☆62 伯爵はやっぱり不機嫌らしい
息を呑んでマケインは椅子から立ち上がる。慌てて悲鳴のした方向へ駆けていくと、モスキーク邸の正面玄関に豪華な貴族の馬車が止まっているところだった。
腰を抜かしたミリアとルリイはガタガタ震えながら涙目になっている。トレイズは強気に相手を睨みつけていた。彼女達を冷たい双眸で見下ろしている男性は、こちらへ視線を移して鼻で笑う。
「騒がしいことだ」
「あなたは……」
「いくら先ぶれをしても返事がないので無礼を承知で直接来させてもらった。先日はどうも。私は、ベルクシュタイン伯爵という」
意地の悪そうな笑みを浮かべながら、伯爵はその通告を突きつけた。
「此度はそなたが再三の王宮への召喚に応じなかった件について、私が直々に調査に入ることになった。光栄に思うがいい、マケイン・モスキーク」
そう指さされ、マケインは首を横に傾けた。
少年のさらさらの髪が鎖骨へ流れる。
「……召喚?」
「散々こちらは手紙を出したはずだが」
伯爵は淡々と返す。
遅れてやって来たダムソンが、慌てたように返した。
「これはベルクシュタイン伯爵。その件については、何かの手違いではないかの……」
「だってそんなの一通も来ていなくて……」
その場にいる面々に視線を移しながら、マケインが呟く。すると、明らかに挙動がおかしい人物が一名いることに気が付いた。
「お、おい、トレイズ?」
「な、なーんのこと? あたし何もしてなくってよ!」
「お前……まさか、何か知っているんじゃないだろうな?」
ジト目で睨みつけると、トレイズは唇を尖らせながらボソッと爆弾発言をした。
「……しました」
「は?」
「だから、全部燃やしたっていっているの!」
頭をハンマーでぶん殴られたかのような衝撃が伝わってくる。思わずオーバーリアクション気味になりながらマケインは叫んだ。
「どうして!?」
「だって、不安だったんだもの! また王都へ向かうことになったら、何か起こるかもしれないじゃないっ
今度また魔物に襲われでもしたら、あたし……っ」
それでもやっていいことと悪いことがあるだろう!
王宮の召喚に応じなかったってのは、つまりは貴族なのに王様の命令を無視したってことだ。そんなことをしようものなら、この領地に兵が差し向けられてもおかしくない。血の気が引いたマケインがトレイズの頭を掴んで一緒に下げると、その様子をベルクシュタイン伯爵は興味深そうに見ていた。
「この度は、うちのトレイズが申し訳ありませんでしたっ」
「……トレイズ、とは女神トレイズ・フィンパッションのことか? 食と愛欲の神……よもや以前見かけたあなたが、そうであったとは」
スッと伯爵は美しくトレイズに向けて膝まづいた。
その態度にこちらは驚きを隠せない。伯爵の台詞にマケインは引っかかるものを覚える。
「愛欲の神というのは……」
「あーら何のことかしら!!」
大声で女神は誤魔化す。
あ、これ、ガチでトレイズが隠していた情報みたいだ。
戸惑っているマケインの靴をぎゅーっと踏みながら、トレイズは顔を赤面させた。
「ゴホン、伯爵殿。このような事情じゃ、今回の件はお手柔らかに見過ごしていただけると有難いのじゃが」
ダムソンが引きつった笑いを浮かべて告げる。伯爵はその言葉に頷いた。
「左様ですか、それにしても……いくら食神殿が近いとはいえ……このようなあばら、いえ、辺境の地でご不便なお思いをさせてしまっていたのではありませんか?」
「住めば都のようなものよ」
どうやら自分が伯爵から責められないと分かった途端にトレイズは威張りだす。俺としては、もう少し反省して欲しいものだが。
「しかし、高貴な貴女様をお世話をする巫女の一人もいないのは流石に問題でしょう」
「そうね、そうかもしれないわね」
まんざらでもなさそうにトレイズは笑顔になる。
「でしたら、是非我が伯爵家縁の人間をお側に置かせていただきたく存じます」
「そうなの……え?」
伯爵が挨拶をすると、馬車の小窓のカーテンが開いた。
深窓の令嬢の横顔が曇りガラス越しに覗く。やがて、従者に促されゆっくりとステップを踏んで、この国の巫女装束姿の女の子がその場に現れた。
彼女が現れた瞬間、目の前に白百合の花が咲くような思いになった。
一級の金髪美少女だ。
金のボブカットと紫の釣り目が印象的な美貌。そのかんばせは少し不機嫌そうにも感じられる。
「我が五番目の娘、上級巫女のリリーラ・ベルクシュタインでございます」
レースが幾重にも重なった上等な衣服に身を包んだ彼女は、綺麗な所作で巫女服の裾を持ち上げ礼をとる。思わずその姿に見惚れそうになったマケインに気が付き、トレイズは苛立った表情となった。
「今日からはこのリリーラが食神様の御世話を担わせていただきます。この娘は嫁入り前の修行にと知神殿に置いておいたのですが、それはさておき……今回の件においてはマケイン殿には大事なものを一つ手放す決意をしてもらいたい」
「……え?」
唐突な伯爵からの台詞にマケインは呆気にとられる。
反射的に少年の心臓が痛んだ。トレイズの側にいることを諦めるように言われたように判断したからだ。
「伯爵……それは」
いやだ。
思わず、そんな我儘な言葉ばかりが口をついて出てきそうになった。
そりゃ、いつかは別れが訪れるって知っていたけれど。俺は、トレイズと一緒に居られなくなることを考えただけでこの先の人生が真っ暗になるような気持ちになるんだ。
思い出になんてしたくない。
俺は、トレイズとの時間はいつだって現在進行形でいて欲しい。
「そのような顔をするんじゃない。食神の認めた料理を学ばせることができれば、我が娘はいくらでも望んだ縁談を結べるだろうという交換条件だ。その代わりに、こちらは国王陛下へ今回の件の取り成しをさせてもらおうと思うのだが?」
「そ、それでいいんですか!?」
ぱっと世界が明るくなる。思わずマケインは叫んだ。
この伯爵を信用していいのかはまだ分からないところだが、その程度の条件でいいのならいくらでも料理くらい教えようというものだ。
伯爵というのが具体的にどれほど偉い立ち位置なのかは分からない。けれど、少なくとも王様に意見できる程度の地位にはあるのだろう。
不満げに何かを云いそうになったトレイズの口を塞ぎ、マケインはその後に伯爵の手をとった。
「ありがとうございます! ありがとうございます!!」
何を企んでいるのか警戒は怠らない方がいいだろうが、案外この人は悪人そうな顔をしていい人物なのかもしれない。
その屈託のないマケインの態度に逆に伯爵の方が戸惑った顔となる。
ぎこちなく頬をひくつかせ、少年に掴まれた手を勢いよく振り払う。ハンカチで手を拭い、そのまま踵を返しながら冷徹な双眸を娘へと向けた。
「いいか、リリーラ。トレイズ様に何不自由なきよう、よく務めるのだぞ」
「承知仕りました」
温度は低くも、抑えられた感情のこもった声で巫女は返した。




