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☆75 開店直前は慌ただしい




本当だったら、女の子にはいくらかの銀貨を持たせて帰してやりたかった。けれど、この状況で金銭的な施しをしてしまえば良くない事態になるのは目に見えていた。

平民の少女は貴族の持ち物を害したのだ。本来ならその時点で手打ちにされるのがこの世界の常識だとマケインにも理解できている。

だとすれば、できることは一つしかない。



「いいか、俺は何も見なかったことにする」

マケインの宣言に、場の緊張感は緩んだ。


「ジェフ、ドグマ。オープンまでの時間で、この店舗を綺麗に片付け直すんだ。俺がもう一度この空間に戻ってくるまでに、何事も支障なかったようにしてくれ」

マケインが似合わない言葉づかいで主君らしく命令すると、二人は臣下の礼をとる。そうしてから、トレイズが慰めていた子どもの腕を掴み、マケインは店外へと出た。


「な……っ」


顔を引きつらせた少女に、マケインは人気のない場所でよく言い含める。


「今回だけは、見逃してやる」


「な、なんで」


「なんでも糞もない。俺自身が、小さい子どもの悪さを無闇に罰することが不愉快で仕方ないからだ。ただし、もう一度同じことをやったら今度は庇ってやることができない」


「…………」

「分かったら、人目につかないようにさっさと帰ってくれ」


マケインが視線を伏せると、女の子は戸惑いながらも走って逃げていく。気配がなくなった頃に瞳を開けると、そこには誰もいない裏道だけがあった。

深々と溜息をついて。憂鬱な心境で頭をかいていると後ろの方から優しい声が掛けられる。


「旦那様」


「……トレイズ」

桜色の髪を手で押さえて。可憐に微笑む女神がそこに佇んでいた。なんだかバツが悪い思いになっている少年は口を開く。


「トレイズにしては、優しい対応だったじゃないか。君のことだからもっと、人の命なんて軽く扱うのかと思っていたよ」


「ええ、そうね。あたしにそういうところがあるのは否定しないわ」

ニコッと笑って彼女は肯定する。


「あたしはただ、貴方だったらどうしたいのか考えただけ」

「俺が?」


「多分、あなたはあたしの知る中で一番のお人好しだわ。だけどそれって、決してあの子が言うような軟弱性からだとは思わないの。

誰かを守ろうとすることは、何かを守ることはある種の高潔さに等しい」


「買いかぶらないでくれよ」


「いいえ、そんなことない。あたしは、貴方に出会って……たまにはそういう生き方を真似ても悪くはないって思えるようになったわ」


「よく言うよ」


けれど、トレイズにそう云ってもらえて少し胸の奥につかえていたものが楽になった気がする。そう、マケインは思った。




(所詮、俺は本質的にはこの世界の貴族そのものにはなれない。今の自分がやっていることは青い血を演じているだけにすぎないんだ)




誰かを救うってのは、難しいことだ。

色んなバランスを考えて振舞わないと、傾いた天秤は容易く倒れてしまう。

ようやく、マケインは真っすぐにトレイズを見つめた。

早春に芽吹く若草のような色の瞳が、慈愛を込めてこちらを向いていた。

改めて直視してみると、そんな彼女が自分を肯定してくれたことがどうしようもなく嬉しかった。


「トレイズ……、俺、この店を成功させたい」

食神は、マケインの言葉に頷く。


「そうね」


「少しでも、この世界の人間に美味しい食事を知ってもらいたい。あんなマズイ食事だけ食べて一生を終えてしまうなんて、そんな悲しいことあっていいはずがないんだ」

「でも、大半の人間はその日暮らしが精いっぱいだわ」


「俺は、この店が上手くいったら領地のそういった貧しいところにもお金を使っていきたいんだ。あの子を見て、今のままじゃダメなんだってそう思わされた。悔しいよ、自分のことばかりでそんなことにも気づかなかったなんて」



「…………」

トレイズはどこか切なそうに笑った。





今までにない新しい飲食店がこの領地で開かれることはあっという間に世間へ知られた。あのダムソン神官長が語るここだけの噂話や聖女が作る奇跡のパンの存在、それらがだんだん広まっていく。

