☆110 そしてエイリスは消えた。
そして、エイリスはある日忽然とモスキーク家から姿を消した。
彼女の言動や振る舞いに異変らしきものはなかった。まるでお化けに攫われてしまったかのように、どこかに出かけたエイリスの靴が屋敷に戻って来ることはなかった。
それに気付いたとき、マケインは血の気が引く思いになった。
マケインの手元には、オパールはちゃんとあった。あの日の出来事は、誰にも口外していないはずだ。
ソネットには、あれから監視をちゃんとつけている。
まさかソネットが迂闊に誰かに喋ったのか? それともエイリスは自分の実家に帰ったのだろうか? 駆け落ちしたい男がいたのか?
俺には事情がさっぱり分からない。
ただ、マケイン自身の問題に巻き込んでしまったのではないか、との考えが頭によぎった。
彼女のほっとするような優しい笑みが、脳裏にこびりついて離れなかった。
そうはいっても、ただの平民の女中の一人だ。貴族である伯爵家がわざわざ捜索する道理がない。
マケインが彼女に惚れこんでいるわけでもない。探す理由がない。本来なら、だ。
「ふざけるなよ……」
ただ、マケインは心底にキレそうになった。
ただの平民の女中? エイリスが?
俺たち兄妹を必死に育ててくれた彼女を見捨てる? そんなこと、考えるにも値しない。
答えなんて明白だ。
まとまらない感情のどれもが、恩人を見捨てるなと叫んでいた。
「なんてことだ! まだ見つからないのか!」
ルドルフが叫ぶ。
「どうしましょう、可愛いエイリスはどこに行ってしまったの!」
同じくマリラは倒れそうな声で叫んだ。ルリイもミリアも青ざめた顔で動揺している。
マケインも階段を駆けおり、妻の前に走り寄った。
「……エイリスが消えた。部屋の荷物はそのままだ。街に買い物に行ったきり帰ってこない。屋敷の周辺のどこを探しても見つからない……!」
「マケイン、とにかく落ち着いて」
バタバタと屋敷中が大騒ぎになった。封印石の存在は、トレイズも知っている。蒼白になっているマケインの手を握り、トレイズが囁く。
「封印石に異変はないわ。誰にも知られていないはずなんでしょう、魔族はまだ嗅ぎつけていないはずよ、いくらなんでも早すぎるわ」
「そんなこと分からない! もしも攫われた先で拷問でも受けていたらどうする!!」
「今すぐ屋敷の近くの街を探しにモスキーク家の兵たちに連絡が行っているわ! とにかく、早くエイリスの故郷へ行くのよ! 探せる伝手を辿っていくしかないわ!!」
「すぐに行く。俺たちがエイリスを助けないでどうするんだ。彼女は我が家の大事な存在なんだ……っ」
「あたしも付いていくわ」
カバンと羽織を手に取ったトレイズに、マケインが制止をかける。
「君が行ってどうするんだ!」
「もしも封印石が原因だったら、あたし達神々の責任よ! こんな所でじっとなんかしてられないに決まってるじゃない」
「ダメだ! トレイズが来ても足手まといにしかならないっ」
震える睫毛で、妻が口を開く。
「あたしだって、なにかしたいのよ……っ エイリスは、大事な友人だもの……」
……ああ、もう。本当なら見つからないように押し込めておきたいのに。
よく考えたら、今の屋敷の中にトレイズを残していくのは逆に心配だった。このような非常事態だ。屋敷にいる誰もが信用できない。
「……邪魔をしないか?」
「……ええ。躾のきいた飼い犬のように大人しくしているわ」
「俺の奥さんが素直に大人しくしている姿なんてとても想像がつかないな」
マケインはようやくわずかに笑った。
額と額を合わせ、夫婦で目をつぶる。素早くついばむようにキスを交わし、置いてあった剣を持ち、急いで羽織を翻して馬小屋へと向かった。
「トレイズは馬に乗れたよな?」
「ちゃんと練習したわよ」
「怖いから、俺と一緒に乗ろう。ちゃんと捕まっているんだぞ」
ランタンを持ったダムソンが、話を聞いて白いガウンで駆け付けてきた。
厳しく眉根を寄せ、険しい表情をしている。
「マケイン殿。話は聞いた。儂も神殿の関係者と出来る限りの伝手を辿ってみよう。グレイを同行させても構わないじゃろうか?」
「……いや、今は誰もが信用できないんだ」
「あの者の精神性が悪しくないのはマケイン殿とて承知しているじゃろう、グレイなら大丈夫じゃ。どうしても連れていかないのであろうか?」
「神殿の人間はどうしても連れて行けない」
もしも封印石の話が漏れてしまったら、彼がどのような判断で動くかが分からない。神殿そのものと関わって揉めることは避けたかった。
「ダムソン。旦那様のご判断に任せなさい。これからの行動は、秘密裡にタオラと信頼できる数人の傭兵と共にここを出ます。くれぐれも、神殿は私たちの邪魔をしないで欲しいのよ」
威厳のある食神としてのトレイズの言葉に、
「そうですか……」
曇った顔で、ダムソンは俺たち夫婦に向かって頭を垂れた。
同伴する護衛の獣人の兵士へと、マケインは厳しい声を出した。
「デルク、どれくらいでエイリスの実家に着くだろうか?」
「一晩かければ、大分村の近くまで行くことができるはずですぜ」
狼の毛並みに雨粒が弾かれている。
小雨の中、俺はトレイズをまず馬に乗せた。鐙に足をかけながら、マケインは大きく声を張り上げる。
「行こう、エイリスが育った村まで」
腰にかけた剣がずっしりと重い。
準備を済ませたトシカとデルクを連れて、俺は手綱を振った。
「……見つかるといいですが」
不安そうなトシカの声が、夜の闇に響いた。
跳ねた泥が女神の頬につく。
「マケイン」
いつになく険しい表情をしている自分の夫へ、トレイズは囁いた。
その声は、走る蹄の音にかき消される。
「……貴方は、私じゃなくてもそうやって走るのね」
ぽつりと消えていく、嫉妬の言の葉。
本当は、マケインに付いてきても。どうしたいのかトレイズ自身でも分からない。
見つかったエイリスの手をとったマケインを見た瞬間、どんな気持ちになるのかも。
エイリスのことは好きだ。私だって彼女を愛している。
けれど、トレイズは知っていた。
マケインよりも年上の女性であるエイリスは、仕えているマケインが大きくなるにつれて、主従を超えた感情を抱いていたことを。
彼女は、エイリスは、本当はマケインのことが好きだった。恐らく、女性として。
姉弟のような関係を続けながら、穏やかに微笑みながら。マケインに淡い恋をしていた。
それは、愛だろうか。
トレイズの恋情より勝る、慈愛の感情というものだろうか。
「……だから、エイリスは居なくなったのかしら」
私は人間のことを知ることを始めたばかりだ。
数えきれないほどの時間を、神として存在してきたトレイズには分からない。
その短い瞬きに、人とは心とどうやって生きていくものなのか。
瞬間のように輝くロウソクのような、あっという間に消えていくものだけど、そこに意味がないとは思えない。
探し出して直接訊ねてみなければ本当の気持ちなんて。私には分からない。
だからこそ、エイリスを見つけなければいけない。
自分に沸き上がる彼女への沢山の気持ちの行く先は、多分、人の時間に寄り添ったトレイズからのエイリスへの『好き』だと思うから。




