1-05 ブイと孤独のブンチャッチャ
街の真ん中にある灯台は、半分水で満たされ、魚や魚のようなものが泳いでいる。
先祖代々灯台守をしているザジは、魚を求めてやって来る人びとの相手をしている。
「人が水でできているなら、そこには魚がいないと」
人びとは魚を手に入れられる時もあれば逃げられる時もあったが、たいていは満足して帰っていく。
旅芸人ロランスは、パッチワークの袋に詰めた友だち・シャーリィと一緒に灯台を訪れる。
夜に魚たちが歌うのを聴いたロランスは、しばらくこの街に滞在することに決める。彼は気分屋なザジと少しずつ親しくなり、魚を求める人びとの物語を聞くようになる。
「自分にブイを付けておくの。いまどこにいるか、分からなくならないように」
「ツギハギでも、自分の隠れ家があるといい」
へんてこな二人の束の間の、あるいはそれなりに長い友情の話。
「どうしてこんなところに灯台があるんです?」
ロランスはそのへんにいた初老の男に尋ねた。男は──定年退職後、家にいられても困るので「ちょっと一杯ひっかけてきたら」と妻に追い出されて真っ昼間から酒場に向かうはめになった、そんな雰囲気を漂わせている──答えた。
「簡単な話だよ。昔はこのへんまで海だったが、埋め立てて街を広くしたんだ。みんな思い入れがあったから彼女だけ残したのさ」
ロランスは石造りの灯台を見上げた。かなり古そうだが手入れをされていて、石と石の隙間はしっかりモルタルが詰められてアリ一匹入りこめなさそうだ。そして扉には錆びついた鎖が回され、南京錠がかかっていた。
「廃墟?」
「いや、若い女が店をやってるよ。ザジって名前の、変わった子で──あんたほどじゃないが」
ロランスは旅芸人で、この街にたどり着いたばかりだった。彼はアコーディオンを抱え、帽子には小さなラッパ、ドラムとシンバルを背負い、それらを鳴らすための仕掛けがブーツに繋がっており、見るからにドンチャドンチャしていた。さらに腰から奇妙なパッチワークの袋をぶら下げていて、それは時おりモゾモゾと動いた。
「いったいどんな店を?」
「ううむ、説明が難しい。魚を売ってるよ」
「食用の? それとも観賞用?」
「そうだな、別に食っても眺めても良いんだと思うが。気になるなら見に行くといい」
ロランスは入り口の南京錠を見た。どこから入ればいいんだろう?
「そっち側に梯子があるだろう」男が指差した。「そこを上ればいい」
確かに外壁には木製の梯子が下ろされていた。ロランスは店を訪ねるべきか悩んだ……なにしろドンチャドンチャしているので、上るのは大変そうだったから。
彼はパッチワークの袋を少しだけ開き、耳を近づけてふむふむと頷いた後、微笑んだ──まるで何か面白いことを聞いたように。
そして、アコーディオンを畳んでベルトにしっかりと留めながら男に言った。
「ありがとう、行ってみます」
梯子を上るのは想像通り骨が折れた。背中のドラムたちはあの手この手でロランスを後ろにひっくり返そうとしてくるし、梯子はぐらぐらしていた。それでもどうにか、塔の中ほどにあるアール・デコの洒落た赤い扉まで上りきった。
少しわくわくしながら扉を開くと、淡い虹色の貝殻を連ねたチャイムがカラコロと澄んだ音をたてた。彼は中に頭をつっこんでパフッとラッパを鳴らした。
「こんにちは?」
「入って、そこで待ってて」奥から声がした。
ロランスは扉にシンバルをぶつけつつ部屋に入った。
緩やかな円錐形の灯台の中は、壁にそって螺旋階段がぐるりととぐろを巻いており、色んな大きさのガラス瓶や金魚鉢が並んでいた。それらはからのものもあれば、ガラス玉や貝殻や漂流物が詰まっているもの、それから色鮮やかな魚が泳いでいるものもあった。サンゴみたいな緋色のタツノオトシゴがロランスに気づいて、隣の瓶にいる空色の魚とヒソヒソ話し始めた。
ザジと思しき若い女は……確かに風変わりだった。レモンイエローのワンピースを着て、暗い色の髪の毛を長く三つ編みに結い、そのおしまいに風船をくくり付けていた──つまり三つ編みの先は風船に連れられて宙に浮いているのだった。風船は半透明で艶やかな赤い色をしていて、波間に浮かぶブイのようにも見えた。こんな人より変だと思われたなんて心外だ、とロランスは考えた。
ザジは丸椅子に腰掛けていて、ドンチャドンチャしたロランスに一瞬目をとめたものの、すぐに先客に視線を戻した。
彼女の前には色褪せた布張りの椅子が置かれ、冗談みたいにつばの大きい帽子をかぶった中年の女が座っていた。
「それで、どこまで話したかしら?」女は言った。「そう、あたくしの人生は申し分のないものよ、いまもね。でも、歳月が魔法を解いてしまったの、真夜中を過ぎたサンドリヨンみたいに。魔法が戻らないのは仕方のないことよ。ただ、魔法を忘れたくないの」
「分かったわ」ザジはひとつ頷いた。
彼女は階段から大きめのジャムの空き瓶を取り、適当な巻貝と、懐中時計の文字盤と変な形のシーグラスを放り込んだ。それから座っていた丸椅子をどかして、足元にある取っ手を引っ張り、直径一メートルほどの丸い扉を開いた──驚くべきことに、その下は水だった。しかも真っ暗ではなく、なにか発光体がいるような、ふんわりと明るい色をしている。
