☆53 最悪の覚悟
エイリスはきつく己の唇を噛んだ。
神官のグレイと一緒に行動していたマケインが、レッドボアに突き飛ばされて崖から転落し、行方不明になったという報告を受けたのは、二日前のことだった。
聞くところによると、彼が落下した崖の下には深くて流れの急な川があったらしい。
無論当然のこととして、行方が分からなくなった少年の捜索は今も行われている。けれど、その手掛かりは一つも見つからなかったと……。
怯える神官からその報告を受けたトレイズは、傍目でも分かるほどに蒼白な顔色となっていた。
「……どうして」
トレイズにとって、マケインの存在はかけがえのないものだ。そのことが未だ理解しきれていない神官達の鈍さに、彼女は怒りを燃え上がらせる。
食神は腕を振り、険しい眼差しで怒鳴った。
「どうして、どうしてその状況でアンタたちはのうのうと帰って来れたのよ! あたしがそんなことを聞かされて旦那様を守れなかった無能を許すとでも思ったの!?」
理不尽なほどの感情の高ぶり。近くにいた他の神官たちの顔色がなくなるくらいに、トレイズの怒りは激しいものだった。
「……っ、トレイズ様」
否、元来神々とは理不尽なものである。それが人間らしく大人しくしていたこれまでが、むしろおかしいのだ。
もしもトレイズ神にそうさせる理由があったのだとすれば、それは何らかの要因が引き起こしていたものなのだ……。
「もしも! もしもよ! 旦那様の命に何かありでもしたら、あたしはこの国の人間のことを決して許さないわ! まずは王族から……処刑された後の魂が永劫に地獄へ堕とされることを覚悟しておくことね……っ」
マケインに庇われたグレイは、その恐ろしい言葉にガタガタと震えだした。
さすがに見ていられず、勇気を出した他の神官がグレイの助けに入ろうとする。
「ですが、今回のことは誰にも予想できなかったことでありまして、それを陛下の責任だとなさるのはあまりに!」……と。
「みんな連帯責任よ……。旦那様を見つけてこれなかったら、みんな並べて広場であたし自ら首を切り落としてやるわ」
首切りを躊躇わない女神は恐ろしいことを言っている。
残虐なトレイズの言葉の声色はどこまでも本気だ。その事実に気が付き、共に旅をしていた神官たちは彼女の恐ろしい本性にようやく気が付く。温厚そうで普通の女の子のようであった食神の姿は、全部マケイン・モスキークという存在があっての事実だと思い知らされたのだ。
一見あまりにも平凡に思えた少年がいるのといないのとでは、ここまでこの恋する女神の制御が効かないものだとは誰も予測していなかった。ストッパーが存在しない彼女にとって自分たち人間の命など虫けら以下に等しく、とても人間の魂の尊厳など考えてはもらえない。
そもそも、誰が言い出したのだ。仮にマケインがいなくなれば、食神からもたされる利益が独占できるかもしれない、などという密やかな噂を。少年がいなければ、王族ですら命の保証すらされないのが現実であろうが。
初めて、一同はマケインがいることの有難みを実感した。それと同時に、全身全霊で足どりを絶った少年を見つけ出すことを心に誓う。
グレイは震える声でこう言った。
「トレイズ様……凡ては私の不徳の致すところでございます。マケイン殿は、レッドボアに襲われそうになった私の命を助けてくださろうとしたのです」
「……それで?」
「願わくば、この恩義に報いる為にもマケイン様を捜す指揮は私に任せていただきたい! トレイズ様は、リュール宿場町でお待ちしていただきたいのです。もしかすれば、マケイン様の情報がそちらに入る可能性もございます」
食神の目はすっと細くなった。
不愉快そうにトレイズは眉間にシワを寄せる。
「……ねえ、あなたはマケインが生きてるって思う?」
衣服を身に着け剣を持った状態で崖から川に落ちたのだ。冷静に考えればその重みで沈み水死している可能性の方が高い。
けれど、真っすぐな目でグレイ・リーフェンはこう応えた。
「もちろんでございます」
嘘を言ったつもりはない。何故か、グレイにはそんな確信があったのだ。
トレイズが睫毛を伏せて、沈痛の声で話す。
「だったら、あなたでいいわ。旦那様が死んでいると決めつけてかかるような人間に任せることなんてできないもの……」
「トレイズ様」
エイリスは気遣うように寄り添った。
彼女の仕事で荒れた手は、そっとトレイズの労働を知らない高貴な白い掌を握りしめる。それを見た女神は、嫌がりもせずにその温もりを受け入れた。
