中編 幕間・シノの恩恵
「ただいま〜……」
店に帰ってきたシノは、へろへろと来客用の椅子に腰を下ろした。まだ外の札はクローズの表示のままである。
「どうだった、シノリア。オルンギット・ポーション工房に行ってきたのだろう」
「うん、うん……」
白蛇のクロノが早速這い出てきて近くの置き時計の上に顔を出すが、シノは今日の経験が整理しきれておらず返事が曖昧だ。体もでろんと椅子に崩れてしまっている。
「お昼たべる」
「もう四時だぞ」
「うん……」
半分寝ているような声だ。
食事を取ると言った割に椅子から動く様子もない。困ったやつだと蛇が呟いた。いつもの場所にあるシノのおやつ入れが浮き上がり、ふよふよと飛んできてシノの眼前で停止した。
「あー、ありがとう」
細い蔓植物を編んだ籠を受け取って、しばらく眺め、彼女はやっと立ち上がる。
カウンター奥へ入って籠をしまい、居住スペースまで進んでキッチンでパンを一切れスライスした。立ったままもぐもぐとそれを食む。濾過装置のついた水瓶からコップに水を汲んで飲み干した。
ふう、と息を吐いて人心地。
作業台に戻って腰掛けた。
クロノは天井近くの鳩時計に絡まってこちらを見下ろしている。
「やっぱり、現場見せてもらうって大事だね……」
「ふむ?」
「製薬工房で砂時計しか用意してないって聞いたから、タイマー型の計時器を導入したら楽になるんじゃないかなと思って、紹介しようと思ったわけですよ。すわ営業チャンスと」
「うむ」
「厨房用品としては評判いいでしょ、うちのキッチンタイマー」
「そうだな」
前世というほどパーソナルな記憶はないのだが、別世界の知識には、便利な時計が様々に存在する。好きな分数を設定してボタンを押し、時間になったらアラームで知らせてくれるキッチンタイマーはそのひとつだ。
身の回りにあまりそういう道具がないことに気付いてシノが十三歳の頃に開発した。
単純なプロダクトの割にゼロから作ると想像以上に大変で、鳴らす音ひとつにも相当苦労させられたし、パン屋に納品したら窯の熱でやられて二日でクレームが来たのも思い出深い。
「あれ、そのまま持ってっても駄目ですね」
「どういうことだ?」
「計る時間が毎回違うんです。固定のカウントダウン型じゃなくて、ストップウォッチと同じカウントアップが良さそう。いや、むしろできるだけ標準的なストップウォッチがいい。小さめの置き型、それか懐中時計型、要熱耐性。溶剤や揮発性のガスが多いから何かコーティングが要る。文字表示だと予算的に見合わないから円盤型で、秒針、分針……時針、も、たぶん出番がある」
ぶつぶつ呟く言葉はすでに会話ではなくなっている。深く、雑多に、より複雑に、シノの思考は潜っていく。
彼女の胸元、ブラウスの下から燐光が漏れる。
魔力の高まりにより彼女の『杖』であるペンダントが呼応しているのだ。それを高いところで見下ろす蛇はやや首を引くような仕草をした。
シノの片手が無意識に持ち上がる。
「『白紙もたらせ』」
願えばすぐにでも。
その指が空中に四角を描けば、まるで初めからそこにあったように白い紙が生じて具現化した。素早く掴み取って手荒に机まで引きずり下ろす。
「『筆をもたらせ』」
応えて現れる簡素なシャープペンシル。
カチカチッと芯を繰り出して、シノは次々とスケッチやメモを描き入れ始めた。
「何度見てもけったいな恩恵なことだ」
苦笑を含んだクロノの声はシノにも聞こえているだろうが頓着する様子はない。作業に没頭するシノが外界の刺激に鈍くなるのはいつものことだ。
欲しいものを手に入れる恩恵。
アンネームドと呼ばれる、類型化できない、名前のない不可思議の技。シノだけの魔法。
それから小一時間、シノはアイデアを書き出し続けた。柱時計がリンゴンと五時五分前の鐘を鳴らすに至って、ようやく彼女の意識のチューナーが現実に戻された。ぷは、と水面に顔を出して息継ぎするような感じで呼吸をする。
書き散らされた二十枚を超える紙面をぱらぱら整えながら眺めて、棚からノートを取ると何も書かれていないページを開き、一番最後に描き上げた紙を載せる。
「『沈着せよ』」
ふっと紙が消えた。
ノートには書かれていた内容がそのまま写し取られている。シノは満足げに笑った。
「『これで終わり。おやすみなさい』」
残りのメモ紙とシャープペンシルが消失する。
魔法の時間が終わった。
ちょうどその時、五時が来た。
シノが外を気にする顔をするのでクロノが魔力を使って扉をわずかに開けてやる。大広場と教会の鐘がそれぞれに夕刻の始まりを歌っていた。大広場は自動からくりの鐘、教会は人が鳴らす鐘。眩しいものを見るような面持ちでシノはその音楽にじっと耳を傾けている。
その様子を眺める白い蛇は、あじたまに至高の味わいをもたらすという「めんつゆ」なる調味料が、いつか同じ恩恵で取り出せるようにならないものかと不埒な考えを抱いていた。シノには多少誤解されている向きがあるが、燻煙された卵の殻の砕ける食感と芳しい香気を愛する蛇は、たまには殻のないゆで卵を食べることもやぶさかでないのである。




