第69話 デボラの覚悟とリオルドの甘い毒
彼はデボラに気づかれないように、そっと眉根を寄せて思う。
(これは、所謂『刷り込み』というものだろう。彼女は私に恋をしているのだと錯覚しているに違いない)
今まで彼女に愛を与えた人はいなかったのだ。かつての婚約者アーロン王子でさえもそうだったとデボラから聞いている。だから、あくまでも恋人や妻としてではなく家族としての愛情を与えたゲイリーに対して安らぎと幸福を感じ、それを恋だと誤解しているのだ……と彼は分析している。だが彼女に正論を説いていいのだろうかとも思う。彼はこれ以上デボラを傷つけたくないのだから。
「デボラ」
部屋の外に誰かの耳があることを警戒し、ゲイリーはあえて彼女を呼び捨てにする。同じベッドの中で二人は少し距離を離して寝ていたが、彼女がぴくりと反応したのが伝わってきた。彼は声を潜めながらも、デボラだけには聞こえるようにはっきりと言った。
「私は最初に言った通り、マギーを愛している。これまでも、これからも」
仰向けに寝ていた彼女が身じろぎをする。ゲイリーは横を向いた。薄闇の中、こちらを見てくるデボラの目に、きらりと光るものを見て彼の胸も痛む。だが振り切るような気持ちで続けた。
「だから君を愛することはできない……マギーと同じようには。だが君の事は家族として」
この先の言葉を言う時だけ彼は声を強めた。外に聞かせるためもあるが、何よりもこの言葉を彼女に疑ってほしくないという思いで。
「愛している。君を幸せにしたい」
光っていた彼女の大きな目が一層、大きく見開かれる。彼は自分の気持ちが彼女に通じたことに安堵し、また声を潜めた。
「……本当だ。君は私にとって年の離れた妹のように大事な存在だと思っている」
「……」
ほんの数瞬ではあったが、その間のデボラの沈黙がゲイリーは辛かった。彼女を傷つけたくなかったが、やはり悲しんだだろうかと思う。
と、シュ、と衣擦れの音がすると同時に彼の胸にやわらかい重みが載る。鼻先には深紅の髪から立ちのぼる甘い香りが漂った。デボラが彼に抱き着いたのだ。
「デ……」
「今はそれで構いません。私は前の奥様を愛している旦那様を好きになったんですもの」
彼の胸に顔を押し付け、小さくくぐもった声で彼女が言葉を紡ぐ。
「でも、貴方様が私を愛してくださるのなら、幸せを願ってくださるのなら。私は妹の立場では満足しませんわ。もっと幸せになるために、いつか二番目の妻になりますから」
その言葉に、今度は彼が目を見張る番だった。伏せていた顔を上げ、真っ直ぐに見つめてくる灰色の目にはもう涙は見えない。デボラは囁きながらも強い意志を込めて言った。
「これからは旦那様、覚悟してくださいませね?」
ゲイリーはその目に、その言葉に射抜かれるような感覚を覚え、焦った。
そうだった。虚勢を張っていた陰で、実は弱く脆い、純粋な愛に飢えた少女のような部分を持ち合わせていたデボラ。その脆い部分を彼に対してさらけ出してくれた彼女を、いつの間にか弱くて守るべき存在だと思い込んでいた。
……が、ちょっとやそっとでは見抜けないほどの完璧な虚勢を張れるぐらい、元々デボラは頭も切れるし意思も強い女性だったのだ。
(これは……リオルド殿下に彼女の新たな嫁入り先を検討してもらうよう、早めに相談せねば。ああ、でも彼女を本当に愛して幸せにしてくれるような男でないと……)
ベッドの中で触れ合う身体の熱を感じながら、ゲイリーは困り果てた。
◆◇◆
リオルドの計画は見事に成功した。
デボラの存在について「隣国で愛されながらも祖国を忘れぬ慈愛の心を持つ聖女。これぞ二国間の和平の印」という立ち位置を確立したのもそうだが、一方では敵国内にじわじわと時間をかけて効く、甘い毒を撒き散らしたのだ。
勿論、毒というのは比喩で支援物資の小麦に毒物など混ぜてはいない。その小麦が北方のマムート王国では栽培できないような、冷害に弱いがとびきり甘味のある小麦だというだけだった。
凶作に対する支援物資なのだから、その小麦は当然多くの国民に分配され口に入る。皆、その小麦で作ったパンの美味さに感動した。だがすぐに味の違いに気づく者は少ない。飢えている中で口にしたものは特別美味く感じるからだ。
気づくのは翌年。凶作から脱し、自国で獲れた小麦を口にして「不味い」と感じた時である。
平民たちの中には「今年の麦の出来が悪かったのだろう」と考える者もいたし、もしも小麦の種類が違うと気づいたとしても我慢するしかない。前年のパンの味を思い出しては「また食べたいな」と思いながら普通のパンを食べるだけだ。
だが貴族や富裕層は小麦の違いに気づく。そして一度覚えた贅沢を簡単には忘れられない。何とかしてフォルクス王国から小麦を手に入れようと考える。貴族相手の商人はこれぞ儲け話だと躍起になって販路を開拓しようとした。
