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1-12 後宮庭師のもののけ祓い

凌雲帝の御代。没落貴族の姫・烏谷菫子は親戚の菅原姓を名乗り、後宮の庭師として働いていた。

女官だった母に菫子を身ごもらせ、「物の怪が憑いた」と捨てた父の正体を突き止めるためだ。


ある日菫子が梅壺に薬を届けに行くと、そこには倒れる女御と「物の怪憑き」と糾弾される女房が。

そして思わず薬草の知識で女房の濡れ衣を晴らした菫子の薬庭に、謎めいた蔵人・橘基久が犯人捜しの協力を求めて訪れる。

中宮不在の後宮。近頃は梅壺女御と入内を控えたその妹姫の周囲で、物の怪の仕業としか思えぬ凶事が続いているというのだ。


「物の怪のせいにする前に、人の不可能を証明せねば。子細な検討が必要かと」

「現実主義者か。じゃあ、俺たちはお揃いだね」


二人で調査を進めれば、浮かび上がるは貴族の権勢争いと、四人の女御の恋模様。

そして菫子は帝の十三司と呼ばれた母の秘された職務が、後宮の病魔の治療と検死だと知り――。

 ――春は早朝つとめて


 かつてこの紫雲京の麗しき中宮にお仕えした女房は「春は曙」と記し、歳月が流れた今なお共感と賞賛を集めている。

 厳しかった今年の冬も、弥生さんがつになり空気はゆるやかに温んできた。一方、まだ夜は長い。かの女房のごとく機微に聡くなくとも、女性の専らの関心事である恋――逢瀬にも日の出前の別れを惜しむにも向く、というところか。


 しかし後宮は下級女官の末席に座す、庭師の菅原菫子にとっては断然、春は早朝、日の出後だ。

 後宮の端の端、恋もこしつもなく仕事部屋で寝起きする身。

 末端とはいえ貴族の姫ならあるべき長い髪も、女官の装束たる美しい衣もない。腰の辺りで切り結んだ黒髪。衣もくるぶし丈の絞り袴に、袖の短い単と衣を少し重ねただけで、ほとんど平民の直垂ふだんぎだ。

 ないない尽くしの姫だが、自然の素晴らしさなら誰より身近に知っている。

 形の良い目が眩しげに花々を見て、桜色の唇が続けて言葉を小さく紡ぐ。

 横笛のようにまっすぐな声だった。


「春は早朝――ようようほころぶ花弁、蕾のうち、梅桃桜はとくに明かりて、空にたなびく雲の如し」


 しっかり寝た日の出の後、世話する木々の花蜜を求めた鳥のさえずりで目覚め、咲いた花々、葉に降りた朝露を薬にと集める朝こそ、春に相応しい。

 特に弥生はその名の由来通り、木草弥生(いやおい)い茂る――草木が目覚める春の朝は日毎に賑やかさを増していく。庭を飾る草木を育て手入れし、新たな植物を野山から摘み、移植する。薬草を育てるにも大切な季節の始まりだ。


 菫子は寝所の周辺に植えた植物たちから朝露を竹筒に、花や葉を腰の籠に摘みながら、今日も今日とて、彼女の薬園に向かう道を楽しむ。

 自然に増えてくれる可愛らしいタンポポは、生でも煎じてもいい。風邪を鎮め解熱し、胃や肝を強くし、乳飲み子を育てる乳母や通いの官女を助ける。

 油菜は背丈が高く華やかだ。油が採れる上に茹でて美味しく、血の巡りが良くなる。

 梅や杏が実を付ければ、実や種が良い薬になる。

 夏にかけては、風邪や腹痛に備えて冬瓜を育てたい。


 養親である菅家の蔵書を頭の中で繰りながら、妃たちの屋敷を繋ぐ渡殿わたりろうかの脇を通り過ぎたとき、その先、階上の簀子ろうかの方から出仕しごと名が呼ばれた。


「あら、なづなだわ」

「何故あのような者を、四季の庭に出入りさせているのかしら」


 四季の庭とは、後宮の中心部。

 紫雲京の政治の場たる内裏のうちの更にうち、帝の住まう大内裏。かつて強大な権勢を振るった藤原氏による兄弟間の権力争いと、それを受けた妃同士の嫌がらせを厭った当時の帝が作り替えた場所である。

