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☆55 死ぬ前に一目でも




今朝も祈るように報告を見てもそれらしき情報はない。死亡通知がないことに安堵しながらも、とてもいいとは云えない状況だ。

どうしてこんなことになってしまったのだろう。エイリスはあえて人払いをした街角、顔を隠しながら隣でぼんやりと憔悴しょうすいしているトレイズの姿に胸を痛めた。


「トレイズ様、お気を確かにお持ちください」

「…………」


「きっとマケイン様は帰ってきますから!」


 これはダメだ。

神様だというのに、まるで彼女は生気がない蝋人形ろうにんぎょうのようになってしまっている。どう元気づけでも励ませば励ますほどに顔色がなくなっていくのだ。

街角の様相は、平和な日常風景といったところか。馬車が行き交い、小鳥たちは皆で遊び、宿場町はそれなりに活気づいている。


「ねえ、お姉ちゃんたちはどこから来たの?」


 気が付くと、そんなあどけない声を掛けられた。

視線を落とすとそこには無邪気に笑うお下げの少女がいる。どうやら商売をしている父親について手伝いながら旅をしているらしい。


「ウィン・ロウからよ」

 気まぐれにトレイズが答えると、少女はにこにこ笑顔になった。


「そうなんだ! あたしはね、王都から来たのよ! うちのお父さん、そこそこ有名な商人なの!」

「そうなの……」

 トレイズは心ここにあらずで相手をする。お忍びなので仕方がないが、本来であればトレイズは視界に入れることすら許されないような高貴な身だ。そのことに気が付いたエイリスがわたわたしているとトレイズは少女に口を開いた。


「あなたはこれからどこに行くの?」

「えっとね、これからモスキーク男爵領に行くのよ」


「何をしに?」

「武器と塩と干し魚を届けるの。いつもはあんまり儲けにはならないから善意でやってるんだけど、モスキーク領には今、神殿に慈悲深い聖女様がいらっしゃるって噂を聞いたの!」


 ――ごっ!と大きな音をたててトレイズの額がテーブルにぶつかった。確かに人の口には戸が立てられないというけれど、一番最初にうわさになったのがまさかのこれだとは!


「あ、会ってどうするつもりなのよ?」

「商人は人脈が一番だもの。きっと聖女様が本当にいらっしゃるなら、辺境だし物が足りなくて苦労なさってるはずだってお父さんが言うの。モスキーク領を出入りする商人なんてあんまりいないんだもの」


 思わずトレイズの目が瞬きをする。

確かに、いつ帝国に攻め込まれるか分かったものではない国境の領地に好き好んでやってくる人間はそうそういないだろう。嘘が得意な商人を相手にすることへの危険性を考えたものの、どうにもこの子からは悪意のオーラをあまり感じない。


「お姉ちゃんはウィン・ロウから来たなら聖女様に会ったことある?」

「そうね……」

 穏やかな眼差しになったトレイズは、にこりと笑って答えた。


「あるわよ、あの人はとっても素敵な人間なの」


 神はある程度の思念を察することができる。

彼の印象は料理が得意で、子供らしさと大人の佇まいが同居していて。本当は勇気があるのに自分のことを臆病だと思う誠実な少年だ。


「すごい!」

「でも、もしかしたら本物を見たら少しがっかりしてしまうかもしれないけれど」


 トレイズがそう呟くと、そのセリフが聞こえてきたエイリスは思わず噴き出した。まさかこの少女も自分が今話している相手が神様だなんて予想もしていないに違いない。

しばらく、とりとめのない話をした。やがて、自分の娘が誰かと会話をしていることに気が付いた父親が慌てて回収にやってくる。


「すみません、いつの間にか野放しになっていて」

「そうね。いくら平和に見えても奴隷商にさらわれたら困るもの。子どもを見逃しちゃあダメよ」


 トレイズは澄ました顔でそう応えた。

優雅に薬草茶を飲みながら話す彼女の只人ならぬ気品に、商人の父親は少し緊張した様子になる。


「も、もしや高位のお貴族の方でありますか」


「そんなようなものですぅ」


 メイドのエイリスは小さな声で耳打ちする。冷や汗の出た男が慌てて頭を下げるとトレイズはツンと云う。


「ちょっと、そのようなものって何よ!」

「具体的に云ってもいいか分かりませんし……」

 全く、失礼な。

 やがて、彼女らは二人で顔を見合わせるとくすりと笑った。


「あなたは、モスキーク男爵領に塩を運んでくれているのですってね」

「は、はい」


「そして、聖女を探しているんだとか」

「ああ、ミルったらそこまで話したんですか。いえ、耳に入ったのは曖昧な噂なんですけどね……どうやら彼の地には口に出せないほどの高貴なお方がお過ごしになられているとかで。神殿の関係者の間では何か知っていそうなんですが」


