☆48 オトシモノを拾った獣人少女
宿場町を出立すると、馬車は山を越えることとなった。といっても俺たちが自分で歩くことはなく、精々馬車の中で大人しくしているだけだ。途中、ようやく訪れた休憩時間に凝り固まった肩を鳴らした。
「ちょっと魔法の練習でもしてみるか」
人気のない場所を探し、トイレに行くと嘘をついてみんなから離れる。頭で考えているのはカッコいい詠唱の修飾語だ。
「うーん、なかなか思いつかないもんだなっと」
こういうのが得意な中二病心ってものが俺には足りないのかもしれん。今更そんなことを言いだしてもキリはないけどな。
「マケイン殿。貴殿はどこまで行かれるつもりですか?」
咎めるようなこんな声が聞こえてきたものだから、俺は目を見張る。「え?」と半笑いで振り返ると、そこには不機嫌そうな顔をしたグレイさんが剣呑な眼差しをこちらに送っていた。
「ど、どうしてグレイさんがここに」
「護衛も連れずに子どもが不審な態度で遠くに離れようとしていれば、どんなに腹立たしくとも追いかけるのは当たり前でしょう」
「ええ……」
つまりは、この人は心の片隅でマケインのことを心配して追いかけてきてくれたということらしい。複雑そうな表情で俺は言った。
「すみません、トイレに行きたいと云ったのは……その、嘘で。魔法の練習ができないかと思って場所を探していたんです」
「そうですか。やはり、追いかけてきて正解でした」
目を細めた青年神官は、草をかき分けマケインの前を歩いていく。その背中を怯えながら進んでいくと、やがて切り立った崖にたどり着く。その下は大きな川が流れていた。
「あの、ここって」
「どうでも練習をしなければ納得がいかないのなら、この川にでも魔法を撃ってみたらいかがですか?」
「い、いいんですか?」
「貴殿の持っているご加護を考えればろくな結果にはならないと思われますが、さっさと試して自分に諦めをつける経験というのも……悪くない」
そうだ。そうして人は己の限界を知って大人になっていくのだ。
皮肉っぽい笑みが視界に入り、マケインは思わず訊ね返した。
「グレイさんも、そういう経験をしたことがあったのですか?」
「…………」
不愉快そうに彼は眉間にシワを作る。
「君には到底分かるまい」
ぎろりとグレイはマケインを睨む。
「私も食神の加護を持つ者だ。剣術もできず、魔法も使えず、実家は厄介払いに私を神殿へ入れた。それでも貴様さえいなければ、現れなければ私がダムソン様の一番だったやもしれなかったのだ」
出てきたのは大人らしからぬ恨み言。得られていたはずの未来を、愛情をマケインの存在は綺麗に握りつぶした。それを聞いたマケインは何とも言えない気持ちになってしまう。
「……それは悪かったよ。そんなつもりじゃなかったんだ」
「その程度の言葉で済まされていいものか! 神官の私には、トレイズ神への信仰とダムソン様への敬愛しかなかったのだ! 容易くその二つを手に入れてみせた貴殿はその価値がまるで分かっていないではないか!」
憧憬のように思う。
この少年の様になりたかった。……いいや、決してなりたくはなかった。女神であるトレイズ・フィンパッションからの恋心を向けられておきながら、その意味が理解できていないような愚か者になどなりたくもない。
どうしてあの悲し気な笑顔に気付かない。
この少年はきっとトレイズ様のことを不幸にする。それだけは確信があった。
永遠に近い時を生きる神と人間の寿命の差は絶対的なものだ。短い時を生きるマケイン本人はその自覚が薄いのやもしれないが、トレイズにとっては真に『今』しかないのだ。
「…………」
反論のしようもなく、マケインは黙りこくってしまう。
自分が悪気はなく誰かの人生を踏みにじっていることに気が付いたから。誰かの思いを傷つけていることを知ってしまったから。答えようもない、堪えられない。
