☆36 オックスとオーク討伐
モスキーク男爵邸から北東へ三日。人気のない広い道を馬車に揺られ、たどり着いた先は嫌な感じの霧が立ち込めた場所だった。
「ここがアンセル渓谷か……」
なんだかいかにもって感じの土地だ。
深い褪せた緑の草木が風になびき、ブーツで地面に降りると砂がジャリジャリ音を立てる。人間が暮らしている様子はなく、ここには文明が余り介入していないのだろう。
「この辺りには、さほど強い魔物は生息していません。危険度もそれなりに低い初心者向きのマップですね」
「だったら、もっと人間が集まっても良さそうなのに」
「ま、この辺りは痩せていますから。薬草などを集めるなら森に行った方がうま味があるんでしょう」
剣を装備したジェフと青年冒険者がやれやれと言わんばかりに目配せして見せる。
ソネットが扱うのは女物の剣だ。どことなく民族調な雰囲気のオレンジ色のふさ飾りがついている。俺やドグマが持ってきた子供用の武器よりもよほど値打ちがありそうに感じられるのは気のせいか?
いやいや、気のせいだ。そういうことにしておこう。我が家の財政が甚だ不安になってくるけれど。
さて、大人の案内に従って慣れない探索が始まる。今回狩ることになるブラウンオックスは比較的小型の牛モンスターで、大体のテリトリーは知識で分かっているようだ。
「……はあ、はあ」
マケインより先に神殿育ちのドグマが息を切らし始める。閉鎖された屋内環境で生活を送っていたドグマはこのパーティの中でもダントツで体力がなかった。
「大丈夫か? ドグマ。少し休憩入れるか?」
「……僕、に変な気を遣うのはやめろ、ぜえ……」
顔色は青白い。
けれど基本的に負けず嫌いな俺の従者は、断固としてギブアップしようとはしない。ドグマのこれまでの事情を知っている大人たちはそれを冷ややかに見るだけで、足を止めようとはしなかった。
「僕はこれでも神のいとし子であるマケイン様の、従者なんですから……こんな程度のことで、根をあげるわけにはいかないんですよ……!」
「そ、そうか」
うん、そこは俺が悪かった。
そのわりにはだんだん空気が悪くなっているような気がするけど。
「マケインちゃん、あのさあ……」
据わった目をしたソネットがため息を吐く。
「マケイン様、貴殿はこの少年に対して少し甘すぎやしませんか?」
「え? そうか?」
どうにも前世の価値観に引きずられ、ドグマに対して強く出ることができないマケインに対し、ジェフは眉間にシワを寄せる。
「普通は従者に対して主人が気遣いをするなんてあり得ません。友人関係というわけでもないのですし、ドグマには過去の罪があるのです。上下はキチンとしませんと」
「そういうものかな」
だって、誰だって子どもがこんなに顔色を悪くしていたら、可哀そうに思うものじゃないのか? ましてやドグマだって昔俺を騙したことに関しては反省しているようだし……。
「そこが甘いのです」
言い訳ばかりのマケインを、イライラとした表情でジェフは切り捨てる。
「マケイン様、貴方は善人であろうとしているだけかもしれませんが、それではこの少年を腐らせるだけだ。マケイン様の従者になりたい者はこの先いくらでも現れるでしょう。彼らがこのように甘やかされた罪人を見つけたら、腹立たしさにドグマ少年がどこかで殺されてしまっても文句は云えない」
「……そ、それは」
「商人としての私から見たら、貴方様はひどく質の悪いお人よしだ。自分の利を考えず、周りに益を無償で分配してしまう」
「……で、」
反論ができないマケインが、それでも何か返そうとした時だった。
青年冒険者が慌てたように鋭い声を上げる。
「皆さん! オックスがいました!」
一気に空気が変わった。
ピリリとするような戦闘の雰囲気に呑まれそうになりながら、目の前の茶色毛の小型牛を睨み……、Bランクの青年とジェフは剣を構えて勢いよく足を踏み出した。
ソネットは俺を守るように前に立つ。
……だが、その瞳が瞠目したが如く大きく見開かれた。
一体の小型牛が助けを求めるような断末魔の悲鳴を上げる。生々しい血しぶきにマケインとドグマが吐きそうな思いになっていると、近くのやぶから得体のしれない『何か』が突如姿を現した。
「……二人とも!」
ソネットが真っ青になる。
振り返ったジェフは、引き攣りながら呟いた。
「……こんなところにオークか!」
「オークはBランクの魔物よ、みんな気を付けて!」
予想外の、この辺りに棲んでいるはずのない強い魔物。
硬直した俺の目の前に、でっぷりした腹を抱えたどす黒い肌の魔物が現れる。こん棒を持ち、ニタニタした笑いでこちらを見た。
「とりあえず、女子どもは逃げろ!」
「でも!」
その時、剣先を震わせていた男冒険者が、涙と鼻水を巻き散らかし。よく分からない叫び声を出しながらオークに向かって切りかかろうとする。魔物の持っていた太いこん棒が空を切り、ぐしゃりとした音を立てて彼は遠くの樹木に向かって吹っ飛ばされた。
――おい、普通にBランクの魔物に瞬殺されたぞ!? あの冒険者!
