1-22 ドロリカランチ~コワモテ料理人と泣き虫迷子の食堂譚~
食堂『ドロリカランチ』の店主は、顔はコワモテだけど腕はぴか一の料理人ドロ。ある日、買い出しの帰りに出会ったのは、道に迷った可憐な少女――と思いきや、正体も過去も謎めいた泣き虫の男の娘アリーネだった。『ドロリカランチ』を探しているというアリーネを店に連れ帰り、温かい食事を振る舞うドロ。行く当てのないアリーネに、ドロはぎこちなくも手を差し伸べ、訳アリな二人の奇妙な共同生活が始まった。温かな料理を通して少しずつ心を通わせていくドロとアリーネ。魔物を食材にした美味しい料理と、涙と笑顔。異世界で繰り広げられる不思議な日常と、ほんの少しの奇跡。そんな物語があるかもしれないし、ないかもしれない。寡黙な料理人ドロの過去とは、謎の男の娘アリーネの正体とは――心もお腹も満たされる、涙と笑顔の絶品グルメファンタジー。
器から白い湯気がふわりと立ちのぼる。ほんのりピンクがかったとろみのある出汁に、ふっくらと煮崩れた米が沈んでいる。湯気の向こうでは、一人の少女がスプーンを握りしめたままぽろぽろと涙を流していた。
――よく泣く子だ。
ドロは思った。
拾った、と言えばそうなのかもしれない。
街の外れから森へ向かう途中、点々と続く野の花に導かれるようにドロは歩いていた。やがて花は小さな群れとなり、その真ん中に、痩せた少女がぼろぼろのトランクに寄り掛かるようにして蹲っていた。
声をかけたのは、別に下心があったからではない。ただ、傍らに落ちていた吐き捨てたらしいチーズと乾いたパンの欠けらがやけに気になったのだ。
驚かせないようにそっと近づいたつもりだった。だが、ドロの影が落ちたのに気付き、少女ははっと顔を上げた。まるで春の風に揺れるアネモネのような少女だった。
ドロを見つけたその目が大きく見開かれた。肩幅の広いがっしりした体に鋭い目つき、頬に一本走る古い傷。この風貌だ、怖がらせてしまったかもしれない。
「なに、別に怪しいもんじゃあない。買い物の帰りだ」
ドロが担いでいる荷を少女に示すと、少女はほっとしたように小さく頷いた。
「具合でも悪いのか?」
ドロの問いに、少女はふるふると首を横に振る。
「ここにいると危ないぞ」
「……道に、迷っちゃって……あの……」
少女はすがるようにドロを見上げた。
「食堂を、探してるんです……」
「食堂?」
「噂を聞いたんです。『ドロリカランチ』っていう変わった名前の、どんな食材も絶品にする魔法みたいな料理が食べられる食堂があるって。顔は怖くて無愛想だけど、でも最高に腕のいい店主がいるって……」
「変わった名前の食堂に、怖い顔の不愛想な店主だって? そんな噂があるのか」
ドロは「ははっ」声を出して笑った。少女が首を傾げる。
「俺の店だよ、『ドロリカランチ』」
「え……」
ドロは背から荷を下ろし、中を見せた。色とりどりの果物やいくつもの調味料の袋。いかにも料理人の荷物だ。
「ほんと? 本当に?」
少女が喰いつくように身を乗り出した。そのとき。
きゅるるるるるる……!
派手な音を立てて少女のお腹が鳴った。
「わ、やだ……」
少女は赤くなってあたふたと両手でお腹を押さえた。笑いをこらえながらドロが言う。
「ついて来いよ、何か食わせてやる」
「……いいんですか?」
「ああ、もともとそのつもりだったんだろ? 歩けるか?」
少女はこくこくと頷き、「ありがとうございます」と言ってゆっくり立ち上がった。目の前に差し出されたドロの手を驚いたように見つめ、そこにおずおずと自身の手をのせた。今度はドロのほうが慌てる番だった。
「あ、いや、荷物……のつもりだったんだけど」
「え……あ、ごごご、ごめんなさい……」
ドロが少女の後ろにあるトランクを指さすと、少女の頬が再び真っ赤に染まった。
少女はふらつきながらドロの後をついて来た。
危険なダンジョンがすぐ近くにあると言うのに、随分と軽装だった。淡いピンクのワンピースの上に薄黄色のストール。
だがよく見ると、ひらひらと広がるスカートの裾は土埃で汚れ、ぺたんこの靴の先には穴が開いている。両手は肩から落ちかけたストールの端をしっかりと握りしめていた。
きれいに整えられていたであろう細い三つ編みは途中でほどけかけていて、おでこには汗がにじみ、前髪が張り付いてる。
「どこから来たんだ? 見かけない恰好だ」
「えっ……と」
少女に合わせてゆっくり歩きながら、ドロは尋ねた。少女は目を伏せ、少しだけ考えるようにしてぽつりと答えた。
「……分からないんです。変だと思われるかもしれないけど」
「ああ……気づいたらここにいた、ってやつか」
「そ、そうです……たぶん。ずっと遠くの、洞窟みたいな場所から逃げてきたんです」
「逃げてきた?」
「ええ、ずっと眠ってた気がします。目が覚めたら女の人がいて、遠くに逃げなさいって言われて……途中で食堂の噂を聞いてどうしても行ってみたくなって……あの、信じてもらえますか? 自分でも何が何だかよく分からなくて……」
少女の声が震える。ドロは「まあ……」と言って歩を緩めた。
「たまにはそういうこともあるんじゃないか? ……俺も、似たようなもんだし」
