1-21 焦らし、焦らされ、恋焦がれ
高校生・遥香と数学教師・理は、誰にも言えない秘密の関係を育んでいた。しかし、1つの電話が二人の距離を永遠に引き裂く。焦がれる想いと秘めた感情が交錯するーー『雨は嫌い。けど、この耳障りな音は好き』
白いカーテンが午後の陽射しを和らげている。医師は穏やかな表情で、私を見つめていた。
「今日の気分はいかがですか?」
「大丈夫です」
私は医師に視線を向けていた。
「よかった。今度は少し違うアプローチを試してみましょう」
医師は表情を崩さない。
「まるで映画を見ているように、俯瞰して思い出してください」
「俯瞰って…上から見下ろすように、ですか?」
私は膝の上で手を組み直した。
「そうです。ご自身を第三者として観察するんです。客観的に、感情に巻き込まれずに」
「…やってみます」
私は目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。
「見えますか?その場面が」
「はい…」
私は記憶の断片をかき集めたーー
雨は嫌い。けど、この耳障りな音は好き。
インターフォンが鳴り、遥香は嬉しそうに玄関へと向かう。
「…先生、待ってましたよ」
遥香の高校で数学教師をしている理は肩を雨で濡らして立っていた。
「お邪魔するね」
遥香の住まいはマンションの2LDK。訳があって、一人で住んでいる。
「濡れちゃいましたね。風邪ひいちゃいますよ」
遥香は理の濡れた肩を見て、心配そうに眉をひそめる。
「大丈夫だよ。でも、少し冷えたかな」
「シャワー浴びてください。タオルと着替え、用意しますから」
遥香は慣れた様子でクローゼットから男物のシャツとジャージを取り出す。
「いつありがとう、お言葉に甘えるね」
理がバスルームに向かう間、遥香はキッチンで夕食の準備を始めた。冷蔵庫から取り出したのは、昨日から仕込んでおいた肉じゃがの材料。理の好物。
手際よく野菜を切り、鍋に火をつける。シャワーの音を聴きながら、遥香は嬉しそうに支度をした。
三十分後、湯気の立つ肉じゃがと白いご飯、それに味噌汁が食卓に並んだ。
「いい匂いだね」
髪をタオルで拭きながら、理は椅子に座る。
「タイミングばっちりです」
向かい合って座る。遥香にとっては特別な時間だった。
「いただきます」
理が箸を取ると、遥香も手を合わせる。
「今日はどうでしたか、学校」
「相変わらずだよ。社会に出たら何も役に立たないから、皆のモチベーション維持が大変」
「私は先生に会えるから、一番好きな授業ですよ」
何気ない会話。でも遥香には愛おしい日常だった。理が肉じゃがを口に運ぶ度に、嬉しそうな表情を見せる。
「遥香の料理はいつも上手だね」
「ありがとうございます」
雨の音が、二人の会話を阻むかのように強く降り続いている。
「もっと食べてください。まだまだありますから」
遥香は理の茶碗におかわりをよそう。理はそんな遥香を見つめ、顔を前に出す。
「…ごはん中ですよ」
「いいから…」
遥香は困ったような表情を浮かべながら、頬を紅く染めた。
「もう...」
そう呟きながら、軽く唇を寄せる。ほんの一瞬の、羽根のように軽やかなキス。
「…これでいいですか?」
「ううん…全然」
理は立ち上がり、遥香の隣に移動する。遥香の瞳を見つめながら、理はゆっくりと顔を近づけた。互いの息遣いが聞こえるほど近くで、時間が止まったような静寂が流れる。
「足りないよ」
理の囁きに、遥香は微かに頷いた。その瞬間、唇が重なる。最初は触れるだけの優しいキスだったが、より深く、より情熱的になっていく。
遥香の指が理の服を掴み、理の手が遥香の髪に絡む。唇が離れると、今度は舌が求め合うように絡み合った。
「んっ…」