安否を気遣う間もなく、ゆっくりとオークがこちらへと振り返る。慌てたソネットとジェフがマケイン達を連れて走り出した。
喉からヒューヒュー音がする。
心臓が激しく鳴り、全身の毛穴から汗が噴き出している。
意外にも一番速く走っているのはドグマで、どこにそんなエネルギーが温存されていたのかと疑うほどだ。
足で踏みしめ、切り株を飛び越える。そのタイミングで、後ろで走っていたソネットが「あっ」と小さな悲鳴を洩らした。
地面に叩きつけられ、転んでしまったソネットに向かってオークが近づいていく。迫る脅威に、俺は足を止めた。
「ソネット!」
「あ、あたしのことはいいから……逃げ……」
ジェフ。お前は言ったよな。
俺はひどく質の悪いお人よしだって。この世界では甘すぎる価値観を持っているって。
この世界の貴族なら、平民で流浪民のソネットのことは見捨ててこのまま逃げるのが正しいのだろう。わざわざそれを助けに戻るなんて馬鹿のすることだ。
だけど、だからこそ俺は自分に問いかけたい。
無意識だけど、
本当に俺がなりたかったのって、そういう人間じゃなかったはずなんだ。
脳裏に誰かの笑顔が浮かぶ。思い出したら心臓が震えた。
「トレイズ、エイリス。ごめん……」
俺は……、
そんな利口者になるぐらいなら、俺は一生貴族らしい貴族になんかなれなくてもいい!
覚悟を決めたマケインは剣を引き抜いて、その金属に辺りの空気を映す。
結局さ、オークって、ようは知性をもった豚のことだろ?
もしもそうだとすれば、今まで使ってこなかったもう一つのスキルで何とかなるかもしれない。
マケインは喉から大きく叫び、敵に立ち向かいながら剣を振るった――。
「――『と殺!』」
自然とどう動けばいいのか身体が分かった。高く跳躍し、機械的にオークの首元目がけて剣が一閃する。
動脈を深く切り裂かれたオークは目を白く剥き、全身の血を切り口から噴き出して痙攣を繰り返し……絶命した。地面に振動を伝えながら倒れた魔物を見下ろして、深呼吸を繰り返すマケインにドグマが叫んだ。
「マケイン様!」
それに振り返って、マケインは貧血になりそうなのを堪えてサムズアップする。
あー、なんだか色々な意味で踏み外したような感覚がする。
生温かいオークの血を頭からかぶり、雫が垂れる。視界は良好とは言い難い。
まだ地面に転んでいたソネットに手を差し伸べたところで、緊張が切れたせいだろうか。世界がぐるりと一周、廻って暗転をした。
気が付くと、馬車に揺られて帰るところだった。
「…………」
荷台には山ほどの肉が積まれ、それをグロッキーな心境で眺めていると自分に毛布がかけられていたことを知った。
「起きた? マケインちゃん」
ソネットが囁いてくる。
「う、うん」
「マケインちゃん、あのね。あの冒険者は生きてたよ」
それを聞いて安堵する。
まさか自分のせいで死人でも出たら、とても消化しきれないところだった。
「切り株にぶつかって目をまわしてた。帰ったらもう一度Bランクの適正試験を受けさせなきゃ。もしかしたら、逃げてたあたし達の中で一番安全だったのアイツかもしれないしー」
「ぶふっ」
噴き出したマケインに向かって、ソネットは笑う。
「どうしてあたしのこと助けてくれたの?」
「……うーん、」
大して深い理由ではなかったような……。
一度気絶した後から思い返しても、よく記憶していない。綺麗に忘れてしまったようだ。
「マケインちゃん、あのねー。貴族としてはあれって最低だよ。見捨てるべきものを見捨てないのって、本当はすごく良くないのー」
「…………」
「でもさ、そのおかげであたしは生き残れたわけで。すっごい感謝、してるのよね」
照れたようにはにかみながら、ソネットは元気に笑った。
「だからさ、将来マケインちゃんがアレを卒業したくなったら、あたしに声かけてちょうだいね。後腐れない、いい女になるからさ」
耳元で囁かれたセリフに、マケインはぎょっとする。
「あ……あああ、アレとは」
「えー、そこまで言わせるの?」
ニヤニヤ笑っているソネットに、ドグマが真っ赤な顔でくってかかる。
「不潔なことを言うな! お前のような女とマケイン様が釣り合うとでも思っているのか!」
「だから一度だけでいいって云ってるじゃない」
「マケイン様の身体は指先から髪の一筋までトレイズ様のものなのだ! 命拾いしただけでも感謝しろ!」
そんな口喧嘩を聞き流し。マケインは馬車の窓から外を眺め、乾燥した空気を吸う。
星はまたたき、風は吹く。何故かその匂いは、かつてどこかで嗅いだことのあるような懐かしい夜の気配がした。
「俺が……あの化け物を倒したんだよな」
なんとなく世界が動きそうだ。
その予感に、少年は胸が締め付けられる思いになった。
確かに俺は甘い。そして、この世界で生きるなら、本当はそのままでいてはいけないってことも分かってるんだ。




