1-15 桜月夜天狼恋歌 ~嫌われおおかみ娘と猟犬中佐のかりそめ婚〜
明治初期。貧乏元士族の娘・久我谷歌帆は、お見合い十五連敗中だ。持ち主に特別な力を与える天紋を持つ彼女だったが、その模様は、狼。人外の身体能力と引き換えに世間から疎まれていた彼女は、だが、本当は心根の優しい家族思いの娘だった。
ある夜、異形に襲われる彼女を助けたのは、軍の特務部隊に所属する志波中佐。彼もまた、犬の天紋を宿していた。しかし、命の恩人である彼からかけられたのは「君、匂うぞ」という最低な一言。二度と会うはずのない二人だったが、ある日、志波中佐が再び訪ねてくる。なんと彼は、軍命により君とかりそめの婚姻を結ぶことになったと告げたのだ。
不遇な狼令嬢と不器用犬系軍人。帝都の夜を覆う陰謀に直面しながら二人が紡ぐ、これは遠い約束が実るまでの物語。
夢だったのかもしれない。
だけ、ど。
朧の月が刻んだ君の影。
ふいに寄せた風に満開の桜が揺れて、花びらがどうと散って。
大丈夫、あたしがいる。
ひとりじゃないよ。
その声に、なにも見えなくなったんだ。
膨大な紅に埋められた世界が滲んで、歪んで。
ふわりと揺れる、君の銀のたてがみの他には。
あの、桜月の夜から。
◇◇◇
お米、重い。
味噌も重い。
「……そりゃあ、重くもなるよね……」
わたしはため息交じりに呟いて、茜色を帯びつつある春の夕空を仰いだ。
右手に米袋、左手に味噌樽。どちらも小さな子どもくらいの目方はあるけど、わたしにとっては持てないほどではない。力だけは売るほど余っているのだ。
でも、十五回目のお見合いをしくじった帰り道、とぼとぼと重い足取りで荷物をぶら下げて歩いていれば、だんだんと肩がだるくもなってくる。
大家さんに家族一同で頭を下げ、家賃を待ってもらってなんとか整えたよそ行きも髪飾りも、またもや質屋行き決定だ。こちらも十五回目。胸元の愛らしい桔梗の文様を見下ろして、もう一度ふうと息を吐く。
悪いお見合いじゃなかったと思う。真面目そうな相手の青年には素直に好感を持ったし、相手の目線も、そして匂いも、わたしに悪い感情を持っていないことがよくわかった。互いに旧士族の家柄ということで、旧幕時代の思い出から御一新後の苦労話まで、両親どうしでもなごやかに談義が進んだのだ。
だけど、来たるべきときがやってきた。
お相手のお父さまが両親に酒を勧めながら、軽い口調でこう尋ねたのだ。
『そういえば、お嬢さん……歌帆さんは天紋をお持ちとのことでしたな。うちの親戚筋にもひとりおりまして、菫の花に由来する紋だそうです。正月の集まりでは宴席に花を降らせてくれたりと、楽しませてもらっています。歌帆さんの天紋もきっと可愛らしいものなのでしょうな』
その言葉に両親は笑顔のままで凍りついた。なにも言えない。首筋に汗がつたうのを見たような気がした。
言わなきゃ。どうせ、バレるし。結婚生活のなかで、身体を、首筋の紋を隠しおおせる訳もない。
『あの、おおかみ……です』
ふいに小さく声を出したわたしに、ご両親が顔を振り向けた。
『え、おお……なんと?』
『狼です。動物の。あの、犬に似てる、耳がとんがってて尻尾の長い……』
わたしは頭の横にふたつ手のひらを立て、ぴこんと動かしてみせた。ご両親は互いに目を見合わせ、困惑したような表情を浮かべている。相手の青年も同様だ。反応、困るよね。わかってます。ごめんなさい。
『あ、でも、大丈夫です、ちょっと力が強くて足が速いだけで、跳んだりとかも得意ですけど、でもあの、けっして狂暴とかじゃないですし、お肉しか食べないとかもないですし、むしろ重いものとか持てて家のことするのに便利ですし、それに、それに……』
わたしは助け舟のつもりで早口でまくし立てた。が、途中で自分がなにを言っているのかわからなくなってきた。もっといいこと、言わなきゃ。うう、となって、卓にばんと手をついて腰を浮かせる。
『け、結婚後に旦那さまになにかあったら、わた、わたしが守ります! どんな敵も、その、ぜんぶぜんぶ、返り討ちにしてみせます!』
ばあん、と胸を張ったが、室内の異様な静けさに気づいてわたしはそろりと腰を下ろした。できるだけ身体を縮めて顔を伏せ、反省の意を示すとともに時間が早く過ぎることを願った。
