白石とじいちゃん医師の対話
※白石視点
「サンドバッグ」
大理石の応接台にバサリと落とされた複数の書類に視線を落としていると、向かいに座った和久井医師がぽつりと言った。
意味が分からず、還暦を過ぎているというのにいつまでも若々しく年齢不詳なその顔を眺めていると、
「めった打ち、というやつだな」
視線に気づいた和久井医師は、吐き捨てるように言ってギシリと背もたれに上半身を預けた。
「骨折が自然治癒したあとが7箇所、今も肋骨にヒビが入っとる。
あんな小さな体では碌な抵抗もできなかっただろう。
今までよく生きとったなっちゅうのが俺の感想だな」
無精ひげを節くれだった指で撫でながら、もう片方の手で投げ捨てた書類の一枚を引き出し、とんとんと指を差す。
人体を模した図にはいくつかの丸が記載されており、それが骨折痕のある箇所だというのが分かる。
「更に、腕に重度の火傷がある。専門医じゃないから何とも言えんが、きれいに直すなら皮膚移植が必要かもしれん。知り合いの美容皮膚科の医者に連絡しとこう」
書き込まれた所見に目を通しながら、胃の底にせりあがってくるものを抑えることができない自分に気づく。
「腹も背も内出血で真っ黒だ。いずれは消えていくものだが時間がかかるだろう」
たばこを押し付けられたような痕もある、と聞かされれば、思わず机を殴りつけたくもなる。
そうしなかったのは、どこかで理性が働いていたからだ。
「発熱はそのうち収まるだろうが、ケガによる精神的な負担も大きい。今は予断をゆるさん。絶対に目を離すんじゃないぞ」
諭すように言われてしっかりと肯く。
元より、目を離す気などさらさらない。
今だって信頼のおける人間がつきっきりで看病している。
「額の裂傷については手当がされとるが、ごくごく最近のものだな。首の切り傷はまあ、言うまでもないだろう。それ以外は、新しいものもあれば古いものもある。総合的に見て、幼少期からの虐待によるもんだっちゅーことは誰の目にも明らかだな。」
「ええ、そうですね」
骨折をするほどの激痛に耐えてきた、というのはつまり、それほどの痛みに慣れていたということでもある。暴力に慣れてしまうほどの環境で育ってきたということなのだ。
それに、三波の話からすると、どうやら彼や光成と同世代らしい彼女は、男女の差があるにしても体が小さすぎる。細すぎる手足は骨が浮き、少し膨らんだ腹部が、明らかな栄養失調を思わせる。
実際、和久井医師の所見にもそう書かれていた。
しばらくは流動食になるだろうが、もしかしたらそれも難しいかもしれない、と息をつく。
今はとりあえず、栄養剤を点滴している状態だ。
針を通すその腕も、ところどころにあざが浮いていた。
「ワシは医者の端くれだしなぁ、しかるべきところに通報する義務が、ある。が、それはお前さんらの望むことじゃないだろう」
「ええ、そうですね」
あの子がもっと幼ければ話は早くすんだかもしれない。
和久井医師の言う通りしかるべきところに通報して問答無用に施設へ入れればいいのだ。
暴力的な親から引き離す、最も有効的な手段だと言える。
もっとも、彼女が例え小学生だったとしてもそんなことをするつもりはないが。
だが、現実として、彼女は既に高校生であり施設に入れるには大きすぎる。そういった場合はどうするのだろう、とふと思ったが、そんなことはどうでも良いと思いなおした。
どうせ正規の手順なんて踏まないのだから。
その為の権力だ。今、使わずしていつ使うという?