実際、エイリスもまたマケインのことを思うと泣きそうになっていた。この感情がどこからくるものなのかは分からないものの、とても胸の奥が絶望で締め付けられる思いだ。
弟のように思っていたから? ……いいや、それだけでは到底説明のつかない悲しみだ。心の奥底に眠っていた何か大事なものに剣が突き刺さったような喪失感。
その正体に気付いてはならない。無意識にメイドは自分の本心に蓋をした。もしもこの感情に目覚めてしまったのなら、怖いことが起こってしまいそうな恐れがする。
明日の私が、この気持ちに囚われて息ができなくなる前に。
泣かない強さが欲しかった。マケイン様の生存を諦めないでいられるほどの、しなやかな強さを。
「トレイズ様、マケイン様はきっと大丈夫です」
「……エイリス」
「だって、あの方はいつだって規格外な方であったではないですか。きっと何でもないような顔をして、ひょっこり帰ってきます」
「そうよ、そうよね。だってマケインだものね」
トレイズはようやくかすかな笑みを浮かべる。
萌黄色の瞳の奥にあった不安が少しだけ和らいだ。
慰めの言葉だけではない。何故か、彼女らにはこの逆境を乗り越えてマケインが帰ってくるようなそんな予感がしていた。
二人の繋いだ手には、お互いの聖なる祈りが握られている。
荒れ模様だったトレイズは、張りぼての強がりに笑って見せた。
「帰ってきたら、文句を言わなくちゃいけないわね。こんな風に世界で一番美しい女神を不安にさせるだなんて、不遜なことをしでかしたんだもの」
信じなくちゃ。
何もかも投げ出してしまう前に、泣き出す前にできることなんて本当に少ししかないのかもしれないけれど。
言いたいことばかりで言葉にならない。
誰も悪くないことなんて分かっていた。ただ、自分は誰かに悲しみの原因を押し付けてしまいたかっただけだ。
トレイズはそのことに気が付いて、つんと鼻の先がしょっぱくなる。
「そうね。ひとまずあたし達はリュール宿場町に戻りましょう。あそこは人が交わる町だから噂話や情報がよく集まるわ。こんなところで野営をしているよりも、もしかしたら聞き込みをしていれば何か旦那様のことが分かるかもしれない」
「そうですね、トレイズ様」
「捜索隊の指揮はグレイ。アンタに任せるわ。下流へ流された可能性も考えて広く探すのよ。いい?」
女神に命じられたグレイは深く跪いた。
「はっ」
「死にたくないなら、励みなさい」
ガチャガチャと剣と鎧がぶつかる音がして。そのよく響く一声を合図に急ぎ足で人間が遠くへ去っていく。
皆が消え去った天幕の中。
静かになった空間で、トレイズはエイリスに話しかけた。
「ねえ、もしも旦那様が死んでいたら、残されたあたしはどうしたらいいかしら……?」
トレイズの、初めての弱気な言葉だった。
「それは……」
「どうしよう。旦那様が、もしも死んでしまっていたら」
エイリスはトレイズの泣きそうなセリフに胸が痛くなる。
あれだけ周囲を威圧していたのは、彼女のこの焦燥があったからなのだ。
「あたし、こんな覚悟なんてまだできてない。そりゃ、人間と神様だしいつかは別れが訪れる時が来るって知っていたわ。だけどこんなの早すぎるじゃない」
人目がなくなった空間に、途方に暮れたトレイズのすすり泣きが聞こえてきた。
エイリスはなんと慰めたらいいか分からず、逆に自分までもが気が付いたら涙を溢れさせてしまっていた。
「……トレイズ様、私も同じ気持ちです」
「思ったよりもあたし、マケインのこと……っ」
誰かで妥協することを押し付けることなんてできない。好いた人の代わりなんてどこにもいない。
同じ色の髪でも、そっくりな彩の瞳をしていたとしても。
どんなに誰かが綺麗に模倣して見せたって、それは偽物でしかないのだろう。
最悪の覚悟に涙を零しているトレイズの美しく物静かな泣き顔に、ただの人間であるエイリスは心が締め付けられるのを感じた。
……マケイン様。あなたを見失った世界は、こんなにも変わってしまうのでしょうか。
深く、深く水の中へ潜ったように息をするだけで苦しい。
この世界は命の価値が低い。疫病などで百人単位で村が消失してしまうことだってざらにある。ましてや、今回は下級貴族とはいえたった一人の子供がいなくなっただけなのに。
私は、そのことに悲しむトレイズ様の気持ちをどうでもいいとは……思えない。もしかしたら、それは私もマケイン様へ同じ感情を抱いているのかもしれないのだから。
エイリスは睫毛を伏せて想う。
私だって、本当ならマケイン様のことが……。




