第65話 彼女は全てを告白した。ひとつを除いて。
シスレー侯爵の温かい腕の中でデボラは涙を止めることができなかった。彼が背中をさすってくれる度に様々な感情が込み上げてくる。
彼に頼っても良いのだという心からの安らぎ。そしてそれをすぐに打ち消すように、でもこの人を今まで騙していたのに……という後悔。
更に、本当のことを言えばどうなるだろうかという不安。
でもやはり、侯爵のことが好きだから、ずっとそばにいたいという恋心。
……けれど、この人は前の妻だけを愛しているということに、じわりと傷つく切なさ。
それらが彼女の中で浮かんでは消え、また浮かぶ。時にはぐちゃぐちゃに混ざり合う。とても冷静ではいられなかった。
「ひっく」
デボラは泣きに泣き続け、遂にしゃくりあげるまでになってしまったのだ。
それで彼が「大丈夫か」と心配してデボラの頬を包み優しく見つめるものだから。彼女はその頬がますます火照るのを感じながら、侯爵に自分の気持ちを気づかれないかとハラハラドキドキすることになる。
「だ、大丈夫で……ひっく!」
「大丈夫じゃないだろう。ミセスローレン!」
ドアに向けてシスレー侯爵が大声を出すと、そのドアがサッと開けられてローレン夫人が入ってきた。彼女の動きは床をすべるが如くなめらかだったが、部屋の様子を一見した途端に錆び付いたかのようにゴチリと固まる。
まあ、二人がほぼ抱き合う形になっている上、デボラは子供のように泣いて「ひゃっく」としゃっくりを止められない状況だったのだから無理もない。
「……水を用意して参ります」
そう言った夫人は錆びが取れ、再びなめらかな動きでターンをしてドアの向こうに消えた。また執務室は二人きりになる。
「デボラ嬢。今日、あの手紙に隠されたメッセージがあったのだろう? 何があったのか教えて欲しい」
「……ひっく」
デボラはうつむく。暫しの間躊躇っていたが、やがて震える左手を差し出した。そこには紅玉の指輪が嵌められている。
「?」
純粋に不思議そうにしていた侯爵だが次の瞬間、ぐっと眉間を狭める。彼女が指輪の仕掛けを外し、中の黒い丸薬を見せたからだ。
「……これは、毒です」
彼は指輪の中身を見た時にそれがどんなものか予想がついていた。だが続く彼女の言葉は予想外だった。
「兄は……私に自害しろと」
「!?」
普段は温厚さしか見せない侯爵が、思わず厳しい表情で勢いよく立ち上がった。……が。
「ひっく」
間抜けなしゃっくりが、場に張り詰めた空気をぷしゅっと抜く穴の役割を果たした。それでゲイリー・シスレーの緊張感も全てほどけ消えてしまったのだ。
「……」
彼は無言でもう一度ゆっくりとデボラの横に座り直し、彼女の背中をさする。
「そうか。辛かったな。よく話してくれた」
「……ひっ」
「この事をミセスローレンやアシュレイにも話してもいいだろうか」
デボラはうつむいたまま、小さく首を横に振った。シスレー侯爵は優しい目で彼女を見つめ、説得する。
「君がどうしても嫌だというなら私一人の胸の中に納めておこう。だが、今日手紙を読んでいる間、君が動揺したことに一番最初に気づいたのはミセスローレンだった。あれで実は、とても君のことを気にかけているんだよ」
「!」
デボラが顔をあげる。驚きのあまり丸くなった灰色の目は涙で煌めいていた。 彼はその涙をハンカチで丁寧に拭いながら話を続ける。
「勿論私やアシュレイだって君を心配していた。だから君が話があると言ってきた時、私は嬉しかったんだよ」
「?……ひっく」
「デボラ嬢が抱えている悩みを少しでも吐き出せる相手になれるのなら、それは私にとっては喜ばしいことだからね。……まあ、まさか子どもが欲しいといわれるとは思わなかったが」
彼は薄く笑った。そこには一抹の寂しさが浮かんでいた。
「君の事情が辛いもので、だからあんなことを言い出したのだと理解はできる。けれど何もかも全てを一人で背負わないで欲しい。私たちにも君の悩みや苦しみを分け与えてくれないか? 皆で対応を考えていこう」
デボラの灰色の目から新たな涙が溢れ出る。声を震わせながら、なんとか応えた。
「……はい」
ちょうどそのタイミングで湯冷ましを手にローレン夫人が戻って来たので、デボラは暫く湯冷ましを飲みながら落ち着きを取り戻し、しゃっくりも止めることができた。そしてシスレー侯爵、アシュレイ、ローレン夫人の三人を前にしてお願いをする。
「これからする話は、誰にも言わないで欲しいのです」
「……つまり、庭師やスワロウにも、だな?」
そう言った侯爵の口調は咎めるのではなく彼女の発言をフォローするためと、執事とメイド長に念を押すためのものだった。二人は静かに、けれど重々しく頷く。
デボラはそれを見て覚悟を決めた。
「……はい。あの方々も秘密を守ってくださるとは思いますが、それでも万が一話が外に漏れれば恐ろしいことになりかねないので……」
口を開くとそれが震えているのがデボラ自身でもわかる。けれども真実を話す障害にはならなかった。この人たちなら本当のことを知っても、きっとデボラに怒りをぶつけたり追い出したりはしないと心から信じることが出来たから。
「私に人質の価値はありません。あの国に居ては都合が悪いからと、追放されたのです」
そして彼女は全てを告白した。
……正確には、ひとつだけ話していない。つい先程、シスレー侯爵に夫婦の営みを求めたなどとは言えなかったのだ。
はしたない話だからでもあるが、自分の気持ちを自覚した今では、その提案に浅ましい気持ちが混ざっていたような気もして消え入りたくなる恥ずかしさだったから。
勿論侯爵もその事には触れず、彼女の話にじっと耳を傾けていた。デボラが兄からの手紙の中に自害するよう指示があった旨を説明し終え、口を閉じたところで彼は椅子に軽く背を預けふーっと息を吐く。
「そうか……なるほどな」
「今まで秘密にしていたこと、お詫び致します」
「いいや、それは仕方のないことだ。寧ろ今まで良く頑張った……だが、すまない」
「?」
「先程の口外しない約束だが、流石にリオルド殿下には事情をお伝えしなければならないと思う」
「……あ、それは確かに。でも大丈夫でしょうか」
「そこは心配しなくていい。殿下はむやみに話を広めたりはしないだろう……まあ、この事を知ったら大変お怒りにはなるかもしれないが……」
「お怒りに?」
顔を曇らせたデボラを安心させるように、シスレー侯爵は微笑んだ。
「ああ、デボラ嬢に対してではないよ。こんな仕打ちをした君の国や家族に対してだね。もしかすると……いや、十中八九、君に祖国と完全に縁を切るようにと仰ると思う。それでも構わないだろうか?」
「それは、構いませんが……?」
デボラとしては既に祖国や家族からは捨てられた扱いなのだから、縁は元から切れている。だからわざわざ断りを入れられたのは少々意外だった。
シスレー侯爵の心中を知れば、何故こんなことを言われたのかは明白だったのだが。
侯爵は軽く目を閉じた。真っ暗な中で第二王子が皮肉げに口の端を上げ、端正な顔立ちを台無しにする表情が浮かぶ。きっと真実を知ればこう言うだろうと想像がついた。
「ははは。笑えない冗談だな。我が国を虚仮にした代償は非常に高くつくと、奴らはその身をもって知ることになるぞ。徹底的に潰してやろう」












