オマケ【墓前にて】
本編と番外編後のオマケエピソードになります。
お読みの際はお気をつけください。
マリーの身体は、この世界のどこかを歩き回っている。
肉声は、まだこの世に存在し続けている――。
この期に及んで、そんなことに縋りたくなる。
もし、マリーの魂が、魔女に乗っ取られたあの身体の中に、わずかでも残っていたらと。
(……いつか君と同じようにディーネが魔女に呪い殺された時――その時に君は、戻ってくるのかな?)
マリーが蘇ることを望むわけではない。
あの硬質な魂が他人のものにすり替わっている現況をマリーの生とは思わない。
ディーネには呪いを打ち破って生きてほしいと、幸せになってほしいと、心から願っていたのも偽りのない気持ちだった。
けれどそれは、ディーネから届いた懐妊の報をマリーの墓前で読んで泣き明かした夜明けに、どっぷりと浸かった絶望の沼の奥からぷくりと湧いた願いだった。
せめて、どこまでも哀れなマリーをこの空の棺に横たえて心安らかに眠らせてあげたい、と。
毎朝、目覚めて一番最初にマリーの墓に花を手向ける――そんな生活が十数年も続いても、胸を焦がす苦しみは決して衰えることはない。
(その時……私はきちんと君との別れを受け入れることができるのかな?)
もしかしたら私は、そんな果てしない憎しみと怒りと怨嗟に飽き、疲れ果てていたのかもしれない。
. * * * .
「マリー……君に会えるのは、当分先になりそうだ……」
そこにいてくれるだろうかとぼんやり墓前に手向けた花束を見つめ、声をかける。
長く馬車に揺られた疲れに固まってしまった肩の関節をもみほぐし、もう若くはないことを感じながら。
「あんなことを、刹那でも考えてしまった報いかもしれないね」
あたたかい風がふわりと慰めるように頬をなでて通りすぎていって、胸の奥が熱くなる。
「……ごめん、マリー」
こぼれ落ちる嗚咽を堪えようと背中を丸め、墓標に縋る。
「私は……っ、結局…君も……ディーネも……助け…られなかったね……」
情けない。
なにもできなかった。
マリーを助けることも。
マリーの望みを叶えてあげることも。
ディーネを守ってあげることも。
必ず幸せにするというあの約束すら守れなかった。
ディーネはずっとマリーと同じように呪いに殉じようとしていたのだから。
「あん…な……っ」
後悔は津波のようになにもかも浚っていき、ただ咽び泣くことしかできなかった。
「気が利かないし、愛想は悪いし、どこがいいのかわからないような男にできたことが――……」
大人げない八つ当たりだという自覚はあった。
それでも、誰かに当たらずにはいられなかった。
それ以外にこの持て余す感情の渦を宥める方法がわからなかった。
「――…………マリー……」
可愛い愛娘を奪っていった男に散々悪態をついてから、墓標のひんやりとした感触に心を預ける。
その優しくいたわるような温度がくっつけた額から伝わって、慰めに頬を寄せる。
――ディーネの体調が落ち着いたら、一度ゆっくりと帰郷させてやりたいのですが。
まごまごしながらそう尋ねた彼を思い出すと、ふっと笑いがこみ上げた。
あの時、後ろのほうで心配そうに振り返ったディーネが笑みを押し殺して――それをみた瞬間に、ふっと心が軽くなったような気がした。
「あの男より、私のほうが絶対いい男だと思うんだけどさ」
でも、と言い掛けてその言葉を飲み込む。
ひんやりとした墓標に心を寄せて、蟻のような小さな声で、代わりにふと思いついたことを囁く。
「もしかして……あの魔女に会ったことのある男とディーネが出会ったのは、君の導きなのかな?」
墓石はひんやりと冷たく、あたりまえだけれどなにも答えは返ってこない。
けれど、そう思うことにして、胸を押さえる。
今はまだ、この心の軽さに慣れなくて。
風が吹いたように心細くて、寂しくて。
「………マリー………」
伝えたい言葉が多すぎて、喉につかえてしまう。
ありがとうも、ごめんも、そして愛しているも、どれだけ口にしても足りないのに。そのもどかしさに胸を押さえ、ひんやりとした墓石に額をつけた。
ふ、と。
頬を撫でた風に導かれるように顔を上げると、そこには白い小花が絨毯のように敷き詰められた丘が広がっていた。
