1-23 荒ぶる神と忘れ花
大正時代、記憶を失った由良は村の有力者・磯原家に拾われ、一人娘の千代と姉妹のように暮らしていた。一年後、不作で困窮した村では古い生け贄の儀式が復活することに。恩返しのため千代の身代わりを申し出た由良だったが、村人総出で騙され洞窟に閉じ込められてしまう。
絶望する由良の前に現れたのは、全身焼けただれた邪神——かつての氏神様だった。帰る場所を失った由良は、同じく孤独な邪神と共に歩む道を選ぶ。自分の正体と邪神化の謎を追ううちに、傷ついた二人は愛し合うようになる。寄るべなき者同士が紡ぐ大正浪漫異類婚姻譚。
騙された、騙された、騙された。
薬を飲まされ夢うつつのまま儀式が終わり、真っ暗な洞窟の奥に閉じ込められた私は声の限り泣き叫んだ。誰もいないからと、泥まみれになるのも厭わず、地面に仰向けになりあらゆる呪詛をぶちまけた。
どうせこのまま朽ち果てるのだろう。孤独に苛まれながら全てを呪いつくして。しかも記憶は戻らないままと来た。己の愚かさにほとほと嫌気が差す。
その時。頰にポタポタと何かが落ちる感覚で我に返った。
何だこれは? 生ぬるい黒いヘドロのような。天井に向かって目を見開くと、世にも恐ろしい顔面が目に入った。顔の半分は醜く焼けただれ大きく歪んでいる。ヘドロのようなものはそこから垂れていた。
ぎゃあと叫びたかったが、恐怖が過ぎると声すら出なくなるらしい。その化け物は上から私を見下ろし、満足げな声でこう言った。
「やけに生きのいい悪意だな。人間を見るのも久しぶりだ」
これが私と邪神との、初めての出会いだった。
⭐︎
「急ごしらえの花嫁にしては様になったな。由良、そなたには村の命運がかかっておる。これまでに受けた恩を忘れず、務めを果たせよ」
「あい、かしこまりました」
白無垢姿で、しおらしく三つ指をついて頭を下げると、十兵衛さんは満足そうに頷いて、私のいる離れから去って行った。
事の起こりは一年前まで遡る。近くの山の中腹で行き倒れていた私は、乃木原村に身を寄せることとなった。
私は名前以外一切の記憶を失っていた。身元を証明するものは身につけておらず同行者もいない。どこかで神隠しに合ったのが、この地に捨て置かれたようだと噂された。
「衣類も乱れてないし襲われたわけでもなさそうだ。一体何が起きたのやら」
二つの街をつなぐ街道沿いの乃木原村は、宿場町としての役割を担っているものの、土地は痩せ作物は育たずこれといった産業もない。少ない資源の中で人々が肩を寄せ合って生きている、そんな集落だ。
気がつくと、私は村で一番の旧家である磯原家の厄介になっていた。磯原十兵衛という人は、多数の使用人を抱え村一番のお大尽である。顔役として行き場のない私を拾ってくれたのだろう。
「きっと神様があなたを遣わせてくださったんだわ。かわいい子ね。宝物にしたいくらい」
一人娘のお千代さんは率先して私の世話をしてくれた。年も同じくらいで、お千代さんは十七歳。遠目には本当の姉妹に見えただろう。本来なら使用人として働かせてもらえるだけでも御の字なのに、家族のように厚遇してくれた磯原家に、私は大層な恩義を感じていた。
「もうすっかり体も良くなりましたので、お暇を……」
「記憶もない、帰る場所もない。その状況で、女だてらにどうしようと言うの?」
「都会に出れば住み込みで働ける所もございましょう」
「嫌よ。せっかくできたお友達ですもの。どこにも行かないで」
深窓の令嬢という言葉がぴったりなお千代さんは、髪に結んだレースのリボンを揺らしながらイヤイヤと体をよじった。普段は私の庇護者として姉の如く振る舞うが、その姿は駄々っ子のように見える。
「それならせめてここで働かせてください」
「気を遣わないで。うちはあなた一人くらい養うのは余裕なんだから。このままでいいのよ」
そうではない。私の肩身が狭いのだといくら説明しても、お千代さんは分かってくれなかった。彼女にしてみれば、どうして自ら幸福な立場を手放すのか解せないようだ。
家族と同等の個室をあてがわれ、部屋は別だが同じものを食べさせてもらえる。至れりつくせりの待遇に私は恐縮しきりだったが、一方でなぜこんな扱いを? という疑問は膨らむばかり。当然のことながら、村人たちは私に対し、好奇心と猜疑心を隠そうとしなかった。
「ほら、神現しさんがいらっしゃった。平気な顔して千代さんのお下がりを着て歩いているよ。よくもまあ平気な顔ができるもんだ」
「しっ、滅多なことを言うもんじゃないよ!」
小声でそんな会話を交わしながらそそくさと去っていく。確かに、お千代さんは田舎の村には珍しい、都会で流行っているハイカラな柄の銘仙を好んで着るから、私たちが一緒にいると目立つのは確かだ。その度に私は申し訳ない気持ちに駆られた。
しかし、次の年に異変が起きた。ただでさえ農業は不向きな土地なのに、夏の日照りで農作物の収穫量が減り、人々の暮らしは困窮の一途を辿ったのだ。