彼女はジャム瓶に水を汲み取り、軽く揺らして中身を整えた。さらに、ものすごく柄の長い網を取り出して水の中につっこみ、何事か囁いてから慎重に引き上げた。彼女は網の中を確認し、ポチャンとジャム瓶に落とした。
ロランスはじっと目を凝らした──砂糖細工みたいな小さなクラゲが、文字盤やシーグラスの間を軽やかに舞い踊り、女に向かって優雅にお辞儀するのが見えた。
女も帽子を脱いでじっくり瓶の中を眺め、言った。
「気に入ったわ」
女は指にはめていたこわれ真珠の指輪を外し、ザジに差し出した。彼女はそれを受け取って桃色の貝殻と鼈甲のボタンの入った瓶に収めた。
女は帽子をかぶり直してクラゲと同じくらい優雅に会釈し、ジャム瓶を抱えて部屋を後にした──すれ違い様にロランスに不審げな視線を向けながら。
もう相手をしてもらえるかな、と思った彼は改めてザジに挨拶した。
「こんにちは。僕はロランス」
「ザジよ」彼女はじろっと彼を眺めた。「その格好でよく梯子を上れたわね」
「案外、いけるもんだよ」
「それで、あなたは何か欲しいの?」
「欲しいものがあるわけじゃないんだ。ちょっと通りすがったもんだから」
「へえ」
ザジは床の扉を閉じ、椅子を元の位置に戻した。髪に結ばれた風船が階段にぶつかり、ばぅんと音を立てた。
ロランスは改めて部屋の中を見まわした。階段にはぎりぎり足を乗せられるスペースがあった。上はロフトなのか半分床で隠れている。もしかすると彼女はここに住んでいるのかもしれない。
「君はなんでこんなところにいるの?」ロランスは尋ねた。
「わたしのご先祖は海の魔女に呪いをかけられたんだって。灯台を離れると気が狂うの」彼女は丸椅子に座ったが、ロランスに椅子は勧めなかった。
「それ、信じてるの?」
「まさか! 本当は気が狂ってたから灯台に閉じこめられたんだと思うわ。ともかく、そこから代々、灯台守をしてるってわけ」
「なるほど」
ザジはそのへんからガラス玉を手に取って口に放りこんだ。ロランスがびっくりしていると、彼女は彼の勘違いに気づいた。
「飴玉よ」
彼女は洒落た猫足のついたボンボニエールを持ち上げた。その中には宝石みたいな飴が入っていたので、ロランスもひとつもらうことにした。透き通った瑠璃色の飴は爽やかなソーダの味がした。
パッチワークの袋がモゾモゾと動いたので、ロランスは袋の口を開け、耳を傾けた。
「そこにいるのは誰?」とザジ。
「シャーリィ。恥ずかしがり屋なんだ──あのね、彼が、どうして魚を売ってるの? って聞いてる」
「人が水でできているなら、そこには魚がいないと」
「ふーん?」ロランスにはよく分からなかった。「どうして?」
「なぜって」ザジはそこで少しだけ沈黙し、続けた。「金魚鉢ほどの孤独でも、人は溺れるからよ」
ロランスは床の扉を指した。
「君はその中で泳いだりする?」
「……たまにね」
「へえ!」
彼は驚いた。泳がないと思っていたのだ。
そのとき貝殻のチャイムが鳴り、一〇歳そこそこの少年が入ってきた。
ザジがロランスに言った。
「お客だわ。用がないなら帰って」
用? 何かある気がしたが、思いつかなかったロランスはひとまず部屋を後にした。
面白い街に辿り着いた、とロランスは思った。住人はそれなりに寛容で、午後じゅう通りを練り歩いてドンチャドンチャしたらしばらく滞在できるくらいの金が集まった。もしかしたら、とっとといなくなってほしくて金を渡したのかもしれないが。
日が暮れてから、彼は再び灯台の下に戻ってきた。梯子はなくなっていたが、てっぺんの灯籠は柔らかな光を放っていた。
ロランスは背負っていたドラムを石畳に下ろし、灯台の壁に寄りかかった。街は心地よい静けさに包まれている──
「……あれ、歌が聴こえる?」
彼は音の出どころを探してきょろきょろした後、夜風に当たってひんやりした石に耳を押し付けた。歌声は灯台の中──上の部屋ではなく、ロランスと同じ高さから聞こえた。
それは人の声ではなかった……踊る水と泡の中で、夜空の星が瞬くような音がした。優しくも軽快で、どこか悲しい。
「魚の歌だ」ロランスは呟いた。「きっと、魚たちが歌っているんだ」
ブンチャッチャと伴奏を付けたくなったが、こんな夜更けにそんなことをしたら怒られてしまうだろう。
パッチワークの袋がモゾモゾしたので、ロランスは袋を壁に押しつけてシャーリィに魚の歌を聴かせてやった。シャーリィはしばらく耳を傾けた後、ロランスにこう耳打ちした──ザジは毎晩この歌を聴いているのかな?
「たぶんね」ロランスは囁いた。
きっと、朝が来ないでほしいと願うのだろうね、とシャーリィ。
「どうして?」
シャーリィはモゾモゾしただけで答えなかった。
ロランスはザジのことを考えた。彼女の先祖は灯台に閉じこめられたというが、彼女自身は外に出られるんだろうか? 呪いのことは信じていなさそうだったけれど。
明日聞いてみよう。彼はそう思いながら、しばらく魚の歌に耳を澄ませた。





