☆102 赤黒い汚れ
この世界で人を殺すということについて、マケインは今まで思考したことがなかった。否、避けていたといった方が正しい。
出来る限りであれば、自分の前に現れる敵は魔物であってほしいと常々無意識に思っていた。それが現代人の甘えであることをマケインはよく分かっていた。
今回の事件は、馬に乗って走っている最中にも、なんとなく相手が人間であることの予感があった。
アニエルが連れてきた何人かの騎士。駆ける馬の蹄の音がする。
背伸びして大人になることなんてろくなことはない。大体、俺が乗り越えなければならない壁は、勝手にそちらからやって来る。
戦場の前のぴりつく肌の感覚がした。柄にもなく緊張している。……ああ、これはまさしく『壁』への体感だ。
アニエルが大声を放つ。
「ついて来てるね、マケイン!!」
「…はい!!」
いつの間にか、地球で細市だったはずの少年の魂は、この世界で馬に乗ることにも慣れた。持ったことなかった剣の重みも、この埃っぽい砂の味も。
ああ、嫌になる。
いつしかこうして、この世界にぐずぐずに溶けて、前世の自分の形が分からなくなっていくのだ。
「もっと速く」
マケインは呻くように呟く。
俺の人生なんて、もがいているうちに……あっという間に終わるのだ。
どうせいつか死ぬのだったら、少しでも何かの為に生きた方がマシってもんだろう。
眉間にシワを刻んで。拍車を加えた。
沼の臭いがした。
とても綺麗とは言い難い悪臭だ。ヘドロと藻のにおいが鼻につく。
「……おかしいね、ここは王都への上水道の源だ。こんなに酷い臭いになるまで、汚れているはずがないんだ。自然の出来事じゃあない。
恐らく、この水の汚染が今回の病の原因だろう」
アニエルがそう囁いた、表情は険しくなっている。
「そもそもここを管理しているはずの人間はどこに行ったんだい。私たちのところに報告が何も来ていないのはおかしい……」
「中に入ってみますか」
馬を木に繋ぎながら、マケインが声をかけた。
苦渋の決断というように、アニエルは低く言った。
「嫌な予感がするが、皆で突入してみるしかないね。連れてきた騎士を先に行かせる。マケインはアタイの後ろ。一番最後に来るんだ」
少年は、無言で頷いた。
押し破るように建造物の入口を開けた。剣を握り、いつでも抜けるように意識を研ぎ澄ませて進む。人間の息遣い。暗闇の中で、誰かが声を張り上げた。
「お前たちは何者だ!?」
騎士たちのそんな声がした。
視界が開けたマケインの目に、翡翠色が映った。
目が覚めるような緑。髪をツインテールに結った少女が振り返った。たおやかに長い髪が舞い、暗く嗤った。
「――誰かって? 決まっているだろう、ボク達は帝国の兵だよ」
いつかに出会った、魔族の女の子。カンナが見たことのない軍服を着てそこに立っていた。
凛々しく起立している。
その佇まいは、彼女が本物の帝国兵士であることの証明だ。
マケインは心臓が鈍く痛むのを感じた。
息が苦しくなる。俺は、こんな形でこの子との再会を望んでいたはずではなかった。
完全に、微笑む彼女は『敵』だった。マケインの前に、……最悪の形で現れた。
少年は唇を食む。
斜め上を睨んだ少女はけたたましく笑った。
狂気に満ちた嘲りだ。
「ハハハハ、あなた方は、身に覚えがないとおっしゃる! 我が帝国の領土を長年に渡って侵犯しようとしてきた己の蛮行を! 分かっていないとは言わせないよ」
「それは王国の領土を最初にそちらが狙って来たのが原因だろうっ」
マケインは、その時ようやくもう一人の魔族が居ることに気が付いた。
フードを深く被った陰気そうな魔族だった。威圧感のある軍服に身を包んだ、見るからに階級の高そうな魔族の男性だ。
「カンナ様、奴らはこのミカゲが相手を致しましょう」
「そうだね、こんな連中は歯牙にもかけたくない」
朗らかに少女は笑う。
魔族の将校は口端をつり上げ、仰々しく不気味に哂った。
「……これはこれは、王国の騎士さま、どうぞおいでくださった。
