第89話「ラズィ・"VS"・ロゼ」
失敗した。
失敗した、失敗した、失敗した。
呪詛のように、頭の中にその言葉が蔓延っている。
ラズィは痛みを堪えながら夜の街を駆けていた。道中人に合わないよう、路地裏を利用し、建物の屋上を使って移動し続ける。
標的に対し、顔どころか素性すらバレるとは、殺し屋失格だ。
ラズィは姉のことを思い出し、次いでトムの発言を思い出す。失敗したことがバレたら姉は殺されるかもしれない。
だが、今から亜人街に戻って再びゾディアックを狙うことなど無意味である。
ラズィは気持ちを切り替える。騒いでも仕方ない。バレたのならば、それなりの動きをすればいい。
仲間思いでお人好しなゾディアックの性格から、このことをべらべらと周囲に喋ったりはしないだろう。喋るとしたら信頼しているビオレとベルクート、そして、あの家の少女だ。
都合のいい考えかもしれないが、ゾディアックはひとりで抱える可能性も捨てきれない。そうなったら、再び襲って記憶と心を殺せばいい。
まだ時間はある。
ラズィは急いで隠れ家に戻った。
★★★
隠れ家に戻り、荒い呼吸を繰り返しながら、ラズィは壁に背を預けズルズルと下がる。
もはや焦ってはいない。今呼吸が荒いのは痛みのせいだった。
右足の防具を取り、靴を脱ぐ。
見事に腫れ上がっていた。それだけならまだマシだった。
目を背けたくなるような傷ができていた。
砕かれた右足の甲は見事に陥没しており、白い骨が肉と皮膚を突き破って露出していた。
傷跡を見た瞬間、一気に痛みが押し寄せてきた。ラズィは奥歯を噛み締め両手をかざして回復魔法を使う。
なんとか折れた骨を戻し、とりあえず動ける状態に持っていかなければならない。大量の魔力を消費するだろうが、何日も動けなくなるわけにはいかなかった。
淡い緑色の光を数分間浴びせ続け、ようやく痛みが取れてきた。
立ち上がり、何度か床を踏む。若干針を刺すような痛みが走る。強い衝撃が加えられたら再び傷口が開くだろう。
ラズィはふぅと息を吐き、ゾディアックの家を見下ろす。
明るい。窓掛けをしているにも関わらず、煌々とした光が家から漏れている。誰かがいるのは明らかだ。
ラズィは眉間に皺を寄せる。取りたくはなかった手段を取ろうとしている自分に嫌悪した。
あの女性を捕え、人質にする。
あくまで可能性の話だが、あの女性はゾディアックの思い人である可能性が高い。
大切な人を守るために、誰かの大切な人に手をかける。
ラズィは、自分がもっとも嫌う人物に、自分自身がなってしまっている事実に鳥肌が立った。
「クズじゃないか、私」
両手を見る。やるしかないじゃないか。自分を奮い立たせる。
「お姉ちゃん」
お姉ちゃんの笑顔が見たい。どんな形であれば、彼女は生きるべき人だ。
そのためなら、自分なんてどうなっても構わない。
たったひとりの家族のために、ラズィは心を鬼にした。
「何をしているんですか?」
声が後ろから聞こえた。
ラズィは振り返った。
夕陽を彷彿とさせる見事なオレンジヘア。見たこともない赤黒いドレスを身に纏った少女がそこにはいた。
女性であるラズィでさえ、可愛らしいと思ってしまうほどだった。
その彼女が、ゾディアックの家に住んでいる少女だということも、一瞬で理解した。
「どうしました? もう始まってますよ」
瞬間、ラズィは右頬に衝撃を覚えた。
突然の衝撃に、ラズィの顔が横を向き、体勢が崩れる。
「がっ」
薄目で状況を確認しようとする。
腹部に衝撃。
内臓が揺れ動き、痛みが走り、ラズィは息を吐き出した。
甘い香りが鼻孔をくすぐる。ラズィはなんとか顔を上げる。
少女がすでに距離を詰め、拳で攻撃していたのだ。
見えなかった。何も。
ラズィは距離を取り、ダガーを手に取る。
だが、少女の方が何倍も速かった。
一瞬消えたと思うと、少女はラズィの後頭部を掴み、床に顔面を叩きつけた。その見た目からは想像もつかない力だった。
くぐもった悲鳴を上げるラズィに対し、少女は首を傾げる。
「どうしましたか? まさか、この程度の実力で私とゾディアック様を狙っていたのですか?」
ラズィは歯を噛み締め、少女の腕を振り払う。拘束を脱出すると一気に間合いをとり、壁に手をついて呼吸を整える。
「あははっ」
ロゼはクルリと身を翻し微笑むと、魔力を解放する。
「楽しませてください。数年ぶりの戦なんですから」
ラズィも魔力を解放する。