遥香の小さな吐息が漏れ、理の舌が遥香の口の中を探るように動く。遥香もそれに応えるように舌を絡ませる。
「はぁ…」
甘い息遣いが交じり合い、二人の世界に包まれていく。
「はぁ…はぁ…」
息が次第に荒くなっていった。
「んっ…はっあっ…」
唇の間に細い唾液の糸が光った。遥香の唇は艶やかに濡れ、頬は上気している。心臓の鼓動は重なり合うリズムを刻んでいた。
再び唇を重ねようとしたその時、理のスマートフォンが振動した。
「ごめん…ちょっと」
理は申し訳なさそうに呟くと、後ろを向いて電話に出た。
「はい…うん、うん…」
遥香は呼吸を整えながら、理の背中を見つめる。
「…えっ?永輝が?」
理の声が急に慌てたものに変わった。遥香の表情も心配そうに曇る。
「今どこに?…分かった、すぐに向かう」
電話を切ると、理は振り返って遥香を見つめた。さっきまでの妖艶な雰囲気は一変し、緊迫した空気が流れる。
「ごめん。急な用事が入った」
理は立ち上がり、食べかけの夕食を残したまま着替えに向かおうとする。
「待って」
遥香は慌てて立ち上がり、理の腕に抱きついた。
「今日はずっと一緒にいるって言ったでしょう?」
その声には切ない響きがあった。雨の音がより一層激しく窓を叩いている。
「今度埋め合わせするから」
「いや!約束したじゃないですか」
遥香は懇願するような瞳で見上げる。理は困ったような表情を浮かべた。
「遥香...」
そっと遥香は自身の手で、理の下半身を触ろうとする。しかし、理はその手を拒んだ。
「…これ以上は卒業してからの約束だろ?」
「けど…我慢できないよ…」
遥香の瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。理はそれを見ないように首を振る。
「…分かってくれ」
理の声は冷たくはないが、きっぱりとしていた。遥香の肩が小さく震えた。
「...分かりました」
遥香は諦めたように手を離し、うつむいた。理は申し訳なさそうに遥香の頭に手を置く。
「俺が愛しているのは君だけだから…ねっ?」
理が向けてくる笑顔は本当の笑顔だろうか。遥香は少しだけ疑ってしまった。しかし、頷くことしかできない。
「俺の服はどこ?」
「乾燥機です…」
「ありがとう」
理は急いで向かおうとするが、テーブルを見て、遥香に申し訳なさそうに言う。
「ごめん、残して」
「いえ…大丈夫です…」
窓ガラスを打つ雨粒が、まるで無数の指先で叩いているかのように響く。外の音という音は全て、この水の壁に呑み込まれてしまった。
『パンッ…パンパンッ…』
車のエンジン音も、人の足音も、鳥の鳴き声さえも、雨の轟音の向こうに消え去っている。
「んっ…はぁ…」
まるで透明な繭に包まれたような孤独感に襲われていた。
「先生…」
雨は容赦なく降り続け、窓の向こうの街並みを灰色のベールで覆い隠している。時折、雷鳴が空を裂くと、一瞬だけ世界が白く照らし出され、そして再び深い静寂が訪れる。それは雨音だけが支配する、奇妙な静寂だった。
「私は愛してました…誰よりも…」
外界から切り離されたこの空間で、私は自分の呼吸音さえも雨に負けそうになりながら、この激流のような時間が過ぎ去るのを待っている。
『プルルルル…』
『ガチャ…』
「もしもし?パパ?」
「うん、元気」
「またやっちゃった」
「うん、パパので」
「…三発」
「ごめん、怒らないで」
「うん…気を付けるから」
「掃除と片づけをお願い」
「うん、ありがとう」
「パパ大好き」
『ツー…ツー…』
『ピッ』
雨は嫌い。けど、この耳障りな音は好き。だって、他の音を消してくれるからーー
焦らすのは好き。
焦らされるのは好き。
けど、一番じゃなきゃ嫌。
これは私が一番になるまで…もしくは死ぬまでの恋焦がれるお話。





