☆54 飛竜の影は予想よりも大きかった
手遅れになるぐらいなら、先んじるぐらいで良かったんだ。
運命ってのは、多分立ちぼうけになっているだけじゃ間に合わないと思う。ましてやそれを覆そうとするのなら、尚のこと尋常ならざる速度で進むことが必要なんだ。
目を逸らしてばかりじゃたどり着けない明日を求めて、俺やタオラ、獣人たちや古く壊れそうな樽を乗せた馬車は山道を走っていく。
こんな世界の終わりのような状況、むしろ道化にされていた方がマシだ!
危険にさらされているかもしれない二人が無事だったなら、いっそのこと全部見当はずれで嘘つきと呼ばれるぐらいで丁度いい。
カラカラになった喉で、マケインは叫んだ。
「もっと早く走れませんか!?」
「うるせえ、これでも頑張ってるんだ!」
そう御者をやっているデルクに怒鳴り返され、馬車の中で乗っていたマケインは切羽詰まった表情で小窓から上方を仰ぐ。
風の強い灰色の曇った空、その中に敵の姿がないか神経を張り詰めさせている少年に、トシカが精神統一か目をつむった。
「…………」
「と、トシカさん。もしかして、やっぱり何かの勘違いだったとか……ですかね?」
やがて、己の判断に自信がなくなってきたマケインが虚ろな笑いを浮かべて振り返る。もしもこのまま竜が出てこなかったとして、積んできたタールやら大量の油やらは一体どう処理したらいいものなのだろうか。
「この世界って油絵とかあったっけな……」
いやいや、あのタールも結構濁った色をしていたぞ。松脂ならともかく、粘着性はあるにしても流石にその活用法は難しいのではないか?
……っていうか、もしも仮に、だ。強引に油絵に再利用できたとして、一体何年分のストックになるか分かっているのか?
頭痛を堪え、水筒から飲み水を口にしたマケインに、タオラは話しかける。
「……ねえ、マケイン」
「なんだ? タオラ」
「……あなたが助けたい女の人って、どんな、関係なの?」
その問いかけに、マケインは含んでいた水を噴き出しそうになった。
純粋なアクアマリンの眼差しがこちらを向く。彼女の縞柄の尻尾がたしーん、たしーんと脅すように揺れた。
「か、かけがえのない家族みたいな人だよ」
「……嘘、言ったら怒る」
「本当さ! 誤解じゃない!」
そりゃ今のところトレイズは俺のことを好きだと言ってくれるし、細市の前世での年齢を考えたらエイリスだってストライクゾーンだ。だけど、二人とそういう関係になったことは未だないし、火も煙も存在しない清らかな仲だと思っている。
その辺をしどろもどろに言い訳しながら説明すると、タオラはムッとした表情でそっぽを向いた。
「……だったら、好きな人は? マケインには恋人はいない?」
「それは……」
どうしてその一瞬、彼女の顔が思い浮かぶのだろう。
忘れようとした、気付かないように封印していた感情が胸の奥で存在を主張する。どんなに求めたって、求められたって出せない答えが自分の中で育っている。
にわかにさざめく風が吹いた。
ひと時だけ目を閉じ、マケインは平常心を取り繕って言葉を紡ぐ。
「……どちらもいないよ」
これではまるで自分が悪名高い女垂らしであるかのようだ。
地球人は理想郷の林檎を食べて嘘をつくことを覚えた。先祖代々受け継いできた嘘つき野郎の言葉が、こんなにも苦いのはどうしてだ。
「……そう」
唇はまっすぐに結ばれて。タオラの短い金と黒の髪がふわりと動く。
通り抜ける森の道。土と葉の青臭い匂いがする。
何か言いたげで、けれど沈黙を選んだ虎獣人娘との間に静けさが流れた。何か他に無難な言葉はなかったものかとマケインが心中反省していると、あと少しでリュール宿場町というところでトシカが目を見開いた。
「――れはおかしい」と、兎獣人の男は呟く。
「え?」
