第16章
ポッツォ氏は、1936年のベルリンオリンピック日本代表の運命を聞いたときのこと等を次のように語った。
「1946年のワールドカップはイタリアで開催されたのですが、ご存じのように大変揉めた結果でした。今度こそ南米でワールドカップを開くべきだ、と南米の各国は主張しましたから。もし、イタリアが第二次世界大戦でどちらかに立って本格的に参戦していたら、南米の各国の主張が通ったでしょう。でも、イタリアは参戦したとはいえ、それこそ米英日の連合軍がライン川を渡った時点で連合国として参戦しましたから、形式的参戦もいいところで、国内に戦災はほとんどありませんでした。だから、本音としては派遣費用をケチりたい等々が大きかったのかもしれませんが、欧州諸国が、欧州をはじめとする世界に平和がもたらされたことの証明として欧州でワールドカップを開きたい。幸いにもイタリアは戦災をほとんど被っておらず、イタリア自身が立候補している、と声を大にして主張しまして、最終的にイタリアでの開催が決まりました。その代り、1950年のワールドカップがブラジルで開催されることが確約されたのはいうまでもありません。
イタリアでのワールドカップ開催が決まったことを、統領は大変喜びました。あのローマでの大敗はいろいろ後を引きました。統領のカリスマは暴落し、その回復に統領は四苦八苦しました。また、そのカリスマ暴落等の影響からか、一部のマスコミによると、統領はドイツのフランス侵攻直後、ドイツ側に立って参戦するつもりだったそうですが、軍部から参戦の準備が整っていないことを指摘され、今しかチャンスはないと押し切ろうとしましたが、ローマで日本代表に大敗した件を持ち出され、専門家の忠告をきちんと聞かないとどうなるか、を思い出し、自重したとか。実際問題として、その時にイタリアがドイツ側に立って参戦していたら、イタリアの国内は荒廃していたでしょう。それを思えば、あの敗戦はイタリアに幸いをもたらしたのかもしれません。1946年のイタリアでのワールドカップ開催とその成功は、統領のカリスマ回復に多大な貢献をしました。
私は、1946年の時点ではイタリア代表監督から完全に降りていて、イタリアサッカー連盟の理事という半名誉職に就いていました。そして、ワールドカップ参加を表明した各国代表のメンバーを見ていて、日本代表のメンバーにかつてのベルリンオリンピック代表のレギュラーメンバーが1人もおらず、監督も鈴木さんがなられているのに気づきました。それで、レギュラーメンバーや石川監督はどうされたのか、私から日本サッカー協会に問い合わせたのか、それともFIFAから連絡があったのか今となっては定かではありませんが、その時になって、日本代表の主力メンバーが全員戦死されていたのが初めて分かりました。何とも言えない悲しみに襲われたのを今でも思い出します。
これは他の多くの欧州サッカー関係者も同様でした。日本サッカー協会に対し、改めて弔意を示す数々の行動が行われました。1938年と1946年のワールドカップに出場したあるイタリア代表選手は、日本代表の石川監督や当時のレギュラーメンバーが全員戦死されていたのを聞いて、私に対して、次のように涙を浮かべながら言いました。
「ずるいですよ。何で日本代表の方々は全員亡くなられていたのですか。1936年の屈辱を何としても晴らしたい、という我々の想いは永遠に果たされなくなりました。本当にずるいですよ。」
似たような想いを多くのサッカー関係者が抱いたでしょう。本当に、日中戦争が無かったら、第二次世界大戦が無かったら、という想いを皆が抱きました。ワールドカップは平和の中でこそ行われるという想いを皆が抱いたと思います。日本代表の監督や選手の方々は軍人である以上、戦場に赴かれたのはやむを得ないことだったでしょう。でも、全員戦死の運命をたどられていたとは。何ともやるせない思いがしてなりません。もし、日中戦争や第二次世界大戦が無かったら、私は日本は少なくとも5年以上、世界のサッカー界の頂点に君臨したと想います。当時を知る多くのサッカー関係者も同意すると思います。
本当にここまでの栄光に包まれ、また悲劇に襲われたサッカーの代表チームはないと思います。」