「完治するまでにはかなりの時間を要する。その間、お前さんらは面倒を見る気があるのか?」
「ええ、そうですね」
怪我、というよりも、彼女に残された暴行の痕跡は時間をかければ、やがて回復に向かうだろう。
しかし、ここで問題なのは、肉体的ダメージは元より精神的なことではないだろうか。
長期にわたって虐待を受けていた子供の精神がまともなはずがない。
いや、違う。
まともでいられるはずがない。
「おい、白石。聞いとるのか」
「聞いてます」
「聞いとるのか」
少し残念そうな物言いに、手元の診断書から顔を上げると、
「お前さんは、人の話を受け流すくらいがちょうどいいだろう。
白石が誰かの話に真剣に耳を傾けるときは、何か良くないことが起こる前兆だ。
・・っちゅうのは篠原の人間の総意らしい」
などとのたまう。
「私はいつだって真剣ですし、その説なら該当するのは私だけではないでしょう」
「まあ、確かに」
「先ほど、坊ちゃんが、それこそ真剣なお顔で兼村弁護士に連絡してましたよ」
「そうか、それはそれは・・」
よくない兆候だな、と言いながらも和久井医師は心底愉快げに笑っている。
「何ですか、気色の悪い」
「気色が悪いとは、この男前を見てよく言ったもんだな」
「男前だろうが何だろうが、気色悪いものは気色悪いです」
「お前さんは、もっと言葉を選べないもんかね」
「そうですね、坊ちゃんにもよく言われます」
「そうか」
「はい」
和久井医師とは幼少期からの顔見知りで、気を遣う間柄でもない為、ついいつもの調子で毒を吐いてしまう。しかし、本来なら敬って称えられてもおかしくないほどの名医なのだ。
専門が何なのかは知らされていないが、旦那様が患っているのが肝臓だということを考えれば、おのずとそちらの方面の医師だということは推察できる。
医学会ではその名を知らない人間はいないと言わしめるほどの人物だが、そろそろ還暦かという頃にあっさりと第一線から身を引いた。つい2、3年前のことだ。
生涯現役、とも言える医者にしては珍しいことだと思う。
そんな医者がなぜこんなところでくすぶっているのかは分からないし、何があったのか知らないが、不始末を起こしたわけではないようだ。
現に、いまだにあちらこちらから戦線復帰を願う声が届いているし、開業するなら資金を提供しようという人間も少なくない。主に、この屋敷の主人だが。
しかし、和久井医師いわく、今は余生を楽しんでいる状況なのだという。
「しかし、坊だけでなく、どうやら光成も関わっていようとは運命とは不思議なもんだな」
「医者が、運命なんてものを語るんですか?」
「おいおい、医者を何だと思ってるんだ」
「現実主義かと」
「まあ、あながち間違いではないわな」
――――――――コンコン
そのとき、応接室の重厚な扉が品の良い音をたてて来訪者を告げた。
「どうぞ」
さっと応接台の上の書類を避けると、扉の向こうから、この屋敷に住み込んでいる若い衆が顔を出した。
いかつい顔にしては控えめな仕草だ。
「杏はどうしました?」
するりと中に入って扉を閉めた男に問うと、やや困り顔で、
「光成様がいらしゃって、自分が代わるからと・・」
と視線を下げた。
自信がないからそうしているのではなく、あくまでも敬意を払っているからこその仕草だ。
許しを得るまで、むやみにこちらに視線を向けたりはしない。
この男は、元来、そういう人物なのだ。
成人を迎えたばかりだというのに、老成しているかのような態度が篠原の人間に気に入られている。
「光成は今日学校だろう」
口を挟んできたのはもちろん和久井医師だ。
「光成様はお嬢様が運ばれてきてから学校を休んでおいでです」
「は?」
それにはさすがに和久井医師も開いた口が塞がらなかったようだ。
「運ばれてきてからって・・、既に1週間経過しているが?」
「ま、そういうことです」
報告する為だけに部屋を訪れたのか、扉の前で立ちっぱなしでいる男、橋本にもっと近くへ来るように促すと応接台の脇で、すっと膝をついた。
まるで従者のような格好だ。
椅子に座るように言ってもこの男は聞かないのであえてそのままにする。
和久井医師もそれを知っているのか何も言わなかった。
