☆71 氷魔法の発動
圧倒的な速度で、リリーラはその頭脳に記憶していた魔導書の内容を市場で手に入れた安い紙に複写してみせた。
タオラとの剣術の修行と店舗の準備をしながら魔法を習う時間を確保するのは困難なものであったが、念願の冷蔵冷凍庫が入手できるとなっては文句を言うはずもない。
先日仕事の山(正しくそうだ)を押し付けられたドグマの様子を伺ってみたところ、虚ろな目でぶつぶつうわ言のように何かを呟く生命体となっていた。
関わったらマズイ何かを感じたので、そのまま彼の仕事が終わるまでそっとしてある。
「俺が手を出して済む問題でもないからな」
平民に堕ちた身で貴族家に仕えるというのはそういうことなのだ。
この世界の標準では主であるマケインはまだ甘すぎるくらいのもので、これぐらいの理不尽はつきものだといえる。
「っはあー、やっぱり発動しないなあ」
徒労に息を吐き出して、マケインは水桶に沈んだ野菜の皮を剥く。
「魔法は神の領域とよく云われるわ。簡単に習得できたら誰も苦労しませんもの」
「火属性は出すだけならわりとすぐだったんだけど」
「四大属性と特殊属性を一緒にしないで。基本的に、火、風、水、土属性は万人向けとされているけれど、特殊属性は幾つあるのかも分からず、限られた術者でしか発動できないと有名なのよ」
爽やかな風が窓から吹き込んでくる。
リリーラは初めて持った包丁によってできた手指先の傷の痕を恥じるように隠しながら、ツンとした声で説明をしてくれた。
「本当にマケイン様は魔力量だけなら驚異に値しますわ。でも、いくら馬力があっても操る御者がいない馬車はただの暴走馬車。むしろ魔力暴走で辺りを吹き飛ばされるくらいならうんともすんとも言わない方が世界の為かもしれませんわね」
そのキツイ言葉に、窓際で涼んでいたマケインはくすくす笑った。
「なんだ、慰めてくれるのか?」
「違いますわ、全てはお父様の為よ」
頬をほんのり赤くして、リリーラはソッポを向いた。
最近分かってきたことがある。リリーラは、あまり素直じゃない。
トレイズはツンデレというよりは八割デレだが、リリーラの場合は四対六ぐらいでツンが混じる。
最近の現代っ子はツンデレキャラへの耐性がないとか聞くけど、元オッサンの魂を持つマケインの世代はそれには当てはまらない。
ツンデレ萌え!
「要はイメージの問題なんだろ? どうして魔法にイメージがいるんだ?」
「イメージは、魔力の誘導と具象化に必要なのよ」
よく分からない。
「この世界の物質にはマナが満ちている。人間なら誰しも多かれ少なかれその一部を身に宿しているのよ」
「マナ?」
「魔素ともいうわ。すべての創造の根源であり、始まりの概念。魔法とは想像でマナから成る魔力を操って世界に奇跡を起こす」
「奇跡……」
ふと、マケインは手に触れている水に視線を落として考えた。
マナ、という聞きなれない概念にはしっくりこないけれど、イメージが肝心だというのならもっと気楽に捉えてもいいのではないだろうか。
例えば、氷の魔法を使いたいというのなら、物質をそのまま冷やすイメージで今まで頑張っていた。
けれど、そもそもが誤っているのは、元の世界の俺には何の道具も使わずに冷気を操る超能力なんて元から使えやしなかったということ。
流しそうめん機の魔力循環訓練が上手くいったのは、恐らく実際にそれを利用した経験が細市の中に確固たるものとして存在していたからだ。
(つまりは、何かしらの根拠となる体験や記憶が鍵となるのか?)