 帝はこの時、正妻たる中宮とその候補である女御は一家につきひとり、と決め、春夏秋冬をそれぞれ現した四区画に住まわせることにしたのだ。しかも、帝の寝所からほぼ等距離に。


 今菫子の目鼻の先には、いまだ梅の花咲く冬の庭たる梅壺があり、御簾から垂れた布に鶯の紋が織られていた。


「今日も鳥辺野の烏のように真っ黒だこと」


 死者を葬る東の地の名であてこする彼女たちの装いは華やかで、菫子の薄暗い衣とはたいそう違う。単の上に美しく重ねた袿、唐衣、そこに腰から長く垂れた正装の裳を引いており、目上の――ここ梅壺の女御に夜遅くまで仕えていたのだろう。

 重く、疲れそうだと菫子は思う。彼女の麻の小袖は丈夫で動きやすく、暗色も防虫効果のある薬草で染めたものだ。

 そしてこう思える余裕は十分な睡眠から。


「ええ、もう少しすると大炊殿ちょうりばに、続いて鳥辺野で煙が立つでしょう」

「まあ、不吉な」

「言霊より事実からの推測です。それより、お疲れのご様子でいらっしゃいますね」

「ええ、そうよ。あなたのような者と違って、心労が絶えないの」


 気の強そうな方の女房が顎を引く。目の下は墨のように黒々としていた。


(不眠が、慢性化しかけている)


 内裏の典薬寮は、あくまで天皇や女御のために調剤する。彼女たちの雇用主は女御と父君の鶯の大納言だ。自ら欲しいとは言い出せまい。

 しかしかの帝は後宮のために庭の整理とともに、薬園と庭師を用意した。つまり菫子の職分で、彼女たちもそれで声を掛けてきたはずだ。


「ならば酸棗仁ナツメを飲むと疲れも取れ、精神が静まり寝つきも良くなるでしょう。後程お持ちいたしますか」


 そう応えれば場から刺々しさが少し抜けた気がした。


「ありがとう、ではついでに――」

「ちょっと」


 もう一人に軽く袖を引かれ、女房たちが視線を合わせて渡殿の先を見れば、ぴしりと衣を着付けた年かさの女官が足早に歩いてきた。

 厳しげな顔立ちは怒っているようだが、実はあれが元々の顔と知る者は少数だ。


「典薬だわ。行きましょう」


 そそくさと二人が去って行くと、彼女はぴたりと足を止め、視線を菫子に向けた。


「――菫子」

「あら、叔母さま」


 女性の本名を知り、呼ぶのは夫か親兄弟など極めて親しい者だけ――彼女は親代わりであり、宮中の後見人でもある。典薬は去って行く女房たちの後ろ姿に目を眇め、


「まったく、なづなだなんてそこらの草の名を誰が付けたのかしら」

「患者に貴賤も人品もありません。なづなは薬草ですからマシではありませんか。薬司くすりのつかさの次官たる叔母さまの言葉とは思えません」

「それにぬばたまのような髪を、鳥辺野の(死者を啄む)烏だなんて」

「いえ、古い歌集には『国原は煙立ち立つ、海原はかもめ立ち立つ』と。紫雲山に御幸された帝が国見――国を一望なさったのは、竈に火が付き豊漁の、民が食うに困らぬ豊かな国。

