第97話「ゴースト・"メッセージ"・シャドウ」
亜人街の住民は、昼間はあまり活発的に動かない。夜行性の亜人が多いというわけではなく、単純に夜が稼ぎ時であるため、朝方まで店を営業している者が多いせいだ。
そのため昼間の亜人街は酷く閑散としている。路上には食うものに困った子供の亜人が歩いていたり、身元が不明の流れ者が蹲って寝ている。
青い毛並みをした狐の少年は、自分が住んでいる家の通りにある、薄暗い路地に降り立った。
「お前ら出てきていいぞ」
呼びかけると、隠れていた子供の亜人たちが姿を見せた。全員がガネグ族であり、体毛や尻尾が酷く痛んでいた。犬耳は垂れ下がり、元気がなさそうだ。
「ごめんな、3日もかかって。メシ持ってきたから。ほれ、みんなで山分けして食いな」
少年は自分で稼いだ金で買った、食料の入った袋を広げながら言った。
子供たちは礼を言う前に袋に飛びつき、食料を無造作に取り始める。
「おい、そんな慌てんなって。いっぱいあるからさ」
少年の言葉など聞こえていないのか、子供たちは夢中で食べ物を口に運ぶ。
少年はため息をついて周囲を見渡す。
環境としては最悪だった。生ゴミや吐瀉物が散乱しており、嗅覚の鋭い少年は鼻がひん曲がる思いだった。
子供たちは何日も風呂に入っていないのだろう。ひとりの子は巨大なダニが蔓延っており、体を掻きながら食事をしていた。
何とかしてあげたいと思いながら、少年は悲し気に子供たちを見つめる。多少の食料を持ってくるだけで精一杯の自分に何ができるのだろうか。
自問自答を繰り返していると、通りから野太い悲鳴が聞こえた。
子供たちの手が止まり、怯えた目で少年を見た。
「お前ら隠れてな。俺が見てくるから、な?」
そう言って少年は身を翻し、通りに出て周囲を見渡す。悲鳴の出所はすぐにわかった。
血塗れのシャーレロス族のオスが倒れているのが見えた。恐らく彼が悲鳴を発したのだろう。
そんな彼を見下ろしている、黒い人型の、影のような何か。手にはナイフを持っている。
亜人狩りか。少年の脳裏に忌々しい言葉がよぎる。
どうするべきか悩んでいると、影の首から上が動き、少年を捉えた。
驚く暇もなく、影は少年に向かって駆け出す。逃げるタイミングを完全に失った少年は腰からククリナイフを取り出す。
「なんだぁ、テメェ!! かかってこいよ!!」
怯えを隠すように叫ぶ。影との距離が徐々に縮まり、間合いに入りかける。
その時、金色に揺れる尾が視界の隅に映った。
次いで鈍い音が響き渡り、黒い影が地面に突っ伏すのが見えた。
「ジルガー!?」
鉄パイプを持ったジルガーが黒い影を殴ったらしい。
「なんや、あんた。亜人に、しかもうちの同居人にまで手ぇ出すとは、ええ度胸してはるな。ガーディアンやろうと容赦しいひんで」
ジルガーは倒れている黒い影に鉄パイプを向けて挑発した。
するとまるで返事をするように、黒い影が液体状になって地面に広がる。不可解な光景に少年とジルガーは目を見開いた。
「なんや? これじゃまるで、モンスターちゃうか」
呟いたあと、ジルガーは少年に体を向けた。
「無事?」
「なんとか。ありがとう、ジルガー。助かったよ」
「ええって。怪我無おしてよかった」
「今の、何だったんだ?」
「わからへん。とりあえず、ここから離れて家に」
帰ろう。そう言おうとして、ふたりは鼻をピクリと動かした。
馴染み深い、鉄臭い香り。
視線を上に向けると、さきほどと似たような黒い人影が、建物の上から少年とジルガーを見下ろしていた。
「や、ばいんじゃねぇの、これ」
「離れんといて!!」
ジルガーが声を荒げたのと同時に、黒い影が一斉にふたりに迫った。
★★★
「どうした。魔法でも使え。使ったら一瞬で喉をかっ切ってやる」
殺し屋の技術を教えてくれた師匠。お堅い性格をしているのはよくわかっていた。こんな時に冗談を言うような人物でないことも。
馬乗りになったトムの、殺意が籠る目から逃れることができないラズィは、抵抗を止めて息を吐いた。
「私の首を掴むことに、何の意味が?」
「お前はもう用済みだと言っている」
「私は別に、ゾディアックの味方をしているわけではないです。もう一度」
「チャンスがあると? お前じゃ無理だ。何もできずに囚われていたのだろう。武器もアンバーシェルも持っていないのがその証拠だ」
トムは犬歯を見せた。
「わかるか、ラズィ。俺はこの日を待っていたんだ。ゾディアックに復讐することができる、このチャンスの時を。あいつを殺したいがために、お前を育て、数多の魂を集め、情報を集め、このサフィリアを決戦の舞台にしたのだ」
トムの目が潤み、口元が戦慄き始めた。興奮と怒り、そして辛さが感じられる表情から、ラズィは目を離せない。
「わかるか、ラズィ。お前に出会う前から、ずっと、あいつを探していた。”何十年も”だ。あれだけ長い時間を付き合った、俺の初めての、友とも言える男は、俺を、皆を、あっさりと裏切った。あいつは……」