道端では頬のこけた子供たちが母親の着物の裾にしがみつき、男たちは日雇いを求めて早朝から街道に立っていた。口減らしのために子供を奉公に出す家も出てきた。そんな中でも、磯原家は暮らしぶりを改めない。お大尽ならそんなものかもしれないが、問題は私の存在である。
なぜ元からいる住民が苦難を強いられるのに、よそ者の私がのほほんと暮らしているのか。彼らの怒りはもっともだと思った私は、外出を控え家に引きこもった。
「最近お外に出ないけど体の調子でも悪いの? 私まで憂うつな心持ちになるわ」
お千代さんはいつもの調子で私の部屋を訪ねては、美しい眉をひそめて言う。私は申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「ごめんなさい。でもこんな時にのんきな顔を晒すわけにはいかないわ。大変な時期ですもの」
「そんなこと誰が言ったの? ひもじいからって八つ当たりしてるだけよ。由良ちゃんを悪く言う人は私が許さない!」
私は、数少ない味方のお千代さんに弱々しく微笑んで謝意を伝えた。お千代さんは心が真っ直ぐなだけだ。そう思うことにした。
「そういや、父様が由良ちゃんに話があるのですって。やだ、それを伝えに来たんだった」
十兵衛さんが私に? 珍しいこともあるものだ。私はすぐに部屋を出て、彼のところへと向かった。十兵衛さんは、私の所作がきちんとしてると最初に褒めてから本題に移った。
「話と言うのは……お前さんも知っておろう、乃木原村の惨状は?」
「ええ……日々痩せ衰える村人たちを見るにつけ、自分はこのままでいいのかと申し訳ない気持ちで一杯です」
「わしも頭を悩ませとる。自分の代で飢饉なんてことになったらご先祖様に顔が立たない。もう神頼みでも何でもいいから縋りたい思いだ」
十兵衛さんの振り絞るような声を聞いて私も胸が塞いだ。でも、なぜ私だけにこんな話をするのだろう? 家族がいる手前でも差し障りないはずなのに。疑問に思いながらも私は話を合わせた。
「神頼みで何とかなるのなら、何でも致しましょう。それで村人の気が済むのなら」
「そういうわけにもいかないのだよ……千代を矢面に立たすわけには」
「なぜお千代さんが?」
意外な名前が出てきて、思わず身を乗り出す。お千代さんに何の関係があるのか?
「お前さんは知らんじゃろうが、この村には奇妙な言い伝えがあってな、五百年ほど前、村が大かんばつに襲われた時、氏神様に娘を捧げて救ってもらったらしい」
「まさか、お千代さんを捧げるとおっしゃるんじゃ……」
私は真っ青になって反論した。どこぞの昔話じゃあるまいし、神様に生贄なんてありっこない。
「馬鹿馬鹿しいにも程があります! 帝都では西洋の思想が浸透し、迷信など信じぬ風潮なのに今どき生贄なんて!」
「伝承を信じる村人は少なくない。村の顔役として普段いい思いをさせてもらっているうちが率先して身を切らなければ――」
何を言ってるのだ、この人は。その後も十兵衛さんは切々とお千代さんの話をした。親として娘を愛する気持ちと代表としての責務と。最初は反対していた私も、次第に彼の話に引き込まれていった。村人たちの困った顔が頭に浮かび、お千代さんの笑顔を守りたいという気持ちが膨らんでいく。そんなに儀式が大事なら。それでみなが精神的に楽になれるなら。
「千代は儀式が終わったらそっと帝都にでも逃がそうと思う。二度とこの地を踏ませなければ体裁は保てる」
「それなら私がやります。お千代さんの代わりに」
自明な結論だった。今こそ恩を返す時だ。私は晴々とした気持ちで十兵衛さんに告げた。
☆
こうして私は氏神様の花嫁として仕立てられることになった。磯原家の分家の、そのまた離れに移動して準備を急ぐ。これは、お千代さんから身を隠すためでもあった。
案の定、私がいなくなってお千代さんは半狂乱になったと言う。その原因を知って、尚更手がつけられなくなったらしい。
それでも私はほっとした。今まで受けた恩返しができる機会が与えられたことに安心したのだ。
(お千代さんと別れるのは寂しいけど、これを機にここから離れよう。折を見て十兵衛さんの使いが迎えに来てくれると言うし、まさか本当に死ぬわけじゃない)
決行は今夜だ。そんなことを思いながら心を落ち着けていると、音もなくそっと障子が開いたのでびっくりした。しかも、そこにいたのはお千代さんだった。
「お千代さん! なぜここが?」
「しっ! 時間がないの。それより、どうしてもお詫びしたくて」
お詫び? 何のこと? 首を捻っていると、彼女は懐から使い込まれたかんざしを取り出した。
「これはなあに?」
「これはあなたのお母様のものよ。一緒に行き倒れていたの」
それを聞いた途端、全身の血が凍りついた。
「なぜ……? 同行者はいなかったって……」
「それがいたのよ。ごめんなさい。だって由良ちゃんを手元に置きたかったんだもの。私だけのものにしたかったの。でもこうなったら全てを話すわ」
なぜ、なぜ、なぜ……。私は裏切られていたのか。頭が真っ白になり何も考えられなくなった私とは対照的に、お千代さんはどこまでも無垢で美しいままだった。