 ですが私が続けて書くなら、かもめでなく『鳥辺野に煙り立ち立つ』でしょう。死者の数原因もまた国の幸いを占うものです」

「あなたには出仕よりも、幸せな結婚をして欲しかったのだけど」


 典薬は姪の減らず口に、頬に手を当てて息をつく。


「それが無理ならせめて高位の女官か女房として出仕しゅうしょくしたなら見初められる機会もあったでしょうに。右近少将や、蔵人の桜花の君――」

「叔母さま」


 興が乗った様子に菫子がたしなめると、叔母は口を噤んだ。


「恋などに興味はありません。ここに居るのは、叔母さまとは違う場所から殿上を見るため、叔母さまにすら見付けられなかった、私の父――」


 見返す黒々とした双眸に強い意思がある。それは、大切に傅かれて過ごす姫君とも、出仕をし世間を見知った者とも違う。


「――母を捨て、後宮から追いやった男が誰か知りたいのです。こうして後見してくださった叔母さまには感謝しております」

「そろそろ二年よ。それに見付けてどうするつもり?」

「……さて、それは。……それよりも、私にご用事だったのでは」

「ええ」


 曖昧に菫子が笑うと、典薬は仕方なさそうに懐から紙の一包を取り出した。


「典薬寮から届いたばかりの、滋養の薬よ。梅壺の女御さまに届けてちょうだい。

 他の御壺つぼねに呼ばれて、他に頼める人がいないの。……上臈こういの女房たちの間で病が流行していて、あちこち人手不足で」


 声を低める彼女の眉の間に、皺が寄った。


「先日も梅壺の女房がまた一人、妙な咳をする病にかかって。はじめは下々から流行るものなのに」


 彼女は薬師であり、夫は学問を家業とする菅原氏の医師、典薬大允てんやくのじょう。内裏と大内裏、どちらにも通じており確かな情報だ。

 菫子にも叔母の懸念が分かった。普通は不衛生や栄養不足から病になり、医者にかかることが難しい貧しい人々から流行するのだ。


「……それは、妙ですね」

「そうなの。いつものようにお願いね」


 典薬はそう言い置いて来たときと同じく、慌ただしく渡殿を戻っていった。




 菫子は叔母の局に入り、隅の唐櫃しゅうのうから装束一式を取り出した。単に袿を重ね、緋袴をはき、長いかもじを付け軽く化粧をすればどこにでもいる官女だ。


「薬司より参りました」


 御簾の前で深々と頭を下げたとき、奥の空気に違和感を覚えた。いつもすぐ取り次いでくれる女房たちの気配はあるのに応えがない。


「ああ、女御さまが……!」

「弁の君、なんということを」


「どうか、なさいましたか」


 薬を渡して帰ろうと思っていた菫子は、慌ただしい声に御簾を少し上げる。

 床板と巻き上げた御簾の端から覗く色とりどりの几帳、几帳、几帳――その奥の一枚がばたん、と倒れて音を立てた。

 白い手が漆塗りの棒を掴んでいる。手の主、一際美しい女性が豪奢な衣に埋もれながら倒れており、対面に一人の女房が手を震わせて座っていた。二人の間には土器が落ちて、中の濁った湯が零れている。           

 そして、誰かが悲鳴を上げた。菫子が最も忌み嫌う言葉を。


「弁の君に物の怪が取り憑いたのです!」


 心が騒ぎ、体中の血が沸き立つように顔を上げる。


 ――「物の怪が憑いた。宿下がりをさせよ」


 菫子が母の腹に宿ったときに、誰かも分からぬ父が言い放ったという。


(物の怪など、ただの言い訳だわ)


 誰も動かぬ気配に、急ぎ御簾の内側に滑り込む。

 奥から女御の小さい苦悶の声が聞こえる。喘鳴は空気を求める音。物の怪の仕業? ――そんな馬鹿な、薬は湧いて出てこない。

 頭部と怪我の確認、気道の確保、薬の特定。すべきことが次々脳裏に浮かぶ。


「女御さまは動かさずそのままに。薬司に人を、それから湯を――人の不可能を証明せねば、物の怪に失礼でございましょう」 


 菫子は緋袴の裾を掴むと、床板を駆けた。

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― 新着の感想 ―
早朝の庭でくるくると働く菫子さんの、小さくともよく通る声が魅力的でした。 けっこうな皮肉屋さんのようなので、バディを組む貴公子とのやりとりが楽しみです。 父親に関しては、母親の言しかないのでしょうか…
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