☆58 帰ろう、我が家に
彼女は、大きな木の上に登っていた。
どこか寂しそうな眼差しで、空に浮かぶ夕方の月を眺めている。あちこち探しまわってようやく見つけることができた食神に、マケインは声を張り上げた。
「……トレイズ!」
萌黄色の目が地上へ動く。見張るように大きくなった瞳がこちらへ向き、その中に含まれた悲しげな感情にマケインは心が揺り動かされた。
「……来ないで」
「どうしてさ、町の皆は楽しく宴を開いているよ! トレイズも来ればいいじゃないか!」
「……そうね」
静かな声。ふい、と彼女の眼差しは逸らされる。
マケインはようやくトレイズが怒っていることに気が付いた。
「あの、トレイズさん?」
「きっと、そこにいる連中は皆、目の前の脅威を忘れて呑気に歌い騒いでいるんだわ」
皮肉っぽい言葉でそう切り捨てて、トレイズは鼻で笑う。そのセリフにカチンときたマケインが眉を潜めると。
「そんな言い方ないじゃないか」
「あら、事実でしょう」トレイズは呟く。
「この間のオークといい、魔物が活発化してきている……、恐らくはこういった出来事も珍しくなくなるかもしれない」
「そうなのか?」
少年はこの世界の事情には詳しくない。
「あたしがどうして怒っているか分かる? 町の英雄様」
「え?」
「あなたは死んでいてもおかしくなかった。一緒に旅をしていた人間は皆、その覚悟をしていたわ。このあたくしとエイリスがあんなに心をすり減らしている中、貴方ときたら……他に新しく女を作ってイチャイチャしてたのよっ!!!」
「それは違うっ!」
……いや。
違う、のか?
自分でも一瞬生まれた動揺をトレイズは見逃さない。うっかりすればこのまま愛想を尽かされてしまいそうな雰囲気に、慌ててマケインは目の前の大きな木を登り始めた。
「ちょっと待って! 俺を見捨てないで!」
「もう旦那様なんか知らないわ。巨乳メイドでも虎娘でも好きな女の子を選んで踊っていればいいでしょう」
恐ろしい事態がやって来た。
トレイズに見限られるという悪夢だ。
ちょっと拗ねているだけなのか、それとも本気で軽蔑しているのか。いいや、そんなことはどうでもいい。肝心なのは、女神以外と浮気をした結果(誤解だと言い張りたい)、神殿関係者に殺されるという間近に迫っている危機だ。
「俺にはトレイズしかいないんだ!」
そう叫んだ後で我に返った。
あれ? ……そういえば俺ってトレイズのことを少なからず重荷に思っていたんじゃなかったっけ?
よくよく考えればこれはチャンスだ。
トレイズとずぶずぶの深い仲になる前に距離をとれる。つまらない男に現を抜かしていたものだと正気になってくれたら元の平穏な生活に戻れるのだ。
……いや、
それで、いいわきゃねーだろ。
「俺にはトレイズしかいないんだよ!」
ようやく上の方の枝に辿りついた時、そう宣言すると彼女はぎょっとした顔になった。
「トレイズが俺のことを見捨てようとするのは仕方ないと思うさ。だって俺はなんだかんだでエイリスのこともタオラのことも大事なんだ。
だけど、やっぱりトレイズだって一番に大切にしたいって思うんだ。もしもこの世界に何か脅威のようなものがあるなら、守りたいって……」
釈明のようなものを言おうとして、とんだ尻切れトンボの三股野郎になってしまった。
思わず涙が出そうになって、冷や汗をかきながら顔を隠す。すると、今まで黙ってその台詞を聞いていたトレイズが白い掌を俺の前に差し出した。
「……見捨てないわよ」
気が付くと、女神は薄く穏やかに微笑んでいた。
萌黄色の瞳の眦は下がり、桜色の髪は風に舞う。唇は笑い、その美しさは本物の花も霞んでしまいそうなほどだった。
「マケインは、あたしのことを一番だって思うの?」
「……うん」
「だったら、今はそれでいいわ」
彼女は溜息をついた。
「いつか、ちゃんと愛してよね」
愛してるさ。君が一番好きなんだ。そう言いたかったのに、言葉が出てこない。
何故なら、マケインの唇は柔らかいものを押し当てられていたから。気が付いた時には、トレイズから優しいキスを貰っていた。
ああ、なんだかぼうっとする。前世だってこんな風に女の子と口づけをする機会なんてなかったんだ。
「守ってくれてありがとう」
とびっきりの笑顔で、トレイズは言った。
……ヤバい、めちゃくちゃ可愛い。
それは誰よりも愛らしい姿で、マケインは一気に耳の先までのぼせてしまう。
普段は高飛車なところがあったとしても、この女の子は結局マケインのストライクゾーンど真ん中なのだ。
胸が苦しくなって、心臓の音にクラクラする。
……あれ?
