1-14 クレマリア女学院の軍靴
王立クレマリア女学院には、表と裏の二つの顔がある。
表の顔は、貴族令嬢たちを立派な淑女へと育て上げる一流の女子寄宿舎学校。
そして裏の顔は、適性を持つ人材を一流の軍人に育て上げるエキスパート養成所。
そんなクレマリア女学院において『完璧令嬢』と謳われているアレクシア・ラースシオンは、国王陛下の唯一たる『軍靴の乙女』と呼ばれる軍人でもあった。親愛なる陛下のために、今夜も彼女はただひたすらに敵を討つ。
二つの顔を使い分けるアレクシアだったが、ある日、姉が敵国と内通していたという事実が発覚し……。
窮地に立たされたアレクシアと、彼女に執心する血の覇王。そしてロジック好きの変人学長に、一枚岩ではない女学院のエキスパートたち。さまざまな思惑が絡み合うなか、最後に笑うのは誰なのか。
王立クレマリア女学院は、貴族令嬢たちが集う淑女教育の最高峰だ。
この学院を卒業しただけで王妃候補になれるほどの箔がつき、国内外の王族たちの目に留まる者さえ現れる。
そんなクレマリア女学院には、表の顔と裏の顔があった。もっとも生徒の大半は表の顔しか知らないため、今日もカリキュラム通りの淑女教育に励んでいるわけだが。
「あら、アレクシア様? そんなところで何をされているの?」
この日、アレクシア・ラースシオンは昼休みに中庭で本を読んでいた。級友たちに声をかけられた彼女は、いつも通りの穏やかな笑顔で答える。
「外国語の習得を兼ねて、あちらの言語の小説を……でもそろそろお昼休みも終わりですね」
「ええ、次は講堂で授業ですから急ぎませんと」
「声をかけていただき助かりました。おかげで遅れずにすみそうだわ」
本を閉じたアレクシアの「また後ほど」という言葉に頷いて、級友たちは再び廊下を歩き出す。少し離れてから、彼女たちは「きゃあっ」と小声で盛り上がり始めた。
「お聞きになって? 外国語の習得ですって。もうすでに五カ国語は習得されているはずなのに、なんて素晴らしいのかしら」
「一瞬だけ本の表紙が見えましたけど、鳳凰国の文字みたいに見えましたわ」
「鳳凰国ですって!? 世界でも五指に入る難解な言語じゃないの!」
「やっぱり血は争えないものね。確か姉君も伝説扱いされていたはずだし」
さすがはアレクシア様だわ、と級友たちは色めきたつ。
十六歳のアレクシア・ラースシオン。文武両道で多才。実家は建国当時から続く由緒正しき伯爵家で、王家からの信頼も厚い。級友の一人が感嘆の溜め息を漏らす。
「ああ、やっぱり素敵だわ。さすがはクレマリア女学院きっての完璧令嬢ね」
◆ ◆ ◆
一方その頃、中庭にいたアレクシアは級友たちの足音が聞こえなくなってからようやく立ち上がった。
「……それで? 東の勢力の動きは?」
自分の他には誰もいないはずの中庭で、彼女は静かにそう問いかける。すると思ったよりも近い距離で、姿の見えない誰かが答えた。
「二手に分かれて進軍中。東方の砦を襲撃する班が囮で、別の班は山越えのルートで密かに入国してくる」
「そう。援軍が必要なのはどっち?」
「囮の迎撃。自軍の損害を最小限に抑えるのがあなたの役目。出立は今夜の午前零時。それまでに準備を」
それきり、声は途絶えて聞こえなくなった。相変わらず姿は見えないが、微かにあった気配も消えた。恐らくはもう学院の外だ。
完璧令嬢と謳われるアレクシア。その実、彼女はこの女学院が生んだ『軍靴の乙女』と呼ばれる軍人でもあった。
先ほど告げられた任務内容を頭の中で反芻する。出立は今夜の零時。向かう先は東の砦。寄宿舎では個室を与えられているため深夜に抜け出すのは容易いが、そういえばこういう時の欠席を学院側はどう処理しているのだろうかと疑問に思う。病欠か、あるいは親族に不幸があったことにでもなっているのか。そうだとしたら勝手に病弱扱いされているうえ、架空の親族が十人くらいは死んでいそうだ。風評被害も甚だしい。
ふと時間を確認すれば、次の授業まであと三分だった。全力疾走すれば間に合うが、淑女たるもの廊下を走ることは当然禁じられている。だが優雅に歩いていけば間違いなく間に合わない。アレクシアは周囲に人がいないことを確かめてから、助走もつけずに思いきり垂直跳びをした。
そして彼女は中庭から渡り廊下の屋根へと飛び移り、足音も立てずにそのまま講堂へ向けて走り出す。廊下を延々くねくね曲がっていくよりも、屋根伝いに最短距離を進めば時間は半分以下ですむのだ。屋根から屋根へ、時々木にも飛び移りながら、アレクシアは無音のまま駆け抜ける。
こうして授業開始の二分前に到着したアレクシアは何食わぬ顔で級友たちと合流し、副学長による講義『戦時下における貴族女性の役割とその使命』を真面目な顔で受講した。内容に反して黒板には謎の数式がびっしりと書き込まれていたが、前の講義の板書が消されていないのはよくあることだ。もとから黒板を使わない主義の副学長はもちろん、生徒たちも誰も気にしていない。
「……であるからして、貴族女性は前線に出る家族の代わりに家門を守るべく政事に参画し……」