私はミカゲ。カンナ様の側近にして、女帝陛下の忠実なる臣下。帝国軍の大佐である。この場は、我ら魔族が占領させていただいた」
アニエルは皮肉気に挑発をする。
「ほう、アンタは魔族かい。魔物を祖とする邪悪な連中だ」
ミカゲと名乗った男が、不愉快そうに言った。
「そのような事実はない。我らは人間種よりも神に愛された民なのだ。哀れなヒューマンの老婆よ」
「そんなことをぐだぐだ喋ってるつもりはないね、ここは王国の貯水池だ。とっととここから出ていくことを要求する」
「断る。ちょうどこちらも、育てていたモノが使えるようになったところだ」
ため池の濁った水面が、ゆらりと動いたように見えた。
波の奥から何かの気配がする。
「我々は以前から魔物の育成を研究してきた。蟲毒というものを知っているかね。……今回のこれは実験の成果だ。こ奴には、多くの魔を餌として食らわせた。此処に駐在していた人間も、めでたく餌となったのだ」
とてつもない飛沫があがる。突入した王国側の人間は皆、驚愕に息を呑んだ。
大きな、巨大な黒い影だった。
目の前に現れたのは、禍々しい魚の魔物だった。風をまとい、宙に浮かんでこちらを視ていた。ぎらつく漆黒の鱗をした、とがった歯を持つ巨大なピラニアだ。
「リヴァイアサン。水の王だ」
「退け――、」
一人、一緒に来ていた騎士が風の渦に切り裂かれた。辺りに赤い液体がぶちまけられる。
あっという間の出来事だ。頬に飛沫が飛んできた。アニエルが咄嗟にマケインの腕を掴んで通路の奥へ押し込んだ。
目を見開き、少年は何が起こったか認識ができない。
「アンタはここでジッとしていなッ!!」
自分は師匠に庇われた。それだけが。分かった。
宮廷魔術師の魔法によって土の壁が何層も形成される。その影ができたと思ったと同時に、一番魔物の近くにあった壁が破壊された衝撃が響いた。
師匠が白い光と共に土の槍を作る。それを振りかぶり、リヴァイアサンの攻撃を切り裂いた。
騎士たちは魔物により全滅だ。みんな、濁った目で地面に転がっている。
恐怖にマケインは叫んだ。パニックになって、膝から崩れ落ちそうになった。
逃げた方がいい。それくらい分かっていた。
「俺、馬鹿だろ……っ」
こうなることぐらい予想ができたはずだ。
なんだかんだ、いつもみたいに……どうにかなると呑気に考えていた。そんな自分の浅い考えのせいで、師匠の足手まといとしてここに居る。
無我夢中で叫んだ。
「……カンナ!! やめてくれ!!!」
何かに気が付いたように、少女がハッとして顔を上げた。怯え切ったマケインと視線が交差した。
驚きに、衝撃に。その瞳孔が大きくなった。
「……マケイン? マケイン・モスキーク……?」
ああ、彼女は覚えていたのだ。
はじめて、相手に焦りのような色が浮かんだ。しかしながら、暗い表情は変わらない。俯いたカンナは、嬉しくも少しだけ寂しそうに見えた。
「そっか。君、やっぱり運が悪いよ」
彼女は小さく呟く。
「そんな言葉で済ませるなよ……」
マケインは震えた。これは、怒りの感情だ。
目にもとまらぬ攻防が繰り広げられている。しかしながら、師匠は圧倒的に不利な状況だ。二人の魔族とリヴァイアサンだ。このままではアニエルも騎士たちと同じように死んでしまう。
腹が据わったマケインは、静かに立ち上がった。
鉄の剣を抜く。騎士見習いの粗悪な武器だ。
血だまりになった地面。赤い水たまりを踏んで、物陰から外に出た。
「こっちだってなあ!」
少年はやけくそにガラガラの声で怒鳴る。腹の底から叫んだ。
「俺にだって意地ってもんがあるんだよ! カンナ、ふざけるなよ! 人の命をなんだと思っているんだ!?」
少しでも前に出る。
アニエルならきっと避けられる。俺の拙い魔法を、何度も修行で面倒を見ているからだ。
空気が冷えていく。白い息を吐いた。
「――、一気に凍り付け、フローズンアイス!!!」
マケインは、己の押さえつけていた魔力を爆発的に解放した。
貯水池の水に向かって、氷の大波が押し寄せる。その背後からの気配に、アニエルは素早く反応した。