「気持ち悪い。思春期の男子みたいな、安い友情ごっこしている時の話なんかどうでもいいのよ。私も協力してゾディアックを倒すわ。だから姉を解放してよ」
強気な態度を崩さないラズィを見て、トムは笑う。
「阿呆だな」
「え?」
「さっき言っただろう、お前は用済みだと」
トムの鋭い爪が、ラズィの白い首に食い込む。ラズィはとっさにトムの巨大な指を掴んだ。
いくらディアブロ族といえど、獣人の鋭い爪を防げるような肌をしてはいない。柔肌が赤く染まり、食い込んだ部分から血が滲み出す。
ビクともしない。まるで根の張った樹木のようであった。
「意思があるお前と一緒ならば、いや、お前ならばゾディアックを追い詰められると思っていたが、当てが外れたよ。こんなことなら、初めから俺の配下にしておくべきだった」
「っ……なにをっ……」
「安心しろ。お前の姉もすぐに後を追う」
トムの冷ややかな視線がラズィを射抜く。
「俺の手で、また姉妹揃って一緒にいられるぞ。幸せじゃないか」
「なにが、幸せだっ……! わたし、は……また、姉さんが、笑って……」
トムは口角を上げた。
「物言わぬ人形として共に過ごせ。今と、そう差はないだろうが」
小馬鹿にするような表情と声。
それに対し、ラズィは吠えた。
魔力を下半身に集め、腰を跳ね上げる。上に乗るトムが若干浮いた。
トムが再び力を入れる前に、ラズィは舌を出すように唾を吐く。また同じ技かと思っていたトムだが、唾に紛れて数本の毒針が仕込まれていることに気づく。
開いた手を使い、それらを指の隙間で受け止める。
それらはフェイントだった。
腰を浮かしたトムとの間には明らかな隙間ができている。
視線が毒針に行っている隙に、ラズィは足を抜いてトムの腹を思いっきり蹴り上げる。
トムとの間が若干開いた。
ラズィは素早く立ち上がると、足を取るように低空でタックルした。足を掴んだが踏ん張られる。
力勝負では当然倒すことなどできない。それでよかった。目的は倒すことではない。
ラズィの手がトムの腰に伸び、ナイフを抜き取る。
素早く離れて切先を向けると、ナイフを両手で握りしめ、トムにぶつかった。
武器を持っていない相手が、突然ナイフを持って刺しに来る。同様と混乱の最中で攻撃を仕掛ける、確実に刺さる不意の一撃だった。
しかしラズィの切先は、巨躯の数センチ手前で止まっていた。
「惜しかったな」
ラズィは舌打ちして離れようとするが遅かった。
ナイフを持った右腕がトムに捕まれ、万力のような力で締め上げられた。
肉体強化も防具も身に纏っていない、しなやかな筋肉のみに覆われた細い腕は、マッチ棒のように容易く圧し折られた。
「っああぁああああああ!!」
ラズィの絶叫が木霊する。折られた腕から力が抜けナイフが落ちる。
次いで腹に衝撃が走り、ラズィは蹲った。
口から胃液と唾が流れ落ちる。道が黄色く染まるのを見ながら、激しい呼吸を繰り返した。
「これで俺が倒せると思ったか、ラズィ」
潤んだ瞳をトムに向ける。トムは地面に落ちたナイフを拾い上げ。
躊躇いもなく、ナイフを自分の首に刺した。
ラズィが目を見開いた。ナイフを刺したトムは、余裕綽々といった表情でラズィを見下ろす。
「俺はな、死ねない体なんだよ」
ナイフを抜いた。血は一滴も出ていない。
「どういう……」
「霊体という奴だ。わかるか? お前の学んできた暗殺術や、魔法などでは、俺を倒すのは不可能なのだよ」
ラズィは目を開いたままだった。
それはトムが霊体で、倒すことができない化け物という理由からではなく。
ある疑問が、脳裏をよぎっていたからだ。
「さぁ、もういいだろう」
トムは手に持ったナイフを逆手に持つ。
「さらばだラズィ。すぐに会えるがな」
ナイフを振り下ろそうと腕を上げた。
「待て!!!」
ゾディアックの声が聞こえた。
トムはハッとして顔を上げ、声の方向に顔を向けた。
黒い装備に身を包んだ騎士と、赤い髪を靡かせる獣人の女性がこちらに向かってきていた。
トムは鼻で笑うと、ラズィを見下ろした。
「決着をつけよう」
そう言うと、背を向けて走り始めた。
入れ替わるようにゾディアックとレミィがやってくる。
「ラズィ、大丈夫か?」
「動かないで、腕が。手当てするから」
ラズィは呆けたような表情で、ゾディアックを見つめた。
ゾディアックはトムが走り去っていった方向を見つめる。
道の先には、亜人街の入口が見えていた。
★★★
ポケットのアンバーシェルが振動した。
病院の一階、ほぼすべての黒い影を屠っていたビオレとベルクートは、取り出して画面を見る。
ゾディアックからの連絡だった。書かれていたのは、一文のみ。
『北地区へ向かってくれ』
「……え?」
「あ?」
謎の連絡に対し、ふたりは疑問の声を上げるしかなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回もよろしくお願いいたします。