マケインは、呆気にとられて振り返る。完全に油断をしていた貴族少年に向かってではなく、他の仲間の獣人に向かってトシカが大声を出した。
「この辺りの魔獣の数は増えていたはずだ! それなのに、道中スライムの一体も出会わないのはおかしいではないですか!」
「わーってるよ、んなこと」
傭兵隊長のアドルフは刮目して豪快に笑った。
「恐らくは、低位の有象無象の魔物はより強大なモンスターの気配に怯えて身を隠しているんだ。小僧の言葉が当たったと見るべきだな……っ」
御者をやっていたデルクが冷や汗を滲ませながら笑って応える。
「おい、おっさん。本気かよ。本気でこのまま渦中の宿場町まで突入するつもりか? 飛竜と闘った冒険者の生存率は忘れたとは言わせねーぜ?」
「デルク。お前が嫌ならこのまま捨てていくぞ」
アドルフは鋭い眼光で低い声を出した。
「い、いや……別に」
「御者なんて誰でもできる。他に文句がある輩はいるか? 割に合わない仕事だと怖気づいている軟弱な奴がいるのだとしたら、俺は云ってやりたい。お前たち、傭兵としていくら人間に仕えたとて、勇猛果敢なる我ら獣人の誇りはどこへ売ってきたのだと」
気まずい沈黙が馬車を支配した。
馬の鼻息と蹄の音。群れとなって逃げるように飛ぶ鳥の羽ばたき。それだけが耳にざらつく。
「大きな挫折を知らなかったあの時代。我らは命を賭した闘いの中にこそ命の躍動を感じたものではなかったか!?」
「あの日の過去の自分は今の自分に何を云うと思う!? もしもここで利口に生きることを選んだとして、かつての己が逃げることを選んだ自分を戦士として肯定してくれると思うのか!?」
「あの災禍から生き残られたタオラ様の選んだ道を、未来を繋ぎ守り導くのが失われた仲間への手向けというものではないのか!」
力を入れてそう演説しているアドルフの言葉に、デルクが動揺した声を上げた。
「お、おおお、オッサン!」
「それでもまだ何か文句があるのならば、俺は……っ」
「そうじゃない、見えた! ――空だ! 飛竜が空にいる!」
一同はデルクの言葉に状況を判断するのにしばし遅れる。やがて、驚愕した面々が馬車が傾くぐらいの勢いで曇り空を仰いだ。
誰もが血の気を引かせる。そこから見えたのは、緑色の鱗をした大きな飛翔体が一匹、旋回するように高い空を飛んでいるところが目視で確認されたからだ。
その禍々(まがまが)しい光景に、覚悟を決めて来たはずのマケインは絶句をしてしまう。
「そんな、あれが飛竜……!?」
ワイバーンは竜と云ったって小型だと聞いていたはずだったのだが。考えていたよりもリアルな迫力に心が震えそうになる。
滝のような汗が流れるほどの恐怖の感触。
自分はなんて馬鹿なことをしようとしているんだろう。
遠くに見かけるだけでも本能が近づくなと警鐘を鳴らす。前世にテレビで見た恐竜映画も裸足で逃げ出しそうな恐ろしさだ。
「……マケイン、落ち着いて」
タオラは、祈るように睫毛を伏せる。
「俺たちも見るのは初めてだ……。坊主、お前さんなかなか運がいいぜ」
引きつったように笑った名も知らぬ獣人のセリフに、マケインは胃から酸っぱいものがこみ上げながらもぎこちなく笑い返した。
初めから反対派であったトシカは苦み走った顔で吐き捨てる。
「それもとびっきりの悪運だ。今のうちに好きな神様にでも命乞いをしておくんですね」
「それじゃあ困るよ。これから助けに行くのは、その神様なんだから……っ」
「はい?」
それでも、抗うんだ。そうじゃないと、彼女達は誰が助けてくれるっていうんだ。
中身を吐き出しそうになっている胃を押さえ、マケインは加速していく馬車の中で清水の舞台から飛び降りるような気分になった。
トレイズ! エイリス!
頼む、間に合ってくれ!