「ふうん、そうなの」

 この感じでは、自分の正体までは知らなそうだ。

トレイズはそう判断すると、作り笑顔で男に話しかけた。


「実は、今のモスキーク男爵領では新しい特産品の開発をしているの」

「ほう、特産品ですか?」


「基本的にはまだ領内の取引だけなのだけど、王都に進出するときには手伝ってもらうことがあるかもしれないわね。その特産品を作ったのが、聖女と呼ばれている人間なの」


 嘘は云っていない。

ただ、聖女の正体が男子だというだけだ。

気付かれないように小さく舌を出していると、トレイズに向かって帽子をとった商人はひざまづく。


「この素晴らしい出会いに感謝いたします。私の名前は空燕商会のキース・ユスターと申します」

 にやっと商人が笑った時。

 その場の、空気が変わった。

何もないはずの空を見上げた人間の一人が、違和感を覚えたからだ。


「なあ、あれって……」

 指さしたのは大きな翼をもったモンスター。予想もしていなかった怪物が天から近づいてくることに往来の何人かが気が付いて悲鳴を上げた。


「――――ひ、飛竜だぁ!!!」


 つんざくような声に、宿場町の日常が一瞬で瓦解がかいした。

人々は茫然ぼうぜんとした後に、我に返って魔物から逃れようと走り出す。息を呑んで立ち上がったトレイズの指先から飲み物のカップが落ちて中身がこぼれた。

マケインと一緒に選んだ服の裾が濡れてしまった。

魔物が村々を襲うこと自体は稀にあることだとはいえ、これほどに勝ち目のない相手は珍しい。恐怖が伝染した集団が阿鼻叫喚あびきょうかんになる中、トレイズの手をエイリスが掴んだ。


「逃げましょう、トレイズ様!」

「え、ええ……」

 商人の父親は女の子を抱き上げて走り出す。トレイズとエイリスも懸命に逃げる中、飛竜は崖の上に降り立った。

無我夢中で逃げている最中、獣たちの恐怖に満ちた鳴き声と共に馬車が暴走する音がした。建物からは失火で炎が広がりつつあった。

冒険者達は誰も飛竜を倒そうとしない。小型とはいっても竜は竜だからだ。

逃げる途中に幼い子どもが泣いていた。妊婦の母親が足を傷めてしまったから。その光景を見た瞬間に、トレイズは反射的にメイドと繋いでいた手を放してしまう。


「何をやっているの!」

「おねえちゃん……」


 食神は自分の顔を隠していた邪魔な衣装をかなぐり捨てた。

唇を強く噛んで、逡巡しゅんじゅんした後にトレイズは捻挫ねんざをした妊婦に手を貸す。


「エイリス! アンタは先に行っていいわ!」


「そんなことできません!」


 もう、周囲に人はほとんどいなくて。

完全な逃げ遅れ。こんなに絶望的な状態ってない。

強く噛みすぎて切れた口の端から血が滲む。鉄の味が口腔に広がる。どうして、どうしてあたしっていつもこんなんなのだろう。


 ねえ、マケイン。

どこかで生きてるなら、ここに来てよ。

アンタに会わないままで死ぬなんて、そんな結末なんかになりたくないの。

飛竜のトカゲみたいなぎょろっとした目と視線が合う。このままじゃ、もうダメだって本能が分かってる。

エイリスだけでも助かる手段がないかって頭の片隅で考えながら、トレイズは叫んだ。


「お願いだから、死ぬ前にもう一回くらい会わせなさいよ!! マケイン!」


 にわかに大きな風が吹いた。

瞬間、ひらりと杖を持った誰かの人影が眼前に立った。

まだ成長途上の子どもの体躯。砂色の髪に鳶色の瞳。まるで少女みたいな美しい少年の横顔。まぶたの裏に焼き付いていたその姿にトレイズは万感に泣きそうな思いになる。


「――分かったよ、トレイズ」


 マケインは笑って一直線上に立つ。

隣には、大勢の獣人たちが剣を握って牙を剥いていた。


「待たせてごめん。……俺は、君を助ける!」


 どうしてこんなにあなたは少年なのだろう。

物語の英雄のように、こんな場面であたしに笑って見せるんだろう。

マケインが食神の加護しか持っていないことを誰よりも知っていたトレイズは、血の気を引いて顔を上げる。

後ろの方からは、神殿の人間たちが動けなくなった食神を助けに来ようとしていた。




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