評価です! 加護は……その、食神様で」
「そうですかそうですか! 素晴らしい才能ですな」
マケインはあまりの高評価にいたたまれない心境となった。目を合わせられなくなっている店主の肩を掴み、使者は力の入った言葉を発する。
「特にこの……サンドイッチ、ですかな。野菜と肉のハーモニーが真に美味です。それだけではなく、食べたことのないこのソースはなんでしょう? これは持ち帰ったりすることはできないのですか?」
「生ものはダメですよ! この料理はあくまでもカフェのメニューとして提供しているだけで……」
「そうですかそうですか! 貴殿が男爵家の跡取りであることが口惜しい限りです! もしも後継でなければ今にでも我が領で連れ帰って雇用していたところでございました!」
「ははは……」
賛辞が怖いくらい。
「ところで、ここだけの話ですがレシピを教えていただくことは? 勿論、タダでとはいいません」
「え、ええっと……」
困り顔になったマケインに、使者は圧力を熱い眼差しでかけてくる。
しばらく上を向き、下に視線を動かし、ようやく意を決したマケインは苦笑した。
「いいですよ、特別にお教え致しましょう」
マケインは思う。
リリーラのアドバイスがなかったらうっかり断ってしまったかもしれない。その事実に寒気が走りそうだった。
「そうですか、少ない額かもしれませんが、金額はこの程でいかがでしょうか?」
ひそやかに、使いは指を三本立てた。
「銀貨三枚ですね」
「違います! 金貨三十枚です」
使者は意味深な眼差しで微笑んでいる。
そんな値段になるのか!
マケインは驚愕にむせ込んだ。次の言葉に悩みながら、恐る恐る呟く。
「……ゲホッ た、高くありませんか?」
欲のない少年の発言に、使者がにっこり笑んだ。
「いいえ、これでも少ないくらいです。この店に何度も通ってくることを考えたら、むしろ買い叩いたと云われても仕方ありません。すみませんが、貴殿を試させていただきました」
にこやかに、公爵家の使いは囁いた。
「白金貨三枚をお出しいたします。彼のトレイズ神の寵愛を受けし貴殿のレシピは価値が違います故」
一体どこまでの情報が見知らぬ公爵家に流れているのか。
この国の貴族に、現世に降臨したトレイズの存在が知られている?
一気に緊張が走ったマケインの眼差しに、使者は意味深な笑顔を浮かべる。何か声を出そうと思った瞬間、男は突然ひれ伏し膝をついた。
「……これは、ダムソン様」
奥の方からひょっこりダムソンがやって来たのだ。
「よいよい、堅苦しいことをするな。モスキーク領へはそちが参ったか」
びっくりしたマケインは言葉を失くす。食神殿神官長のダムソンは鷹揚と笑顔になった。
「久しぶりじゃのう、アラン」
「ダムソン殿下が少しもお寄りにならないと主様は随分とご立腹でございます」
呆気にとられたマケインにダムソンは溜息をついた。
「とうに捨てた名じゃ、今の儂はあの家に戻るつもりはありはせぬよ。ダムソン・ルクス。儂はしがない老いぼれの神官長じゃ」
「ご謙遜を」
「アラン、紹介しよう。この子どもが例のモスキーク家の宝石じゃ。マケイン、こちらの男はアランという昔からの知り合いよ」
「な、な、な……」
(では、この人はダムソンさんが呼んだのか)
どれほどの人脈だろう。トレイズが見せしめに殺そうとしていた人物が思っていたよりもすごい人なのだということに気付かされる。マケインは状況に混乱し、口を開けたり閉めたりしていた。
そんな少年を見てダムソンはくすくす笑った。
「なんじゃ、少年。死ぬ間際の酸欠の魚のような顔をして。聖女のような面相が台無しじゃ」
「な……俺は女じゃない!」
反射的にそれだけは頭に入ってきた。
どんな時でも女顔を指摘されると噛みつく仕組みになっているのだ。これは男のプライドというやつだ。
マケインとダムソンの仲のいいやり取りを見て、アストランカ公爵家の執事であるアランは溜息をつきたくなる。
「ダムソン様、お願いです。そろそろ神殿の役職を辞して帰ってきてはいただけませんか」
「それは無理じゃ。今の儂にはお仕えすべき高貴なお方がおられる。そのことは文にしたため、送ったはずじゃぞ」
「しかしながら……」
「くどい。それに、この少年のこともある」
マケインの方をチラリと見て、ダムソンはいい笑顔になった。
その邪気のない笑みにアランは嫌な予感を覚える。
「もう気付いたと思うが、アストランカの領地の食事よりここの飯の方が大差をつけて一番じゃ。最早マケイン殿に儂の胃袋は掴まれたも同然じゃ!」
ダムソンは生娘のように頬を染め、くねくねと動いた。
「そのような理由、納得がいきませぬ! レシピなら金貨で解決するではないのですか! うちのコックに作らせれば……」
「浅ましい発想じゃの、アラン。マケイン少年の作る料理がこれだけだと思うのか? この男爵領におれば常に世界最先端の美食に触れることができるのじゃぞ!」
あんまりな言い分。暴論の極致。史上類を見ない我儘。
アランはわなわな震えて叫んだ。
「お気持ちは分かりますが、感情として納得致しかねますーーーーっ!!」
マケインは冷や汗をかき、くつくつダムソンは笑った。




