第66話 聖女の噂を利用する?
「とにかく、殿下は君に対して悪いようにはしないはずだ。だが万が一何か言われても私たちは絶対に君を守る。安心して欲しい」
侯爵の言葉に合わせ、ローレン夫人がそっとデボラの肩に手を置いた。アシュレイも彼女に向かって頷く。その目には以前のような猜疑心はもう浮かんでいなかった。
デボラは今まで固く両手を組み合わせていたが、それを緩ませホッと小さく息を吐いた。
心からの安堵を、居場所を初めて手に入れたのだ。それがどれだけ彼女にとってかけがえのない物か。
「……ありがとうございます」
また涙がじわりと湧きそうになるのをこらえ、彼女は三人に礼を言った。
◆
ローレン夫人は湯冷ましを用意するかたわらで、シェリーや他のメイドたちに湯浴みの準備をするよう指示をしていたらしい。デボラが部屋に戻るとすぐにでも湯浴みができるように全てが整えられていた。
「シェリー、今夜はもう大丈夫です。後は私がやりますので」
夫人はそう言って他のメイドたちを下がらせた。デボラの泣き腫らした顔を見せないように、との配慮だったのかもしれない。
そこからはたった一人でデボラに付き添い、全ての世話をした。深紅の髪を丁寧に洗いながら、ローレン夫人は低く落ち着いた声で囁く。
「デボラ様、少しお話をしてもよろしいでしょうか」
「何かしら?」
「デボラ様が重要な秘密を教えて下さいましたので、私の秘密もお教えしないとフェアではないと思いまして」
「そんな事はないわ!」
デボラが慌ててメイド長を見る。チャプンと小さく跳ねた水滴の向こうには初めて見る光景があった。いつもの能面のようなローラ・ローレンの表情が少し柔らかくなっている。
「そうでしょうか? デボラ様は庭師にも秘密を話してはいけないと言いながら、私にその約束をさせたことを心苦しく思っていらっしゃるのでは?」
「それは……」
図星をつかれて言い淀むデボラに、夫人は優しくもきっぱりと言った。
「それを気になさる必要はありません。私は今の夫と出会う前に、他の男性と結婚し、離縁された過去があるのです」
「え?」
「その時の子供は……娘は、死産でした。生きていればデボラ様と同じ年齢でした」
「……!」
デボラの灰色の目が大きく見開かれ、まばたきもせず夫人を見つめる。メイド長の薄い微笑みに、更に薄い寂しさが影を落とした。
「夫は、死産や離縁のことは知っています。けれど子供の性別や年齢は知りません。私はずっと前から夫に秘密を作っているのですよ」
それきり、ローレン夫人は口を閉じて作業に戻ってしまった。デボラの長い髪を丁寧に、丹念に洗っている。まるで我が子のそれを扱うように。
その扱いを嬉しくも切なくも感じながら、デボラはなんと返せばよいのか少し迷い、そしてシンプルな言葉に帰結した。
「……話してくれてありがとう」
「はい」
そんな簡素なやり取りでも、二人の心は通じあい、気持ちはきちんと伝わっている……彼女にはそう思える。
優しい静寂の中で、時折小さな水音だけが響いていた。
◆◇◆
秘密は守られたまま、数日が過ぎた。その間に四人は様々な話し合いを行った。
まず侯爵は彼女の身の置き場について考えを明らかにする。
「君を別の場所に匿うことも考えたが、逆に守りが手薄になる恐れもある。それならば怪しい人物が屋敷の近くに現れない限りは現状維持で良いと思う」
「はい」
デボラは頷く。何よりも彼女自身がこの屋敷を離れたくないと思っているのだ。心から願っていた温かい居場所を簡単には手放したくない。
「この家に君がいる限り、隣国に手出しはさせないつもりだ。今後は手紙がきても全てこちらで目を通し、返信を考えよう。筆跡だけはごまかしが利かないから、君は私が考えた文面をそのまま書いてもらう。いいかな?」
この提案に彼女は安堵した。手紙の内容を一切知らなければ、隠されたメッセージに怯えることもないだろう。
……しかしこの提案は結果的に一部変更を余儀なくされた。
デボラの告白から一週間後、リオルド王子の侍従と名乗る二人組の男性がシスレー邸を訪問してきたのだ。
「シスレー侯爵ならびに侯爵夫人へ、リオルド殿下直々のお言葉を伝えに参った。他の人間の耳目が無いところでお話したい」
いくら王家の遣いと言えど先触れもなく来ておいて、理由も告げずに人払いをしろと一方的な物言い。これを聞いた使用人の中には眉を少しひそめる者もいた。だが侯爵はにこやかに二人を談話室に招き入れ、執事長だけは同席を許して欲しいと要求する。その願いは受け入れられた。
扉が閉められ、部屋の中には王子の侍従たち、侯爵、デボラとアシュレイだけになるとシスレー侯爵が椅子に座る前に頭を下げる。
「わざわざのご足労、申し訳ありません。こちらから出向くつもりでおったのですが……」
二人のうち、ひとりが声色も口調もガラリと変わった。
「よい。侯がわざわざ内密に話をしたいと言うなら、先日の無能な従兄弟の件よりも重要な話なのであろう?」
目深にかぶった帽子と外套の襟で隠していた顔を露にすると、美しい顔立ちを台無しにする皮肉げな笑みが現れる。侍従に扮していたリオルド王子は椅子に腰掛け足を組む。
「さっさと要件を言え」
第二王子がニヤニヤと楽しそうだったのはそこまでだ。
シスレー侯爵とデボラの話を聞くとすぐに神妙な顔つきになった。
ははは、と声に出してはいるが声音も目も笑っていない。
「笑えない冗談だな。これが本当というのなら……奥方、いや、デボラ嬢」
「はい」
「今後祖国とのかかわりは全て断ってもらう。たとえマムート王国やマウジー公爵家が滅亡したとしても一言の抗議も許されない。この約束に反するなら今聞いた話は全て噓とみなすが。いいな?」
祖国とのかかわりを断てと言われるのは既に織り込み済みだったが、リオルドの言葉の一部だけはデボラは簡単に呑むことができなかった。
「滅亡ですか? 国や公爵家はともかく、罪のない国民までもが巻き込まれるのは避けていただきたいのですが」
「……ふん、そうきたか。まあお前を聖女だとまつりあげ、不作を都合よくこじつけるような民を罪がないと言い切れるかは微妙だがな」
「……」
デボラは先日、シスレー侯爵とアシュレイから祖国で自分にどんなイメージが植え付けられているかを聞いている。小麦の不作を「聖女デボラが隣国に奪われたため」と言い出す勢力があると聞いて頭が痛くなったのは事実だ。だからリオルドの言うことももっともだと思う。
「失礼致しました。殿下のお心のままに」
「うむ。では早速だが、手紙の準備をしろ」
「?」
リオルドの提案に疑問の表情を浮かべた侯爵とデボラの横で、アシュレイが素早く部屋を出ていく。すぐに便箋とインクを手に戻ってきた。
第二王子の顔に再びニヤニヤ笑いが復活する。
「シスレー候、先ほどの手紙の文面を奥方に代わって考えるというアイデアはなかなか良い。俺が文面を考えてやろう」
「!」
「そうだな……せっかくだから愚かな王家と愚かな一部の民が考え出した聖女の噂を利用させて貰おうか」