「……え?」
「着いたぞ。すぐに準備するから、座って待っててくれ」
「ここが……」
店の前に立ち尽くす少女を中へ促し、ドロはキッチンへ。すぐにプランターのハーブを数種類摘み、グラスへ入れて湯を注いだ。湯がぱっとオレンジ色に染まる。
「ハーブ茶だ」
「わあ……」
小さな歓声をあげて、少女はグラスを手に取った。一口飲んで驚いたような顔をして、味を確かめるように、もう一口。それから今度はごくごくと一気にそれを飲み干した。
「気持ちいい……あったかいのに、冷んやりしてる」
妙な感想だな、とドロは苦笑いする。
「おかわり、もらっても……?」
「ああ、どうぞ」
ドロは湯を注ぎ足した。少女はくるくると表情を変えながら茶を飲んでいる。改めて見ると本当に痩せていた。
――まともな飯なんて、食ってないみたいだ。それならあれがちょうどいい。
ドロはさっそく料理に取り掛かった。その様子を、今度は少女がじっと見つめる。
取り出したのは花霞米。一見すると紫っぽい米だが、水に浸すと水は淡い桜色に染まり、炊くと花が開くようにふわりと広がる。
それから柔らかなモコウ鳥の肉と数種類の薬草。少女の視線を痛いほど感じながら、ドロはそれらを細かく刻み、鍋を火にかけた。
まもなく出来上がったのは、ふんわり甘く香るおじやだった。
「……きれい」
目の前に置かれた器を見て少女の喉がごくりと鳴った。
はじめは恐る恐る、といった様子だった。一口目を口に含んでじっくり噛みしめた途端、少女の目が潤んだ。スプーンを持つ手が、微かに震えている。少女はほっと息を吐いた。
「……ここまで来るの、大変だったんです。途中で、何度も諦めようかと思って……」
小さな声が掠れていく。下を向いた少女がきゅっと唇を噛んだ。ドロは新しいおしぼりを一枚、ぽんとテーブルに置いた。
少女は驚いたように顔を上げ、ぷっと唇を尖らせた。
「……泣いてなんかないです」
「そうか」
少女はおしぼりをそっと目元に押し当てた。
「……来れてよかった。こんなに、あったかいなんて」
少女はおしぼりをスプーンに持ち替えて、小さく笑った。
「胃が……美味しいって言ってる」
「そうか? それはよかった」
「……不思議ですね」
「何がだ?」
「初めて来た気がしなくて。すごく、懐かしい感じがします……」
熱々のおじやをすくってはふうふうと息を吹きかけ、少女は静かに食べ進めている。ときおりぽろりとこぼれる涙を、おしぼりで拭いながら。
最後の一匙がすっかりなくなるまで、ドロは静かにそこにいた。
「これからどうするつもりだ?」
「考えて……ないです」
「とりあえず今日は知り合いの宿にでも――」
「あの」
ドロを遮って、少女が顔を上げた。
「こ、ここに……置いてもらえませんか?」
少女の目は真剣だった。
「働かせてください。料理屋の手伝いなら、したことがあります」
確か逃げていると言っていた。助けたいのはやまやまだが……ドロが黙っていると、また少女の頬を涙が伝った。
「な、泣かなくても」
「ここの他に行きたいところなんて、ないんです……」
ドロは黙ったまま、もう一枚おしぼりを差し出した。少女は今度は素直にそれを掴み、ごしごしと顔を拭いた。
「優しいんですね」
泣きながら少女は「ふふ」と笑った。
「すごくあったかくて、ずっと前に知ってた人に、その……すごくよく似てて」
「そうか?」
「とっても……大切な人だったんです」
「そう……か」
そんなことを言われたら、余計に困る。ドロはどうしたものかと天井を仰いだ。
「もういいだろ、俺が泣かしたみたいじゃないか。女の子泣かせたなんて噂が立つのはごめんだ」
少女ははっとおしぼりを顔から離し、きょとんとドロを見つめた。まるで泣いていたことすら忘れてしまったように、赤くなった目をぱちぱちさせ、小声で言った。
「……男、ですけど」
「……え?」
ドロの動きが止まった。一瞬だけ、眉間にしわが寄る。
少女、もとい少年は、すっと姿勢を正した。
「あの……僕、男です。こんな格好してますけど」
「……えぇ?」
「ごめんなさい、困らせてしまって……」
咄嗟に言葉が出てこない。少し間をおいて、ドロは言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「いや……別にいいさ。男でも女でも。それに」
表情を緩めて、一呼吸。
「そうと分かれば俺だって遠慮はしない。住み込みで働く気があるなら大歓迎だ」
「本当ですか? ありがとうございます」
少年はぱっと表情を輝かせた。ドロは勢いに押されつつ頷く。
「僕、アリーネっていいます」
「そうか、俺はドロだ」
「えっ……ドロ、さん?」
「ドロリカランチのドロ、覚えやすいだろ?」
それを聞いたアリーネの目から、またもや大粒の涙。
「なんでよりによって、ドロさんだなんて……」
呟いた声は小さすぎて、ドロの耳には届かない。
「だから泣くなって、俺が何かしたみたいじゃないか」
「勝手に……勝手に涙が出てくるんですぅ……」
アリーネは泣いていた。泣きながら、笑っている。
――まったく先が思いやられる。いや、むしろ楽しみだ。
ドロは心の奥で笑った。