しかし、これに待ったをかけたのがマウジー公爵である。
マムート王国内でも南方に位置し、広大な領地で農作を行い、国内の小麦のシェアを大きく占めている立場から、自分たちに不利になる状況を受け入れるわけがない。
自身の領地が隣国との国境に接しているため、もしもフォルクスと交易をする商人がいるのならばマウジー公爵領内の街道を通ることになる。公爵はフォルクスから小麦を仕入れた商人に莫大な通行税をかけることにした。
これが大失敗だったのである。
通行税のため非常に高額になった小麦でも、欲しいものは欲しい。むしろ価値があると考え、それを食べることにステータスさえ感じる。王都を中心にフォルクス王国産の小麦を求める人物は増えていき、販路が潰されることはなかった。
それに比例するように通行税をかけたマウジー公爵に不満を覚える者も増え、こっそりと陰口を叩く。その陰口を聞いた平民の中には、小麦の種類が違う事をそこで初めて知る者もいて、噂はどんどんと国内に拡がっていく。
遂には彼の領地で生産される小麦を「心の貧しい者の麦だ」といって買わない選択をする者まで出始める。
やがて、マウジー公爵領の麦は安価でしか取引されなくなったところで更なる追い打ちがかけられた。
フォルクス王国は、マムート王国の隣に位置し、今まで両国とバランスを取りながら緊張関係だったクレスタ帝国と和平条約を結んだのだ。その条約の調印式にはフォルクス国内の貴族が集まり、聖女と名高い噂のデボラ・シスレー侯爵夫人も参加したそうである。クレスタの皇帝は彼女の受け答えの早さや気の利いた会話を気に入り、彼女の出身国であるマムートとの和平も期限付きで検討する。更には早々にフォルクスとの交易を始めた。
つまりこれは、今までマウジー公爵領を通って高い税を支払うことでしか手に入らなかったフォルクス産の小麦が、クレスタを経由すれば手に入るようになった事を意味する。
マウジー公爵領産の小麦は更に暴落し、本当に「貧民のための麦」となった。そして通行税の税収もぐっと減る。公爵家の財政はやや傾いた。故に、領地や街道の整備なども十分にはできなくなる。領民たちは一人、また一人と公爵領に見切りをつけて新天地を求め旅立っていく。その中には聖女デボラを頼ってフォルクスの国民になりたいと言う者までいたくらいだ。
傾いた天秤は、そのまま一気に傾き地に落ちた。
力の弱った公爵家を引きずり落とし、ハイエナのように食い尽くそうとライバルたちが襲い掛かる。だがマウジー公爵家はぎりぎりで凋落しなかった。
何故か。切り札を持っていたからである。デボラとアーロン王子の真実を握っているかぎり、王家は公爵家を切り捨てられない。デボラが和平の印の聖女と讃えられる今なら尚更だ。
かつては冷遇していた筈のマウジー公爵をやたらと贔屓する国王に、不信感を抱く者が現れるのは時間の問題だった。国王と公爵に段々と不満が向けられていく。貴族階級では国王派と王弟派で真っ二つに分かれ、国王に退陣を求める声が強くなった。
そうして国内で争いを続ける何年かの間に、国力はじわじわと下がる。マウジー公爵領はもっと酷く下がっている。ついに国王に裏で金の無心をするほどに困窮し始めた。
王弟派が強硬手段に出て、王冠がそれまでの王弟の頭上に移ると、新国王は王家の実態を知って驚愕した。今まで国王は勿論、宰相や将軍までもが手を組み皆で隠蔽をしていたのだが、既に王家も公爵家も資金を大きく失っていたのだ。
このままではじきに国防軍を維持できなくなる。王家が持つ鉄鉱山を長年ひそかに狙っていたクレスタの皇帝が、仮初の和平条約を破り、いつ攻め込んでくるかわからない。
今まで見栄や面子に拘り過ぎたあまりに愚かな真似をした兄王とは違い、周りに担ぎ上げられただけでそれほど王位に執着していなかった新国王。
「これではまるで張り子の玉座だな」
そう皮肉り、ここに座ることは馬鹿馬鹿しいと即座に判断してフォルクスへ協力を願い出た。
協力と言うのは建前だ。フォルクス王国もタダで協力するほど甘くない。実質、クレスタの脅威から守ってもらうための属国化である。
フォルクスは一応、新マムート王の顔は立て王位は剝奪しなかった。が、マウジー公爵は王家の資金を横領した罪で爵位と領地を取り上げられ、一族ともども処刑または幽閉される。隠蔽に加担した宰相と将軍もそれに準じた処罰を受けた。
その後、元マウジー公爵領はフォルクスにもマムートにも完全には属さず、独立してシャード大公国と名付けられ、新たな道を歩み始める。
今、その地を治めるのは大公を名乗るリオルドであり、マムートと表向きは大変友好的にしながら、常に彼の国の動向に目を光らせる役目を担っている。












