抵抗4
毎日一緒に散歩もしたし、好きなものを好きなだけ一緒に食べた。
一秒たりとも離れるのが惜しく、息をするように愛してると囁いた。
それはとても幸せな時間だったけれど、麗らかな日に凍った湖の上を散歩しているような感覚でもあった。
なんの予兆もなく突然ひやりと、氷が薄い場所に踏み込んだ気がして立ち止まったり、割れてしまいそうで慌てて引き返したりしながらの暮らしだった。
マリーは揺り椅子にゆったりと腰掛け子守歌を歌い、大きくなってきたお腹を時々撫でながら、白いレース糸で生まれてくる娘のために靴下を編んでいた。
「ふふ、元気な子。足を突っ張ってるわ。ねぇロラン、ここに手をおいてみてよ」
子守歌を中断したマリーは嬉々として私を手招きした。
マリーに導かれままに臍より少し右上くらいに手をおくと、親指の先くらいのしこりが内側にあるのが手触りでわかった。
本当に、ここにひとつの生命が宿っているんだと実感した瞬間、すっとそのしこりのようなものが消えてしまった。
「ふふふ、恥ずかしいのかしら。あなたのお父様ですよ」
マリーが笑いながら声をかけると、お腹が波打つくらいに急にぽこぽこっと動いた。
「…………っ!? 動いた!!」
「あはははは、生きてるんだもの。元気に動いてくれないと困るでしょう?」
ビックリして思わず手を引くとマリーは楽しそうに笑ってお腹が揺れ、子供まで一緒になって笑っているような気がした。
「あなたも声をかけてあげて。この子、ちゃんと聞いてるんだから」
「……なんて言えばいいのか、わからないよ」
もう一度撫でるように促されたけれど、躊躇ってしまった。
「なんでもいいのよ。お父様だよとか、元気に育ってちゃんと生まれてくるんだよ、とか。声を聞かせてあげるだけでいいんだから」
強引に手首を掴まれ、今度は少し臍より左上くらいに持って行かれる。ぴたりと動かないしこりのような感触だった。
「………ゆっくり大きくなっておくれ」
こぼれたのは、そんな弱気な言葉だった。
この子が生まれてくる時、マリーとこの子の運命を変えようと心に誓ったはずなのに。
マリーに覚悟を促されているせいなのか、心のどこかで出てこないでほしいと思ってしまった。
このまま時がとまればいい。
マリーと、ディーネと、3人で過ごせるこの幸せな時間のままで。
「………ロランったら、もう………」
マリーはくすくすと苦笑をもらした。
「ずっとこのままじゃ、腰が痛くてかなわないわよ」
マリーはいいながらも柔らかいクッションと腰の間に手を入れて、背骨と腰をもみほぐす。手を貸すと、マリーはくすぐったそうに笑った。
「それに、生まれなかったらどんな顔をしてるか、どこが私に似て、どこがあなたに似ているかわからないじゃない。それに、抱っこしてあげることも――……」
笑みが消えると同時にマリーは俯き、すぅっと空気が冷えた。
「………マリー?」
マリーの前に膝を突いて顔色をのぞき込むと、頬に一筋の涙が伝っていた。
目が合うと、マリーは申し訳なさそうに眉を顰めて無理に笑顔を作ろうとした。
「……人間って欲張りね。これでもう十分幸せだったはずなのに、次々に欲が出ちゃうんだもの」
「なにかやりたいことがあるの?」
「ううん、いいの。なんでもない」
マリーは静かに首を振った。
「諦めるなよ。必ず、君もディーネも呪いから解放してみせるから」
マリーは一瞬複雑な笑みを浮かべて、それからくしゃりと顔を歪ませた。
「私……私ね……」
しゃくりあげながら、マリーは言った。
「……一度でいいから、この子を、この腕に抱いてあげたいの……」
それがあまりにもささやかな願いだったから、咄嗟に言葉が出なかった。