「旦那様!」
浮遊感の後、天地がひっくり返る。いつの間にか、鼻の下を伸ばしている間に木の枝から足を滑らして落下してしまったらしい。
身体の芯に響くほどの衝撃が後頭部に加わり、激痛が腕と足に走る。
「いてて……」
「旦那様! 大丈夫!?」
身軽に地上に降りてきたトレイズが駆け寄ってくる。彼女がそっと左腕に触れると、そこから痺れるような痛みが発生した。
「――いったぁ!」
「え! 痛いの!? どうしたらいいのかしら!?」
結局、救助がやってくるまで俺は地面に間抜けに横たわったままで。医者の元に運ばれ、治療と癒神の祭壇で祈祷された後に教えられたのは右足首の脱臼と左腕の骨折だった。
不思議なことに、祈祷を受けたら少しだけ痛みが軽くなったような気がした。と、いっても俺がけが人になってしまったのは変わりない。
ワイバーン戦で傷ついたわけでもないのに、樹木の上から落ちて骨折してしまった俺は恥ずかしさに穴があったら入りたいぐらいの心境になった。
「旦那様も怪我をしてしまったことだし、今回はもうモスキーク領へ帰りましょう」
元々おかしくなったギルドカードの相談に行こうとしていた旅の目的は、あっさりそのトレイズの一言で上書きされてしまった。
宴の片づけが終わった後、療養で我が家へ帰らざるをえなくなった俺のこの世界で初めての旅路は……呆気なく終了した。
「もう、信じられないわ! 絶対に怪我をしてこないって約束してたのに!」
俺が寝ているベッドの横で。プンプンに怒ったミリアの言葉に、俺は頭が上がらない。
方々から届いた見舞いの果物の皮をナイフでむきながら、マケインの妹であるミリアは灰色の瞳をきっと吊り上げている。
「しかも、何よあんなに色々連れて帰ってくるだなんて! トレイズ様の信者の次は獣人の傭兵集団ですって!? 信じられないっ」
少し拗ねたような表情でミリアは喋る。ついでに自分の口にも切った果物を食む。
「もぐもぐ……、大体、もぐ。あの虎の女は一体なんなのよ! もぐもぐ、どさくさに紛れて我が家で一緒に生活をすることになってたけど、トレイズ様はなんて言ってるわけ!?」
「あ、うん。そこは見逃してもらえることにはなったけど……」
今までがそうであったからといって、少女であるタオラをいつまでも男ばかりの環境に置くのもどうかと思い、本人の希望で彼女は女性の数が多い我が家で預かることになった。
「……マケイン、あーん」
「あ、何をしてるんですか! マケイン様の看護はメイドの仕事です!」
タオラが差し出してくる麦がゆを、エイリスが見とがめて文句を言う。
ドグマは溜息をつきながら部屋を掃除し、ルリイはへにょりと気づかわし気に眉を下げていた。
そんなやかましくも平和な光景を眺めながら、トレイズは少し申し訳なさそうに笑っていた。
あの日、二人で交わした口づけのことは誰も知らない。俺の一生の秘密だった。
「ねえ、マケイン。提案があるの」
「なんだ?」
「そろそろ、あなたの店を持ってみない?」
また、賑やかになった日常がやってくる。