「坊だけでなく、光成も入れあげとるっちゅうわけか」
「入れあげているわけではないと思いますが」
ちら、とこちらに視線を投げてきた和久井医師に答える。
「そうでないなら何なんだ」
「・・何でしょう?」
「おい」
「まあ、あれですよ。愛だの恋だの、そんな単純なものではなさそうだってことですね」
「その言いぶりだと、お前さんも、坊や光成に理解を示しているようだな」
和久井医師には答えずに「ふふ」と笑って見せれば、なぜか橋本がこちらを見据える。
「何でしょう?」
首を傾ぐと、「い、いえ」と言いながら、それでも誤魔化すことをよしとしなかったのか、覚悟を決めたかのようにぐっと顎を引いた。
「珍しいな、と思いまして」
「珍しい?」
「はい。白石さんが、そんな顔をされるのは・・」
「そんな顔?」
はて、とますます首を傾げながら自分の顔を触っていると、
「何だ、自分では気づいていないのか」
橋本の言葉を補足するように和久井医師が眉を上げて言った。
「篠原の人間が、いや、篠原だけじゃないな。お前も含めて、篠原に関わる人間が誰か一人に心を砕くのは非常に珍しいことだろう。しかも縁もゆかりも無い赤の他人だ。それが、部屋まで与えて無償で面倒みておる」
これは異常事態だな、と、和久井医師はやはり楽しそうな顔でからからと笑った。
「何で貴方はそんなに楽しそうなんですか」
「ワシはなぁ、これでも心配しとるんだよ」
「何をですか」
「お前さんも、坊も、光成も、まあ加えて三波もだが、色々厄介なもんを抱えとる」
「それは、否定しませんが」
「だろう。お前さんらに、まっとうに生きろなんて偉そうなことは言えんが、それでも、人並みの幸福を得て欲しいとは思っとるよ」
橋本が珍しく顔を上げて、和久井医師の話に耳を傾けている。
孝仁や光成の付き人みたいなことをやっているので他人事ではないのだろう。
「人並みの幸福とは、一体、どういうものでしょう」
「なるほど、そこからくるか」
うんうん、と一人で肯きながら、ふいと応接台の上の資料に視線を走らせる。
「少なくとも、あれでは、『人並みの幸福』を得ていたとは言えんな」
苦いものでも噛み砕いたかのような顔をして眉を潜めている。
「だが、不幸なんて言葉で片付けられるものでもない」
「・・・」
「不幸っちゅうもんは、人の手ではどうにもならない事態に直面したときのことを言うのだとワシは思う。不治の病や天災はそれの一つだな。だが、あれは違うだろう」
すっかり冷え切った湯のみをずずっと飲み干して、和久井医師は静かな声で言った。
「助けられる機会も、助けられる人間も、助けられる時間もあったはず」
――――――だが、誰も助けなかった。
誰も、手を差し伸べなかった。
「そんなのは不幸とは言わん」
和久井の真っ黒な双眸がこちらを見つめている。
彼の言わんとしていることはよく分かった。
「ワシはこんなに胸糞悪い思いをしたことがない」
「ええ、そうですね」
肯くと、和久井医師はにやりと笑った。
「なあ白石よ。人というのは、与えられて初めて知るんだぞ」
「何を、ですか」
「人並みの幸福っちゅうやつさ」
お前さんも、坊も、光成も、まあ三波も、皆、あの子を通して知ることになるだろうなぁ。
和久井医師はどこか遠い目をして言った。
「ときに橋本よ」
「はい何でしょうか」
「お前さんは、あの子をどう思ったんだ?」
いまだに膝を付いている橋本が僅かに眉間を寄せる。
「どう、とは?」
本気で質問の意味が分からないようだ。
「なに、単なる感想で良いわい。どう思ったか聞かせてみんか」
「はあ・・」
少しきょとんとした顔は、どこか年相応に思わせる幼さを残す。
こういう表情は珍しい。いつだって、隙の無い顔をしているからだ。
たっぷりと間を置いてから、橋本は、ごく真剣な顔で言った。
「可愛いですね」
持っていた湯のみを落としそうになった。
なぜそんな分かりきったことを聞いてくるのだ、と言わんばかりの橋本に、孝仁と同じ種類の癖を感じる。
「なるほどなるほど、重畳重畳」
何が重畳なのか分からない。
だが、これだけは言える。
―――――――私だって、あの子のことを可愛いと思っている。