なりふり構っていられなかった。今ここで、少女を仕留める勢いで攻撃しなければ、逆に殺される。それだけ強いことを実感していた。
ラズィは手をかざす。すると、少女の足元に薄い青色の魔法陣が浮かび上がった。緊急時に仕込んでおいた特性の魔法を放とうとした。
夜を照らすような星の色をしたそれを見ても、少女は笑みを崩さない。
手を振り下ろす。
瞬間、少女の頭上に巨大な氷柱が出現した。それはもはや氷柱というのは太く厚く、それでいて巨大だった。
『グラシエアル・ヅァンツェ』
別名「氷山落とし」と言われる氷雪系の超級攻撃魔法。ラズィが持つ魔法の中で最も強い魔法だ。
氷柱が出現すると同時に天井が崩壊し、夜空と月が姿を見せた。一気に開放的な空間になり、夜風が少女の服と髪を揺らした。
圧し潰してそのまま凍らせる。
ラズィは歯を剥き出しにし、すべての魔力を使って氷柱を落とした。
少女は迫り来る氷柱を見ようともせず、靴の爪先で魔法陣を叩く。
「ガッカリですね」
冷ややかな声だった。
刹那、ロゼの地面に出現していた魔法陣が、紫色の光に包まれた。
陣が一瞬で”上書きされた”ことを理解したラズィは身が震える思いだった。
ありえない。
魔法陣にはそれぞれ術式というものが存在する。そのため、出現する魔法は一緒でも個人差というものがある。人によって術式は違い、完成度が高い術式はそれだけ解析に時間がかかる。
ラズィの魔法陣は、他の魔術師が束になって解析し、3日を要した。
だというのに、今見たばかりの術式を一瞬で理解し、あまつさえ自分の魔法陣で上書きするなど、常人では絶対にできない。
まさか、こいつ。
ラズィの考えが纏まる前に、少女が作った魔法陣から、紅色と赤紫色が入り混じった太い鎖が出現した。
1本や2本ではなく、大量に出現したそれは生き物のように活発に動き、頭上の氷柱を砕いた。
魔法の名は『モルゲンシュテルン』。拘束を目的とした”下級”の闇魔法だ。
恐ろしいほどの威力と完成度の高い魔法、そして、塵芥と化した自分の魔法を見て、ラズィは自身の負けを悟った。
同時に鎖がラズィの体中に纏わりついた。魔力が尽きていたラズィにはどうすることもできない。
鎖が食い込み、ラズィの体が悲鳴を上げる。最初に限界を迎えたのは、右肩だった。
脱臼し、体中がミシミシと音を立てる。
ラズィは絶叫した。
そんな彼女の前に立った少女は、手を伸ばし、首を掴む。
「さて、これからどうします? もう終わりですか?」
笑顔で少女はそう言った。
「は……はぁ……あなた、何者? ゾディアックの、愛人か、何か?」
ラズィは強がりの笑みを浮かべる。
「あの人、やっぱり、ロリコンなのね……ちっちゃい女の子にしか、相手されない、のかしら」
さらに笑い声を上げる。
「あんな、駄目で、ゴミみたいな、性格してるしね……。あなた、男見る目が無いわ」
ラズィの挑発に対し、少女は笑みを消さず、クスッと笑う。
「いい度胸だな、”お前”。楽に死ねると思うなよ」
明確な怒りと殺意を露にし、手に力を込めた。
一気に呼吸ができなくなり、ラズィの目の前は真っ暗になった
気を失う瞬間、ラズィは姉に対して、謝罪の言葉を思い浮かべた。
★★★
魔法を解除する。体に纏わりついていた鎖が音を立てて砕け散り、その姿を消した。まるで赤く染め上げられた雪のように、欠片は空中をさまよい、姿を消していく。
倒れた女を見下ろしながら、ロゼは顎に手を当てる。
「……久しぶりに、ちょっと血を吸っちゃいましょうかねぇ」
楽しみだと言わんばかりの笑みを浮かべて、ロゼは相手のペストマスクを外した。
そしてその顔を見た瞬間。
「えぇ!!!?」
ロゼは驚きの声を上げた。
相手の顔に見覚えがあったわけではない。ある特徴を見つけたため、叫ぶような声を上げた。
女の耳は、尖っていた。
そして片耳だけ、”ふたつ”、尖った耳がついていた。
それは、ある種族の特徴だった。
ロゼは知っている。いや、ロゼだからこそ、非常に馴染み深いもの。
片耳だけふたつの耳があるのは。
”エルフ”の特徴。
女は、ディアブロ族の中でも、エルフと呼ばれる種族に分類される者だった。
同じディアブロ族、ヴァンパイアであるロゼは、さきほどの殺意も消え失せて、静かに女を見下ろし続けた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回もよろしくお願いいたします。