「私ね、母のことを全然知らないし、一度も抱っこしてもらったことがない。母って呼ぶだけで、気持ちは他人と変わらないの」
拭っても拭っても次々と溢れ落ちる涙についに両手で顔を覆ったマリーの肩を抱き寄せる。マリーは私にしがみつくようにして首元に顔を埋め泣き続け、私はその背中をさすってやることしかできなかった。
「母は……私をどんなふうに思っていたかしら? 大きくなっていくお腹を見て、胎動を感じて、怖かったかしら? 父みたいに私を憎んだかしら?」
「マリー……」
「……私、この子に、そんなふうに思ってほしくないのよ……」
どんな言葉も気安い慰めにしかならなさそうで、なにも言えなかった。
「あなたのこと、こんなにも愛してるって……それをね、ちゃんとこの子に伝えてあげたい……」
「ちゃんと、伝えられるよ」
マリーは首を振った。
「私には、想像できないの」
やっぱり気安い慰めしかできなかった自分が呪わしかった。
それから、マリーは申し訳なさそうに顔を上げて無理矢理笑って見せた。
「ごめんなさい、あなたを信用してないわけじゃないのよ」
「わかってるよ」
「魔女の呪縛がどれほど残忍で凶悪で……」
「わかってるって」
苦笑混じりに耳に胼胝ができるほど何度も聞いた言葉を遮った。
「マリー……この子は、ちゃんと君の声を聞いてるんだろう?」
マリーのお腹に手を添えると、ちょうど存在を主張するようにぽこぽこと元気よく蹴ってきた。
「………ディーネ………っ、……ぃ……ったぃわ……」
マリーは呻くようにお腹の中の我が子を呼んだかと思うと、続いて本当に呻いた。
「……あんまり強く蹴ると、本当に痛いんだからね……」
目尻に涙をためたマリーが文句を言うのが微笑ましくて、私も笑顔がこぼれる。
「それにね、これを見ればちゃんと伝わるよ」
目で示した先にあるのはマリーが編んでいる途中の靴下。
靴下なんかもうすでに7足もできあがっていて、おくるみにもレース編みを施して。ショールも作ったし、ベビードレスもそれに合わせたヘッドドレスも、縫ったり編んだりした。
生まれてくるディーネのためにそろえられるもののできる限りをマリーは手作りで用意した。出来合いのものにも、マリーが刺繍やレース編みで縁取りを施したりして少しでも手を加えた。
それどれにも、並々ならぬ愛情で溢れていた。
「……ちゃんと、伝わるかしら?」
不安げに見上げてきたマリーがかわいらしくて、抱きしめる腕に力を込める。
「うん。私が伝えるよ。君がどれだけディーネを愛していたか」
胸の中で、そっと息をつくのが伝わってきた。
「でもそれは万一の事態であって、魔女なんか絶対に捕まえて呪いを解いて、3人で幸せになるんだよ」
「………ええ」
マリーはいつもの苦笑を返した。
「絵空事だと思うのに、あなたが言うと本当になりそうな気がするから不思議よね」
「……絵空事?」
「なに? どうかしたの?」
ふと、胸の中にささくれのようなひっかかりを覚えて顎をしゃくった私を、マリーはくるりと目を丸めて見上げてきた。
「……いや、そういえばマリーの肖像画を一枚も見た覚えがないなと思って」
いいながら記憶を掘り返してみるけれど、屋敷に飾られているのはダンケルやアンネや、それより前の先祖たちのものばかりだ。
「あぁ、そうね。父はきっと私なんか存在しなればいいのにと思ってたからじゃないかしら」
こともなげに呟かれた理由に、私は立ち上がった。
「よし! じゃあ今すぐ画家を呼んで取りかかってもらおうか」
「え?」
「だってマリー、一枚もないんじゃ、もし最悪の事態になった時にどうやってディーネにお前のお母様はこんな顔だったんだと教えるんだい?」
ぽかんとしたままのマリーを大事に抱え上げると、執事を呼ばわりながら部屋を駆けだした。