野を越え、山を越え、谷を越えて……、

あらゆる人々がこの店に対して興味を膨らませていく。

止められないほどに、時代は動く。

自覚してない一人の少年によって、食は腹を満たすための手段から美味を楽しむ為の娯楽として貴族社会に変革を起こす寸前だった。





活気で賑わう店内、何事もなかったかのごとく美しく整えられたその場所は沢山の人間で溢れかえっている。並んでいる豪華な馬車。豪商からこの領地の近くに住む裕福な平民が物見高く店が開くのを見物している。

バックヤードに立ったマケインは、緊張で喉をごくりと鳴らした。


「なんだこの人の数は!」

予想外の事態になったマケインの悲鳴に、ダムソン爺は上機嫌に笑って見せる。

白いひげを撫でつけながら、神官長は真実を告げた。


「これぐらい予測できたことじゃろうに。大っぴらに食神様の名を出さずとも、聖女の噂と奇跡のパンの存在だけで大衆の関心を惹くのには充分だったということじゃ」


「俺としては少しずつ段階的に始めていく予定だったのに! 小さな規模から細々と始めてゆっくり大きくしていく計画があわや暴動寸前じゃないか!」


「儂に店の宣伝を頼んだ時点で運命は決まっていたようなものじゃ。諦めい」

「明らかにやりすぎだ!」

過熱状態の店外の様子にマケインは少し怯えていた。

できることなら、この場から消えてしまいたいほどだった。


「……マケイン、私、治安維持頑張る」

獣人部隊を引き連れたタオラは、警備の為に店へと駆り出されていた。姿が異なる彼らを見て眉をしかめる者もいたが、逆にマケインは小さな虎少女の愛らしさに見惚れた。

金と黒の柔らかな髪、真っすぐなマリンブルーの瞳は強い意思を持っている。


「すまない、みんなが傷つかないように頼むよ。タオラ」


なんせ、熱狂状態の群衆とは恐ろしいのだ。あまり多くの人間が詰めかけると、転んだ拍子に潰されて死んでしまう者も現れる可能性がある。

昔テレビで見たそんなニュースを思い出してしまうくらい、いっそこの場の空気は異様だった。

そんな中、一人の少女が関係者用の裏口から入り明るく声をかけてくる。


「おっはよー! みんな元気してるう?」




「……そう見えるとでも?」

ギリギリまで駆け回り、げっそりとやつれた表情の関係者一同にソネットは大笑いした。


「はい、これお祝いのお花! 摘んで採集してきたの!」

「ありがとう、こんな中よく入ってこれたな。良かったら安全なところで座っててくれ」


「ジェフさんが見つけてくれたの。頑張ってね!」

照れくさそうに笑い、ソネットはニコニコといなくなった。

相変わらず元気な女性だ。マケインはゆるりと息をつく。



「エイリス、トレイズのことをよろしくな。くれぐれも女神だと群衆に見つからないようにしてくれよ」


エイリスはマケインの言葉に大きな胸を張って頷いた。ぶるん、とはちきれそうな果実が震え、その様子にトレイズは羨ましそうな顔になる。

今のトレイズ・フィンパッションはストーン商会の令嬢の変装をして、平民風のドレスに上質なレースが縁取ったベールを被っている。特徴的な髪はカツラの下に隠していた。


「大丈夫よ、マケイン。流石のあたしもこの人混みに出ていくつもりはないもの。むしろ、あたしとしては旦那様の方が心配」


「どうして?」

「聖女の噂話がとても広がっているみたい。一部の人間は貴方に会うことも期待しているのよ」


「そもそも俺は男だ!」

沈痛の面持ちになったマケインに、トレイズがくすりと微笑んだ。


「それだけ今の王国に聖女の存在を望む声が多いということよ。魔物の数が増えていることは聡い人ならとっくに気付いてるのだから……」


「しかし、具体的に聖女が何かを成し遂げたという歴史があるわけでもないのじゃがな。代々人々の心の慰めとして利用されてきただけじゃ」

やれやれ、ダムソンが呟く。


「いっそのこと、このまま聖女になってしまってもいいのじゃぞ? マケイン殿。それだけの求心力がそなたにはあるのだから」



「謹んで! 遠慮こうむらせていただきます」

渋面を浮かべた少年に、ダムソンは残念そうな表情となった。





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