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エピローグ

 右近氏とポッツォ氏、お二方への先輩のインタビューはここで終わっている。

 先輩ジャーナリストが、かつて日本サッカーが絶頂を極めたことと、その栄光について、日本国内の方と外国の方と両方からの視点から、あらためて取材をして記事にしたいということで、当時の日本代表を知るお二方に取材されたそうで、私はあらためて、その素のインタビューを拝見した。

 本当なら、当時活躍した日本サッカー代表の監督なり、レギュラーメンバーなりにも先輩は話を聞くべきなのだろうが、インタビュー中でお二方が述べられているように、それは決して叶わぬ話になってしまっていた。

 右近氏は、戦傷の後遺症から選手の道を断念し、1946年から日本代表のコーチとなり、その後、代表監督も務められた。戦争が無かったら、まだまだ選手として活躍されたでしょうに、という言葉に対しては、いやいや当時のレギュラーメンバーが健在でしたら、とても私はレギュラーは務まりません、というのが口癖だったという。また、1954年にハンガリーがワールドカップを制したが、その時にハンガリーの予選リーグ敗退の危機となったハンガリー対日本戦での日本の勝利をもたらしたのが、右近監督の采配で、石川監督の再来とまで称されたが、右近監督は、石川監督にはとても及びませんと話したという。

 ポッツォ氏については語るまでもないだろう。21世紀になってもワールドカップ2連覇を成し遂げた名監督はポッツォ氏しかいない。そのポッツォ氏が、史上最高の名監督は誰ですか、という問いに対して、石川監督にはとても勝てないな、何しろ代表監督としての勝率は10割で、しかも私を大敗させているのだから、と苦笑いして答えたというエピソードがある。

 そのお二方が口をそろえて実力を認め、また20世紀最強の代表チームはどこかという質問が行われた際に、常に1位を争うのが1936年のベルリンオリンピック時の日本代表チームである。代表戦10試合を全勝して、総得点48点、総失点0点という記録を残した。メンバーの中でも相良氏は全試合で得点し、内4試合でハットトリックを決めており、オリンピックの4試合での最多得点記録8点を今でも保持している。また、秋月氏の代表GKとしての連続無失点世界記録(10試合)も未だに破られていない。

 その栄光に包まれた日本代表が一瞬の輝きを残して、第二次世界大戦の戦火に消えたことには、本当に深い悲しみを私も覚える。本当に、日中戦争や第二次世界大戦が無かったら、1938年のフランスワールドカップ、1940年の東京オリンピックで、共に日本代表は大活躍し、共に優勝していたかもしれない。それを思うと何とも言えない想いがこみあげてならない。

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