☆59 返ってこない手紙
「……ふむ、」
アストラ王国君主は、幾度も待てど来る様子のないモスキーク領からの返信に、顎鬚を撫でた。
送ったはずの手紙。何通も出した王都へ呼び寄せる為の書状は普通だったら無視するはずもないものであったが、どういったわけか先方からは音沙汰もない。
まさか黙殺を決め込むつもりか、もしくは何かのっぴきならない事情を抱えているのか……。
「ベルクシュタイン伯爵よ、このことをどう考えるかね? 確か君は、モスキーク男爵家と邂逅した機会があったと聞くぞ」
悪人面で有名なベルクシュタイン家の伯爵は、伏せていた顔をゆっくりと上げた。
国王が危惧しているのは、モスキーク男爵領の神官長から耳にした女神降臨の出来事であった。本来であれば、そのような一大事があれば一刻でも早くこの王城へ男爵ははせ参じ、この事態の説明責任を果たさねばなるまい。けれど、待てど暮らせど何を考えているのかモスキーク家の人間は王都へ現れず、女神の存在も王家の人間は未だわが目で見ることすら叶わない状況だった。
「……私の印象では、モスキーク家の当主は凡庸であります。手紙が真に届いているのであれば、泡を食って一刻でも早く参上し仕るのが普通でしょう」
「ふむ、しかしながら事実として彼奴らはここに現れようとせぬ」
「何か訳があるのではないかと」
「国王からの命令に逆らうほどの理由があるというのか?」
少々面白くなさそうな口調で、国王は笑う。
「その実では、男爵ながらに女神を独占し国家の転覆を図ろうとしているのではないか? と儂が疑っても仕方がないと思わんかね?」
「それは……」
「分かっておる。モスキーク家の派閥は先祖代々王家に対して穏健派だ。あの男爵にはそのような大それた夢を見る野心などあるまいよ」
しかしながら、だからといっていつまでもこの問題を見逃しておくことはできない。すでに一部の人間には女神がこの地上へと降臨した事実は知られており、彼女を視界に入れることもできないとあっては、この国全ての神殿を率いる当代神殿長を擁している王家の威信へ関わるのだ。
「ましてやモスキーク男爵領はこの王国と帝国の国境沿いに位置しておる。いつまでもあのような危険な土地へ女神を置いておくわけにもいくまい」
国王の台詞に、伯爵の隣に立っていた眼鏡の宰相は呟いた。
「もしも女神の存在が本物であったとなれば、帝国に彼女が奪われた場合、わが国の名誉にも傷がつきかねませんな」
「王家直系の子どもはズーシュカしかいないし、儂も女神を妃に迎えるほどの度胸はない。王家に取り込むのは難しいだろうな」
宰相は少なからずの頭痛を感じた。
「帝国との緊張状態を考えると、むしろ偽物であってほしいぐらいの心情でありますな」
「全くだ、この状況で誰がそんな他国を刺激するような要因を好き好んで抱えたいと思うものか」
信頼できる者しかこの場にいないと分かっているからこそ漏れた本音だった。
今のこの王国は決して豊かとはいえない。しかし、大地に流れる水には恵まれていた。
国が生まれた当初から隣国のゲルシュタッド帝国とは仲が悪く、王国は足りない金属を求め、帝国は不足した水を求めて何度も戦争を繰り返している間柄だった。
現在は停戦してはいるものの、何か理由があればいつまた戦争のきっかけとなってもおかしくはない。けれど、王国の財政状態は余裕があるとは言い難く、できることならばこの仮初の平和を維持していきたいのが王家の本音である。
余計な火種を持ち込みやがって、という心境になってしまうのは仕方がない。
「伯爵よ、そなたから見て本当に男爵家の子息はトレイズ神からの寵愛を受けていると思うかね?」
「…………」
悪人面に定評があるベルクシュタイン伯爵は何とも言い難い表情となった。その様子に、宰相は若干の不安を覚える。
「ど、どうしたのだ。貴公らしくないぞ」
「……でなかったなら、どんなに良かったか」
苦悩に満ち満ちた仕草で、伯爵は息を吐き出す。その険しい顔つきに宰相がごくりと喉を鳴らした。
「マケイン・モスキークは、よもすれば悪鬼の遣いであるやもしれませぬ」
「あ、悪鬼とな?」
「少なくとも、私にとっては今一番に憎い相手でありましょう」
忌々し気に眉間にシワを寄せた伯爵は、跪きながらこの国を統べる王へと最高級の礼をとった。
「願わくば、王よ。この問題は私に預けていただきたく願います」
「ふむ……」
「まずは、一刻も早く行方不明となった手紙の中身をモスキーク家の人間へと伝えねばならないでしょう。何者が関わっているか分からない以上、この私がこの事態をあるべき形へ納めて仕りましょう」
「頼めるか、伯爵」
「は、まずは食神様の下へ、私が側仕えとして最も信頼のおける巫女を送り込みましょう」
算段を立てながら、伯爵はうっすらと笑う。
いくらなんでも、高貴な女神が供もつけずにいるのは異常だ。その線からこちらの息のかかった巫女を男爵の土地へ派遣する。確か、この状況で使える人間が一人いたはずだった。