知識だけでは足りない。恐らくは、自分にとっての明確な自信が必要なんだと思う。
「だったら、答えは……」
前世で小学生だった頃、理科の実験教室で遊んだ記憶が蘇った。
今までは冷凍庫に物を入れておくイメージしかできていない。だけど、もう一つきっかけのような起点が必要なのだとしたら、過冷却水の実験はどうだろう。
キンキンのマイナス十℃ほどに冷やした水に衝撃を与えると氷になる。この実験は人生でもかなり興奮して遊んだ記憶だ。
たしか、水の分子が凍るには氷の種となる氷核が必要となるのだ。そして、その氷核が作られるには冷やすだけではなくてわずかなエネルギーが必要となる。
そんなことを考えている少年の指先からは小さな現象が現れつつあった。
ひんやりと下がっていく温度。白くなっていく桶に汲まれた水。その違和感に真っ先に気が付いたリリーラが息を呑んだ。
「ねえ! これって……」
マケインはようやく気が付いた。驚愕の目の前にあるのは、常温に近かったはずの液体に浮かんでいる薄い氷の層だ。
「嘘だろ」
その魔法は止まらない。
やがて、マケインが指を引き抜くまでの間に甲高い音と共にそれは氷漬けとなった。
少年は鳥肌が立った。
正しく奇跡。そう表現する他にない。
「俺がやったのか」
「……ええ。こんな短時間で驚くしかないけれど」
「先生が良かったんだな」
そう混ぜっ返すとリリーラが首を横に振った。
その瞳には賞賛の色が浮かんでいる。
「そうね。私の貢献は多大なものだけれど、それでもあなたが努力で身に着けたことに変わらないわ」
「そんなことはないよ」
社交辞令で謙遜をしながらも、マケインは徐々に頭の中が現実味を帯びてくる。
もしも氷魔法が使えるようになったら真っ先に作りたいと思っていた料理があるのだ。
現代日本では当たり前のように手に入って、コンビニなどで舌鼓を打っていた氷菓。つまりは、アイスである。
この世界に転生して、これまでずっと我慢してきた忍耐力がプツンと切れたのだ。
「……もう我慢できない」
元々、ファストフードや甘いものが好きなメタボのオッサンである。そりゃあこれまで耐えてこられた方が偉いというもの。
不穏なオーラを感じた巫女が瞬きをする。
「え?」
「俺は! たまらなくアイスが! 喰いたいっ」
拳を握り、マケインは涙目で叫んだ。
ノイローゼになったように男泣きを始めた少年に巫女はオロオロとしてしまう。
「ど、どうしたのよ、そんな風に惨めったらしく泣くことないじゃない! むしろ自分を褒めてやるべきだわ、この国でも数少ない特殊属性魔法使いとなったことを誇るべきよ!」
「俺はそんな御託はどうでもいいんだよ! ただアイスが喰いたいだけなんだ!」
「ご……御託ですって!?」
リリーラが眦を吊り上げる。
すこぶるマケインの態度が気に食わないと言いたげだ。
「あなた、ご自分の立場が分かっていらっしゃるの!? 氷属性を発動できるだなんてとても名誉なことなのよ!」
「じゃあアイス様がどうでもいいっていうのか!」
「私にはそれが何のことかも分からないわ!」
リリーラにとって無知を晒すことは何にも勝る屈辱だ。
そんな彼女とギャアギャア怒鳴りあったマケインは、頭に血が上った状態で大声で宣言をした。
「だったら俺が今すぐここでアイスを作って見せるさっ!」
絶句してしまったリリーラに、マケインはふくれっ面で苛立たしく感じてしまう。
お貴族の名誉など、所詮貧乏男爵家の自分にはどうでもいいことだ。
そんなことを考える時間があったら、一つでも現代日本の食事文化を再現することに情熱を傾けている方が時間の有効利用ってものだ。
マケインが氷魔法を学習したかったのは人に威張り散らす為ではない。笑われてしまいそうだが普通の料理に使いたかったから会得したかったのであって、今更誇りとかそんなことを云われても喜ぶ気が起きなかった。
そんな頓珍漢なことを考えながら、マケインは捨て台詞を云い残す。
「ちょっとそこで待ってろよ! ありったけの材料で作ってやるから!」
確か、うちの台所には乳と卵があったはずだ。この間こっそり買ってマリラから隠してある蜂蜜も部屋にある。
ウリに似た果物も幾つか籠から拝借し、マケインは鼻歌でも歌いたい気分となった。
作れる。……よし、作れるぞ!
愛しのアイス、お前を想っただけでとろけてしまいそう。
ニヤニヤ笑いながら厨房に戻ろうとした途中で、マケインはトレイズのことも思い出した。
(ちゃんとしたものができたら、差し入れしてあげないとな)
そのついでに氷魔法のことも話すとしよう。