「……この馬鹿弟子!」
師匠に悪態をつかれる。
圧倒的な少年の魔力が空間に溢れた。
高密度の魔素に息が詰まりそうだ。マケインは、震える手でてんでばらばらになりそうな魔力を必死にコントロールしようとする。
カンナが驚きに笑った。
「あは、すごい!」
それは
嬉しそうに。笑んだ。
方向性だ。とにかく、魔力の向かう先を、固定するのだ。
集中しろ。この状況を打開するために。
剣の先に、氷の冷気がまとわりつく。それを振り上げ、マケインは魔力をモンスターとミカゲに向かって叩きつけた。
魚の動きが、止まった。
辺り一面が、鋭い氷で埋めつくされていた。水面も、地面も、魚も。巨大な氷が山のようになっている。
そうして、踏み込んだマケインは魔族に向かって剣で斬りかかった。
アニエルが魚を幾つもの土の槍で仕留めるのが視界の端に映った。マケインはとにかく、無我夢中で魔族の男に攻撃をする。
案の定、相手は冷静にマケインの剣を受け止めて払った。
「他愛のない子どもの攻撃だ。なんと軽い剣だ」
ミカゲはニタリと愉快そうだ。
陰湿な笑みを浮かべ、細身の剣を持ち直す。
「面白い。この私と戦おうというのか、少年よ」
隙を与えず、マケインはスキルを使った。
「『と殺』」
普通ではありえない方向から、剣を振るった。その動きに、ミカゲは少し驚きながら攻撃をいなそうとする。
「ほう」
一回だけではダメだ。マケインは連続でスキルを発動させる。自分には『と殺』くらいしか剣で使える能力がない。
武器を扱う才能がない。
「くそおおおおおお!」
筋肉が傷み裂ける。激痛が走る。だけど止まるわけにはいかない!
舞うように、踊るように。剣を連撃で何度も振るった。暴走していた魔力が、剣と共に動く。いつしか、魔力そのもので斬るように剣で殴った。
剣術なんてものは存在しない。むしろ見たことのない閃撃に、魔族将校が戸惑いを隠せない。
ミカゲが嫌そうに声を上げた。
「……く、なんだこれは!? まるで子どものかんしゃくだ!」
そう相手が叫んだ瞬間、活路が見えた。
もう一つ。奥の手のスキルを発動させる。
『高圧』スキル。隠し玉のそれを使った。
勢いのまま、マケインはミカゲの身体に斬りこんだ。
剣が触れた相手の腕が爆発を起こした!
「――――っ」
ミカゲは、狂った獣のように叫んだ。
「――――私の身体が!?」
苦しむ魔族の男の肩から先が、衝撃で消し飛んでいた。
マケインの方も、剣は遠くに飛んでいき、だらりと腕の骨が折れている感触がしている。自分のしでかした事の大きさに呆然と立ち尽くした。
カンナが悲痛な声を出す。
「ミカゲ! ミカゲ、そんな!?」
「………カ、…ナさま…………」
息絶え絶えに男が目を閉じる。
甲高いつんざくような悲鳴が少女から上がった。
「マケイン・モスキーク! お前、ボクのミカゲを殺そうとしたな!?」
カンナは髪を逆立てて、ぎらつく瞳でこちらを見た。将校は灰色の顔で気を失っている。少女は必死に治療をしながら怒鳴った。
「誰がお前に魔法を教えてやったとおもっている!」
「……君だって沢山の人を殺したじゃないか!」
マケインも同じように怒鳴り返す。
「今まで暴走させた魔物も! みんなお前たち帝国の仕業だろう! モスキーク領にだって、被害が出ている! カンナ、君のせいで死んだ人間が沢山いるんだ……」
……違う。
これは、俺の言い訳だ。
「俺は悪いことなんてしていない!」
俺は、自分の意思で『高圧』スキルを使った。
人間の身体に使用したらどうなるか、前世の知識から理解していた。あの瞬間に分かっていて目の前の人を殺そうとした。
俺は。
何をした?
倫理感は? どこに?
熱い涙が溢れた。うんざりするくらい血の臭いがする。
唇が震えている。剣を落とした手のひらが赤黒く汚れていた。
「……トレイズ」
「…………ごめん…………っ」
愛おしいひと。俺の女神。
優しい君は、この血だらけの光景を視たら何を想うのだろう。