その願いは叶えられた。
見合いがそこで終了となったためだ。
両親は怒らなかった。訊かないでくれるかなあと思ったけど、まあ無理だよね、と父は笑った。このご時世ですもの、女だって外で働いたらいいの、結婚だけが生き方じゃないんだから、と母は慰めるように声をかけてくれた。
でも、今回の縁談も、いままでのも、両親が奔走して頭を下げて持ってきてくれたものだ。余裕のある家と繋がって、商売下手でいつまでも長屋ぐらしのうちの家計を向上させたい、という狙いはあるにしても、もう二十歳になるわたしの将来を本気で案じてくれていることはわたしが誰よりもよくわかっていた。
人力車をお願いするお金ももったいないから家まで歩こうという両親に、わたしは米屋に注文品を取りに行くという口実で手を振った。
そうしていま、できるだけ遠回りをして、長屋で共同で頼んだ米と味噌をぶら下げながら、ゆっくりと家に向かっているのである。
「……狼の天紋。どうしてそんなに、嫌われるのかなあ……」
重い足を引きずるように歩きながら、首の後ろにあるはずの、狼の形の痣を払い落すように頭をぶんぶんと振ってみた。
天紋。
数百人にひとり、身体のどこかに紋様のような痣をもって生まれる者がある。持ち主に特別な力を与えるその紋様を、わたしたちは天から与えられた紋、天紋と呼ぶ。
天紋は、多くは草花や木々、岩石や滝、波など自然にあるものの形をとっている。その力も形に応じたものが多い。花の天紋であれば、花を咲かせ、香りを漂わせ、あるいは空中に光で描かれた花を浮かべる。木々であれば木の葉を操り、水ならばそれを呼ぶことができる。
理由も理屈も誰にもわからないけれど、天紋を持つものはその力を暮らしのため、社会のために役立てることが良しとされた。とはいえそれほど強い力を持つ天紋は多くはなく、ほとんどがちょっと便利な道具、余興の種というほどの扱いだ。
ただ、例外がある。
動物をかたどった天紋だ。
いずれもその動物の能力に由来した強い力を持ち主に与える。犬、猫、鷹、鮫。種類により、ひとにより、力の発現の仕方はさまざまで、その全貌は誰にもわかっていない。
動物の天紋持ちはとても数が少ない。だから、なおさらなのだろう。畏れ敬うひともいれば、忌み嫌うひともいる。極端なのだ。ただ共通するのは、動物の天紋持ちは、普通の人間とは思われていないということ。
そうしてわたし、久我谷 歌帆も天紋を持っている。
しかも動物。
おまけに、狼。
三歳のころに首筋に現れた紋を共同のお風呂場で見つけた母は、はじめは犬の紋だと考えて、喜んで長屋のみんなを呼んだらしい。両親ともに、動物の天紋に偏見を持っていなかったのだ。むしろ娘が頑健に育つと喜んだのだろう。
が、長屋の住人のひとり、自称学者のおじいちゃんがなにやら難しい本をめくりながら言ったそうな。
これ、犬でない。狼じゃな。さても珍しい。前に現れたのは源平の頃、恐ろしい異能を持つ狼の天紋持ちは都に災いをもたらした妖として成敗されたと書いてある。
祝いの席は通夜に変じて、おじいちゃんはしばらく出入り禁止になったとのことだ。
ただ、両親はその後に懸命に調べ、たしかに彼の言うとおりだとなったらしい。
狼は世間では忌むべきもの、凶事の象徴と捉えられている。子どもの読む物語でも悪役であり、大人の悪事の際には狼のようにという形容がつけられることが多い。
両親は、それでも娘の天紋を隠そうとはしなかった。
罪ではないし、恥でもない。そう言って、わたしの首筋にある紋を誰にでも見せたし、笑って説明していたのだ。
だけど、わたしにはそのことの重さがわかっていなかった。
それで起きた、六歳の夏の、あの出来事。
あれ以来、両親はわたしの天紋を隠すようになった。
「……そろそろ、帰らなきゃ」
茜に加えて紺を含みつつあった空を見上げて、わたしはいちど大きく息を吸い込み、はああと全力で吐いた。
わたしは、わたし。恥じることなんてない。でも、謝ろう。お父さんとお母さんの想い、無駄にしちゃって、ごめんなさい。
そうして、美味しいごはん、作ろう。
そう決めれば、足が出た。
重い荷をぶら下げながら、とん、と、地面を蹴ったのだ。