講義を聞きながら、アレクシアは黒板に書かれた数式を一つずつ目で追っていく。ただの複雑な数式に見えるその中に、別の国では暗号として使われる文字列が配置されていた。
『国王陛下ヨリ、軍靴ノ乙女ヘ。今夜零時。黒イ馬車。適当ニ手ヲ抜ケ。健闘祈ル。以上』
あの気難しい国王陛下からの伝言だった。解読したアレクシアは無意識に表情を緩める。暗号越しなのに、なぜか彼と目が合っているような気がした。
ちなみにこれを書いたのは恐らく学長だ。数学マニアで、かつロジック好きな学長がやりそうな手法である。
他に読み落としはないかとアレクシアはしばらく数式を眺め、それから授業へと意識を引き戻した。副学長の話はすでに佳境を過ぎていたが、いかんせん時計の針はのろのろと進み、周りの令嬢たちはそろそろ欠伸を堪えきれなくなってきている。
「それではミス・ラースシオン、今日の講義であなたが学んだことを発表なさい」
こういう時に限って指名されることが多いアレクシアは、内心嘆息しながらも立ち上がる。こういう不意打ちがあるので副学長の講義は気を抜いてはいけないのだ。現に眠りかけていた令嬢たちは、次は自分かと慌てて書きかけのノートを確認している。アレクシアは静かに口を開いた。
「戦時下においてのみならず、平時においても我々特権階級にある者には民への義務がございます。本日の講義では、特に貴族女性の在り方について副学長の見解を……」
完璧令嬢の仮面を深く被って、アレクシアは今夜零時に思いを馳せる。
――黒い馬車。この国で『漆黒』を使えるのは国王陛下ただ一人であり、『黒い馬車』も国王と国王が許可した人間だけが使える特別なものだ。つまり、黒い馬車を使う者は国王陛下の庇護下にいることを意味している。
「……ので、この国に安寧をもたらした国王陛下のために、今後とも微力を尽くす所存です」
「素晴らしい。わたくしの講義をよく聞いていたようですね。それでは次、ミス・ウォーロック。あなたはこの講義でなにを学びましたか?」
「は、はい。ええと、戦時下を想定された副学長の講義は非常に意義深く、特に……」
級友の発表を聞きながら、アレクシアは黒板をじっと見つめた。健闘祈ル……。
思い出すのは、闇すらも塗り潰す圧倒的な存在感と、万物を射殺すかのごとき鋭い眼光の国王陛下。研ぎ澄まされたその美貌は、アレクシアを見た時にだけわずかに人間味を帯びて氷解する。
……ゴーン、ゴーン、と遠くで鐘が鳴った。講義終了の合図。指名されなかった令嬢たちはホッと息を吐き出して、副学長は「それではまた次の講義で」と告げて出ていった。もちろん黒板はそのままだ。
アレクシアは立ち上がり、黒板消しを手に取った。誰も消さないのは見て見ぬふりをしているのではなく、単に消していいかどうかわからないからだろう。勝手に消して怒られたらたまったものではないので。
「アレクシア様、手伝いますわ」
「いえ、大丈夫。学長にこれを消すように頼まれていて、すっかり忘れていただけだから。皆さんは先に戻っていてください」
「でも次の授業に間に合わなくなりますよ?」
確かにそうだ。教室までは遠いので、呑気に黒板を消していたら間に合わない。しかし。
「大丈夫です。実はこのあと学長に呼び出されていて」
「まあ、そうなのですか」
「それなら次の授業の先生には私たちから伝えておきますわね」
どうやら納得してくれたらしく、級友たちは忙しない足取りで講堂から出ていった。廊下を走らずに教室に向かうには、今から出てもギリギリか。それを見送ってから、アレクシアは上を見上げた。
「……そういうことなので、口裏を合わせてくださいね学長」
アレクシアが見上げた先にあるのは周回廊。下からはよく見えないが、上にいる学長が人を食ったような笑みを浮かべていることはなんとなくわかった。
「はは、やはり気づいていたか。よかろう。堂々とサボりたまえ」
あらゆる敵を打ち砕く軍靴の乙女。国王陛下の懐刀、アレクシア・ラースシオン。
いくら周回廊で気配を消していても、この距離で彼女の目を逃れることは難しい。アレクシアを見下ろしながら、学長は笑みを深めた。この学院で育てた軍人たちのうち、彼女は一際特別な存在だ。
「ところでミス・ラースシオン。黒板の数式は解読できたかな?」
「はい。陛下からのお言葉を伝えてくださりありがとうございます」
「なに、あのお坊ちゃんは私の教え子でもあるからね。まあ即位した途端かつての教師を顎で使うあたり、相変わらずとんだ悪ガキだが。しかしあいつ、相変わらず君のことが大好きだよね」
先の王位争いの際に宮殿を血の海にした覇王を「悪ガキ」呼ばわりするのなんて、後にも先にも学長だけだろうなとアレクシアは思った。
「って、あの悪ガキの話はどうでもいい。実は少々厄介なことが起きているんだ」
相変わらず上からは学長の声だけが聞こえてくる。
「今夜、敵が二手に分かれて進軍してくる話は聞いているね?」
「はい。まさか山越えルートを敵国が知っているとは思いませんでしたけど」
「ああ。どうやら内通者が手引きしたようなんだが――悪い知らせだ、ミス・ラースシオン。内通者は君の姉だ。このままでは一週間以内に君も連座で処刑されるぞ」