ベッドのマケインは困惑の顔となった。
「店を出すって云ったって……」
戸惑いがちなその表情は、困っている清楚な美少女の姿にも似ている。その可憐な仕草をしている少年へと、トレイズは鼻息荒く畳みかけた。
「あら、ちっともおかしなことじゃないわ! 大体、今だってもう遅きに失しているくらいのものなのよ!」
「それはないって。大げさな……」
「ウィン・ロウの人間はみんな旦那様の作った天上のパンとハーブ水に夢中だもの、市場で売るには明らかに品不足よ。もう、こうなったらこれまでの食事にはどうせ引き返せないわ」
トレイズは手を握ってそう力説をする。
「モスキーク家で受け入れた奴隷のコックだって、最初から店を出すことを前提に引き込んだようなものだもの。どうせいずれは店を持つことになるのなら早い方がいいわ」
「そのこと俺は了承したっけな。覚えがないな」
ぷい、とソッポを向いたマケインに、トレイズは顔を近づける。
「いいこと、旦那様! 貴族の責務としてこの領地の後を継ぐなら、民を幸福に富ませる責任を負うことも考えた方がいいわ。マケインの料理とダムソンの後見があれば、この寂れた領地はいくらでも豊かになることができるのよ」
「そりゃそうだろうけどさ」
マケインの精神に宿っている細市は多少の不安を抱えていた。
何故なら、前世でも細市という男はレストランで真面目に修行して働いていた人間ではない。ただちょっとだけ、外食をネットで調べて自宅で再現することが好きなただの自由業の青年だったのだ。アルバイトでも皿洗いの仕事ばかりで本格的な調理を経験したことはない。
経営も苦手だし、下から慕われるほどの人格も……。
「正直、自信がないよ。もしもこれで調子に乗って失敗でもしたらもっとみんなに辛い思いをさせるかもしれないもんな」
「マケイン様、あなた馬鹿ですか?」
お茶を淹れていたドグマがふっと鼻で笑う。
「これだけの後ろ盾があって失敗できるなんて、ほとんど不可能に近い所業ですよ。神の御業です」
「でもさ。他の貴族が面白くないだろ?」
「確かに邪魔をしてくる愚かな輩はいるかもしれませんが、そんなことを言ったら何もできません。半分の貴族はトレイズ様のいとし子という事実で黙らせられます」
「残る半分はどうなるんだよ!」
「マケイン様、心臓が小さすぎやしませんか?」
何言ってんだコイツは、という視線をドグマから胡乱に向けられてマケインは口を閉ざすしかない。話せば話すほど自分のチキンハートが露呈していく状態に少年は頭を抱えた。
「旦那様、こういう言葉があるわ」
トレイズは美しく微笑んだ。
「『我が道を行く目ざわりな奴はみんな踏み潰してしまえ』」
「ああ、有名な暴君の言葉ですね」
ドグマが頷く。
「マケインのお店の邪魔をする人間なんてあたしが殺してあげる……そうすれば最後には旦那様の味方だけが残るわ」
「本気か!? まさか今の冗談で言ってないよね!?」
「さてどうでしょう」
トレイズは、ふふっと背景に白い羽が似合いそうな天使の笑顔で恐ろしいことを口にしていた。
頼むからテレビで青いネコ型ロボットの出した独裁ス〇ッチの回を観て反省して欲しい。
「もしくは、どうせなるようになるわ。人生は挑戦の連続で生きていくのよ」
「俺は紐があってもバンジージャンプはしない主義なんだよ。できれば安穏とした保身の生活で一生を終えていきたいんだよ、分かる?」
「バンジージャンプ? よく分からないけど……保身ばかりじゃ、そんなのつまらないじゃない」
これは無理だ。根本的に理屈がかみ合わない。
唸り声を上げているマケインに、果実を摘むために籠を下げたエイリスがひょこっと顔を覗かせる。
「マケイン様、お店を出すんですか?」
「エイリス、正直どう思う? この二人に迫られてるんだけどさ」
「とっても素敵だと思いますぅ!」
ぱあっと明るい顔で後光の差した笑顔を向けられ、マケインはショックで白い化石となった。
そんな無邪気なスマイルが返ってくるとは予想外だ。
「マケイン様の作るお料理ならなんでも美味しいと思いますし、領民のみんなも喜びます! この領地は貧しいですから、それでお金が回って豊かになれれば冬に死ぬ子どもだって減って…………」
「……うん、そうだね」
最後は涙目で呟いたエイリスの言葉に、マケインは炉端の地蔵のような諦観の笑みを浮かべた。
――これはもう踏ん切りをつけるしかないみたいだ。
本当は、どんなに勝ちのカードが揃っていたって新しいことへ挑戦するのは怖いんだ。女神の加護があったって、小心者の俺はこの土地に大勢の知らない人間が入ってくることへのリスクで躊躇してしまう。
人生、上手い話には何か裏があるもので。儲けたら儲けすぎたで後から面倒な厄介事も現れるんだろうし、本当は無難な毎日を過ごしていきたかったのだけど……。
流石の俺も、エイリスの涙には弱かった!