「分かってるよ」
しばらくして、マケインはそう絞り出す。
「トレイズが俺には勿体ないってことぐらい……分かってる。
だから、彼女の気持ちには応じられない。俺なんかよりもっといい奴を探して、一緒になるべきだって思うからだ」
多分、俺たちは出会っただけで幸せだったんだ。それ以上なんて望んじゃいけないさ。
そう思い、マケインは取り繕った笑みを浮かべる。その笑顔を見て、今度はグレイの感情が忌々しさで塗り替えられた。
「では、もっといい奴というのはどういう基準ですか」
「それは……王族とか」
「お話になりません、貴殿は考えが足りない」
最初はこの少年がトレイズ神のことを騙している可能性を見定めようとグレイは思っていた。けれど、この旅をしているうちにどうやら真逆の状態であるように感じている。
少年に悪気があってトレイズ神をたぶらかしたのではない。トレイズ・フィンパッションという少女がマケインのことを本気で心を寄せているのだ。
そうなってくると、いくら嫉妬の念に焼かれそうになってもこちらの方針というものが変わってくる。
「決して悪人でないから腹が立つ」とグレイが呟いたところで、マケインはハッと何かを察知して視線を上げた。
「グレイさん……何か、来る!」
「何かって何が……」
そこでグレイが瞬きをすると、背後の森から何か得体の知れない気配がやって来ることに気が付いた。
「レッドボア……」
おかしい。この辺りはモンスターの動きも落ち着いているはずなのだ!
現れたのはまだ若いイノシシの中型だ。
身を強張らせたグレイを狙ってレッドボアは襲い掛かろうとする。咄嗟のことで動けない神官をかばい、その突進を子ども用の剣で食い止めようとマケインは前に出た。
「グレイさん、早く逃げて!」
「…………っ」
神殿でしか生活したことのないグレイは、魔物との戦い方など経験がない。モンスターの馬力で少しずつ圧されていくマケイン少年の姿を見て、歯が震えた。
「モスキーク少年!」
やがて、レッドボアはマケインに突進を加えて崖から叩き落とす。呆気なく吹っ飛ばされた軽い体躯の少年は、最後の悪あがきで突き出していた岩に片手でぶら下がった。
「…………ぐ、おお」
持っていた剣を岩場に突き立てようとする。火花と共にがりがりと音が鳴る。小さな砂利が奈落に落ちていく。
光のように微笑んだ彼女の姿が脳裏によぎる。グレイが助けようとするものの、腕の長さが足りない。無理だ。無理なんだ。
剣が自分よりも先に鋭く落ちた。指先から力が抜ける。じわりじわりと重力によって生命線から手が離れる。
「…………」
嘘だろ。俺、こんなに容易く死ぬのか。
手指が岩から滑り落ちた。砂色の髪は舞い、鳶色の瞳は大きくなる。自分の身体はかなりの高さの崖から流れる川の濁流へと落下していく。
それなりの衝撃で冷たい水の中へと身体が叩きつけられた。跳ねたのは飛沫と泡。最初は抗おうとしたものの、次第に力が抜けていく。
苦しい呼吸。
「――――!!」
やがて意識を手放したマケインは、なすすべもなく下流へと流されていった。
その日、獣人族の少女であるタオラは、いつもの日課で川辺で洗濯をしていた。柔らかな金色と黒の髪をした彼女は、鼻歌をうたいながら大勢の洗濯物を一生懸命に洗っていく。
「ふん、ふん、ふーーん」
獣人の中でも希少種の虎獣人。山の中でひっそり暮らす彼女は、やがてその鋭敏な知覚で川上から流されてきたとある落とし物の存在に気が付いた。
ぴくりと鼻先と獣耳が動き、素足で冷たい川の中をパシャパシャ駆ける。スカートの裾を濡らしながら彼女が拾ったそのオトシモノはあろうことか人間だった。
「……ダレ?」
運がいいのかその少年にはまだ息がある。
彼女は澄んだ水晶のような声でポツリと呟いた。




