☆30 さあ、パンと水を売りに行こう
ストーン商会との交渉はつつがなく終わった。
見たこともないパンと香りのついた綺麗な水に驚愕した向こうは、こちらがすまなく思ってしまうほどに全ての要求を呑んでくれた。
それどころか、一緒に行ったダムソンの影響力もあったのだろう。ストーン商会がこの商売に一口噛む代わりに、あちらにできる出資を約束してくれたのだ。これには俺も驚いた!
その額は、金貨三枚。日本円にすると三十万円程度になる。少なく感じられるかもしれないが、これだけの金額があれば山ほどのパンが焼ける。
うちが貴族の名とアイデアを貸し、流通や販売はストーン商会が一手に行う。その取り決めが一瞬で決まり、パンを焼く暖炉の手配も済んだ。
市場での販売は、マリラの弟のジェフが手伝ってくれることになっている。彼は気のいい平民の好青年で、力仕事も難なくこなしてくれた。
全てが万事上手くいった。いきすぎて怖いぐらいだ。
――そうして、ようやくというべきか。いよいよパンと水を売る日がやって来た。
「……これ、どう見ても女物じゃないか?」
マケインの目の前にある衣装は、占い師のような顔を隠すベールに、着丈の長い清楚な生成りのワンピース。足元にはゾッとすることにフリルまでついている。
鳥肌の立った俺が嫌悪を露わにしているのに、無表情のドグマは断固として譲らない。
「しょうがないじゃないですか。安全の為の変装でもしないことには、一緒にパンを売ることなんてできませんよ」
仮にも男爵家の嫡男が物売りなんてしてはならないということらしい。
「お忍びにしたって、流石にこの格好はおかしくないか?」
仕方なく着てみたものの、足元がすーすーしてしょうがない。さぞかし気色の悪いことになっているに違いないと女装した自分を鏡で覗き込んでみたところ、そこにはなかなかの美少女が映っていた。
「…………」
無言でマケインはドグマに手鏡を突っ返す。
沈痛の面持ちになった女装少年は、屈辱すら感じていた。
「いや、それなりに似合うと思いますよ? ぷくく……」
「てめえやっぱり笑ってんじゃねーか!」
にやにやしている従者の言葉にマケインは吠える。
「あー、もういい! 俺は普通の恰好で行くぞ、やってられるか!」
「待て、マケイン! そんなことをしたらタダでさえ斜陽のモスキーク家の名に傷がつくじゃないか! そもそもお前が貴族のくせに自分でパンを売ってみたいと我儘を言うから……」
聞く耳を持たないマケインに、慌ててエイリスが追いかけてくる。困り顔でこう叫んだ。
「マケイン様、待ってくださいませ! 本当にそれでいいんですか!?」
「仮にも男の俺がこんな真似できるか!」
「だったら、せめて乗馬用のおズボンを用意してありますから!」
「く……っ」
仕方ない。ここでこれ以上揉めていたら時間がいくらあっても足りないだろう。
妥協として渋々その言葉を聞き入れたマケインは、誰もいない場所で暗い顔をしながら服を着替え始める。
フリルはついているが、先ほどよりはまだマシだと言える。少なくとも、スカートでないだけ良かったと思えた。
(ズボンがあるなら最初から出せっていうんだ、全く)
ぶつくさ内心で文句を言いながら服を脱いだその時。偶然にドアが勢いよく開く。
「あら……」
ばったり着替え中の少年と対面したのはトレイズだった。
思わぬ無防備な姿を見られてしまったマケインは反射的に甲高い声で悲鳴を上げ、トレイズも全く同じ声を出した。
「ごっ、ごごごごめんなさい!」
「いや、その……っ」
顔を真っ赤にし、いつもは積極的な彼女が脱兎のごとく逃げていく。
……普通は逆のシチュエーションだろ!
マケインは自分の無防備な姿が見られてしまったことに気が付き、女子のような反応をしてしまったことに自己嫌悪をした。
「うああ……」
別に男なんだから素肌くらい見られてもいいだろうに……!
まさか自分の喉からあんな悲鳴が上がるとは思わなかった。思わず赤面をしたマケインは、ずるずると壁越しにしゃがみ込む。
トレイズも、長生きなくせに意外と免疫がないのだろうか。
口元を押さえ、そのことを意識した瞬間に頬が熱くなるのを感じた。
ようやくスポーティーな乗馬服に着替え終わったマケインは、自分のいで立ちにまあまあ満足を覚える。
確かに女顔のせいで可憐という単語が似合いそうな感はあるが、かといってひどく弄り倒されたわけでもない。妥協点としてはこの辺でいいだろう。
なんといったって、スカートじゃないのが気に入った。手足やシャツについたフリルのことはわざと意識から外している。
「よおし! 行くぞ! みんなっ」
「はい!」
今回の販売のメンバーは、マケイン。エイリス。ドグマ。そして、マリラの弟のジェフ・ストーンだ。不満そうだったがトレイズにはちゃんと居残りをさせている。
今回は馬車を借りてある。エイリスが御者をやるのだ。必要な品は、既に運び込んであるものもあるので、浄水した後にハーブとフルーツに漬けた水の入った瓶を幾つも持っていくだけだ。
「おっとっと……」
瓶が倒れないようにするのには神経を使う。カツン、カツンと隣り合った焼き物が音を立ててぶつかる。
「マケイン様、後ろは大丈夫ですかー?」
「うん、このままゆっくり走って!」
「分かりましたぁ!」
オレンジ色の朝日が昇り、走る馬車に向かって遠くから陽光が差す。
爽やかな気持ちのいい風が吹く。夜明けの肌寒さは少し感じるけど、じきに暖かくなっていくだろう。
空にあった二つの月はどんどん色を薄くしていった。