そして、その丘の上に――柔らかくほほえむマリーの姿があった。
「――ありがとう、ロラン」
風に乗って聞こえる、かすかな声。
思わず駆け寄ったが、抱きしめようとして霧のように宙をかいたらという恐怖に次第に速度は緩やかになり2歩手前で立ち止まってしまった。
「……マリー……?」
「あなたは充分、頑張ったわ」
マリーはゆっくりと両手を広げて一歩踏み寄った。
「あなたがディーネを大事に大事に育ててくれたから、グラ家は魔女の呪いから解放されたのよ」
これは私に都合のいい幻ではないだろうかという疑問に足が竦んでいると、マリーはふふっと笑った。そして広げた両手をめいっぱいに伸ばして、私に足を踏み出すように催促する。
「マリー……ッ!」
たまらずに奪い取るように強く抱き寄せると、マリーはかよわい力で、しかししっかりと私を抱き返した。
「……私はとても幸せだったのよ。あなたが思っている以上に、ずっとずぅっとね」
恐怖と期待に惑いながら、腕の中にマリーが確かに存在していることを確認するように強く抱きしめる。
両頬を包み込まれ、鼻先にちょんとマリーの唇が触れた。
「ディーネだって、とても幸せだった。幸せで、あなたもまわりの人もみんな大好きで、みんなを守ろうとしただけだもの。ね?」
私はその優しい言葉に喉の奥がズキズキと痛んで、胸が苦しくて、マリーの首筋に顔を埋めて泣くことしかできなかった。
「そしてあの子はこれからもっと幸せになれる。大好きな人と一緒なら、それだけで幸せなんだもの」
背中を撫でられる。言いたい言葉はたくさんあるのに、嗚咽に遮られてしまう。なんとか頷くとマリーは笑って、腕の中でくるりと背を向けた。
「……あのね、ロラン。私の腕があの子を抱きしめたのよ。ちょうどこんなふうに」
遠くを見つめる気配につられて視線を移すと、花の絨毯は白く雲のように煙り、雲の向こうに虹を溶かしたような湖がおぼろげに見えた。
「私、ちょっとだけ、嬉しかったの。あの子にはとっても辛い思いをさせてしまったけれど。それに……今は子守歌を歌い聴かせているのよ? 私の魂はここにいるけれど、それでも私の腕が、声が、人を慈しんで育てようとしてるの」
マリーの姿をした魔女――正体は妖精だったか――の姿がおぼろげに浮かんで消える。
笑っているディーネが浮かんで消える。
「……私は、ここから見ているから」
マリーは再び身を捩って私の頬をひんやりとした両手で包んで額を合わせた。
「ちゃんと私を埋葬してからこっちにこないと許さないわよ」
「………マ、」
言い掛けた私の唇にマリーは、自分の唇を重ねて封じる。
「ずっと、待っているわ」
満足そうに笑ったマリーの顔が、白い雲の向こうに消えていく。確かに抱きしめていたはずの体は、急激に感触を失って雲のようにかき消える。
「……マ…」
「…………マリー―――ッ!!!」
自分の叫び声に、唐突に泡が弾けるようにぱちりと目が覚めた。
軽く頭をふって意識を揺り起こすと、墓石に寄りかかって眠っていたようだ。
「………夢………?」
ひんやりしていたはずの墓石がほんのりと人肌を帯びていた。それは冷たかったマリーの手を思い起こさせて、また胸に痛みが走る。
「君はいつだって自分の言いたいことだけ一方的に言って行ってしまうね……」
あたたかい風がふわりと軽くなってしまった心を埋めるように包み込み、なにかを囁いた気がした。
押さえた胸が今度は熱くて、溶けるように零れ落ちた涙が墓石を濡らした。
その下にあるのはいまだに空のままの棺。
「………なのに、どうしてこんなにも君が愛おしいのかな……」
この空の棺が埋まるまで、毎日ここに花を手向けよう。
マリーが安らかでいられるようにあの子達のことを報告しながら、安らかな眠りを祈るためではなくこの気持ちを伝えるために。
――大好きな人が一緒なら、それだけで幸せなんだもの。
うん。そうだね。
――ちゃんと私を埋葬してからこっちにこないと許さないわよ。
……努力するよ。
今は一緒にいられないけれど、いつか天国にいる君と悠久に幸福な日々を送れるように。
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