抵抗6
産声が上がったのと、産婆達の悲鳴が上がったのは、一呼吸分ほどしか違わなかった。
駆け込んだ時、横たわるマリーに覆い被さるようにして唇を合わせる女がいた。他の誰もが昏倒していた。
そして唯一動いているその女は――肖像画で見覚えのある――グラ公爵夫人アンネだった。
状況が理解できずに立ち尽くしているうちに公爵夫人は急に人形になったように崩折れ、代わりにマリーがゆっくりと身を起こして乱れた髪に手櫛を通す。
「………マリー?」
掠れた呼びかけに振り向いた彼女はくすくすっと妖艶に笑い、戦慄が走った。
マリーは、あんなふうに笑わない。
あれはマリーではない。
では、あれは――
拳を握ると、妖艶な笑みがさらに妖しさを深める。
「ごめんなさいね。残念だけど私、生きた人間には魂を移せないの」
その凛とした声はマリーのそれだが、そのとろりと甘く蕩けるような口調はマリーではなかった。
「……魔女、か……!」
憎々しく呻いて剣に手を掛ける。
と、魔女はマリーの顔にうっすらと嘲笑を浮かべた。
「あなたは愛しい妻を2度も殺すのね?」
マリーの口真似をして、辛辣に。
ひゅっと鋭く息を呑んだきり、全身を空気に縫い止められたようだった。
魔女は満足げに笑みを浮かべて、しゃなりとたおやかに歩み寄ってくると、傷痕が残る私の肩に、艶めかしく指を滑らせた。
「ふふふふふ。愛する人を守るための名誉の負傷、カッコよかったわよ?」
ぞくぞくと全身を走る悪寒に耐えている私を、紫水晶の瞳が上目遣いに見上げてくる。
「なかなかいい演出だったでしょう?」
(……演…出………だと?)
喉も痺れたように動かなくなっていたが、魔女はいいたいことを察しているのだろう喉の奥で笑いを堪える。
「あなたが来る時間に合わせて散歩に出たり、突風が吹いたり。とっても運命的ですてきな恋の筋書きだったと思わない?」
魔女の艶めいた紫水晶の瞳が、燐光を放っているような気がした。
「氷の剣が溶けてしまうほどに、ね」
時間が、止まったかと思った。
けれど息苦しくなってそうではないと思い知らされる。
「あはははははっ、イイわぁ。その絶望した顔! とっても素敵!!」
マリーの声で響く魔女の哄笑が、耳に刺さる。
その哄笑は体の中のなにもかもを押し流し、人形になったような気分になる。
この魔女の望むままに踊らされる操り人形に。
(………マリー………)
途方もない虚無感の中を漂っていると、ふっと虚無の笑顔で空を見上げたマリーの姿が浮かんだ。
必死になにかを言おうとして倒れた後、何も言わずに泣き続けた姿も。
奥歯を、強く噛みしめる。
(…………マリー…………!!)
私は、本当の意味では、理解していなかったのだ。
マリーがどれほど深い絶望を抱え、諦めを抱えていたのか。
――助けて。
マリーはそんな絶望の中から救いを求めた。
助けたかった。
助けたかったのに。
追いつめることしか、できなかった……!
――精一杯幸せになることが一番の抵抗だと思わない?
その言葉とともに、夢から醒めるように笑顔が浮かんだ。
マリーは、時に泣きながらではあっても、たくさん、笑ってくれた――。
幸せだと言って、大事にお腹を抱えて。
「………………マリーは、」
掠れた喉はほんの僅かな声を絞り出すだけでも、激しい痛みが走った。
しかしそれは、胸の痛みに比べたら、蟻に噛まれたようなものだった。
「マリーは! 魔女に抗い、必死に生きた!!」
「――――……っ!」
上に向かって振り抜いた剣を、魔女は一歩身を引いて紙一重でかわした。
間髪入れずに踏み込みながら振り下ろす剣は、今度こそ間違いなく魔女を捉えた。
――あなたは、愛しい妻を二度も殺すのね?
剣は、息を飲み恐怖に表情をひきつらせて仰け反った魔女の胸元。その、ドレスのレースをわずかに押さえ込むところで、止まってしまった。
「………………どうしたの?」
息を飲み下した魔女は、そのまま面白がるようにころころと喉の奥で笑った。
「私を殺さないの? 千載一遇のチャンスなのよ?」
腕が、動かなかった。
――もしどちらか選ばなければならない時は、私よりこの子を守ってあげて。この子だけでも、呪いから解放してあげて。
マリーの願いが、胸の奥に広がる。
腕に、この魔女を斬れと強く念じる。
なのに、腕はそれ以上1ミリたりとも動かなかった。
「そうよねぇ。あなたの大事なマリーちゃんですものね? 傷つけるなんて、できないわよねぇ」
自慢げにマリーの体に指を滑らせる魔女の言葉にふつふつと怒りが湧くのに、腕に力を込められない。
わかってる。
わかっている!
これはマリーじゃない。
マリーを殺し、ディーネに呪いをかけにきた魔女だ。
だけど
だけど、ついさっきまでは、マリーだった。
呪いに耐え、虐待に耐え、精一杯に幸せになろうとしたマリーの。
そして死してなお弄ばれ続ける、哀れなマリーの。




