第64話 ずっと自分が欲しかったもの
シスレー侯爵の執務室を訪れる前、デボラは北の窓辺に立ち、マグダラに懺悔をしていた。
当然だが、言葉には出さずそっと両手を組んで目を閉じ、心の中で語ったのだ。
(ごめんなさい。私はこれから酷いことをします。だけどこれが一番、侯爵様やこの家の人たちを傷つけない方法だと思うのです。お許しください……)
◆
小説の端に載っていた『愛』の文字によって、彼女はこの家に来た初日のことを思い出した。ゲイリー・シスレー侯爵が最初に口にした「君を愛することはない」の言葉。それに対して「愛は無くとも子を成す夫婦はいる」と応えた自分の言葉。
それでこのアイデアを思いついたのだった。彼女は固い表情のまま、立場上の夫に告げる。
「以前、この家の後継者はいないと仰っていらしたでしょう? それならば、子供ができるのは侯爵様にとっても悪い話ではありません」
自分が侯爵の子供を身籠れば、祖国の誰も彼女を強引に取り戻せとは言わないはずだ。妊娠中に無理をすれば母子ともに命が危うくなるし、子供が生まれた後に母子を引き離そうとするのも外聞が悪い。
それに自分の孫がシスレー侯爵家の後継となるならば、父はデボラを殺すよりもそちらを利用する方に傾く可能性が高い。
勿論そんな事をさせるつもりは絶対に無いが。
「生まれた子供の教育は侯爵様にお任せします。私や祖国の意図は一切考えに入れなくて結構です。たとえ、私の父が何を言って来ようとも」
「デボラ嬢、だが君は……」
言いかけた侯爵の言葉を三度遮る。今日の午後、侯爵が何を言っても即座に返せるようありとあらゆる言葉をずっと考えていたのだから。
「私を、侯爵家のため、そして和平のための道具としてどうぞお使いください」
「……!」
シスレー侯爵は一旦口を開いたが、結局声を発さず閉じた。今は何を言ってもデボラに言い返されてしまうと思ったのかもしれない。
そして腰掛けていた椅子から立ち上がり、デボラの横に並んで座る。彼女の背中に手を回して軽く抱き寄せるような格好になった。
「!」
デボラは目をぎゅっとつぶり、身を固くした。侯爵の香りを鼻先に感じ、心臓がどきどきと早鐘を打つ。その点には自覚があったが、身体は細かく震え、それにつれて美しい赤い髪が小刻みに揺れている事には気づいていなかった。
「ふっ、くく」
彼女のすぐ頭上から侯爵の息が洩れる。デボラが思わず目を開くと、目の前の侯爵の胸が笑い声に合わせ上下していた。
「くくく……まったく君という人は……今度は何を言い出すかと思ったら」
笑い出したゲイリー・シスレー侯爵は、空いている方の手をデボラの頭にやり、大事なものを扱うように優しく撫でた。
「そんなにガッチリと服を着こんで、顔色も青いし身体もガチガチに緊張させて。本心では望んでいないのに無理をしているのが明らかじゃないか」
「無理なんてしていませんわ!」
「そうかな。お父上か兄上に、私を籠絡しろと命令されたとしか思えないが?」
「! ち、違います。寧ろ逆です! これは私の意思で……」
「寧ろ?」
「あっ!」
デボラは思わず口を押さえた。その下の顎に手がかかる。侯爵はデボラを抱き寄せたまま、彼女の顔を上げさせて目を合わせた。スカイブルーの美しい瞳に覗き込まれてデボラの頬や耳に熱が溜まっていく。
「逆とはどういう意味だい? あの手紙は文面そのままの意味で、君は祖国に帰るよう指示をされたのか? 私にはそうは思えなかったのだが」
「あの、あ……」
デボラは顔を真っ赤にしたまま、曖昧な言葉しか言えない。そして今の状況に、自分自身に困惑し、余計に言葉を出せなくなった。いつもなら冷静に最適な対応ができるはずなのに。そうできるよう色々と考えて執務室に来たのに。心臓がうるさく、身体の中を巡る血が熱い。何もかも自分の思い通りにならない。
それは、吸い込まれるような空の青さにも似た彼の瞳のせいだろうか。それとも顎にかけていた手をまたデボラの頭にやり、彼がまた優しく頬や頭を撫でてくれるせいだろうか。
(あ……)
その瞬間、デボラは気がついてしまった。それはずっと自分が欲しかったものだったと。今まではゲイリー・シスレー侯爵に理想の父親や兄の姿を見ているのかと思っていた。しかしそうではない。
多分、彼に恋をしているのだと。
瞬間、彼女はもう一度目をぎゅっとつぶり、両の手に力を込めて彼の胸を押し、身体を引き離した。侯爵は目を丸くしたが、すぐに困ったように微笑む。彼の目尻に皺が寄った。
「ほら、やっぱり無理をしていたんじゃないか」
「違います!」
「デボラ嬢、君には本心を言って欲しいと言ったはずだよ? 私のようなおじさんが相手では嫌に決まっている」
「違いますったら!」
デボラは俯いたまま子供のようにかぶりを振った。そしてぽつりとつぶやく。
「……違うの……」
彼女の声の調子が明らかに変わっている。今までの固く冷たいものから、温かい血の通った感情のある人間のものに。
「私に優しく……しないでください」
「何故?」
「わ、私はそんな事をして貰うほど価値のある人間ではないからです」
「ふうん? それは違うな」
シスレー侯爵は再びデボラの頭にポンポンと手をやる。
「少なくとも私にとってはデボラ嬢はとても価値のある人間だよ。君が人質かどうかは関係なく、ね。だから君が辛そうなら優しくしたいと思ってしまうさ」
「……うっ」
彼女が両手に顔を埋める。侯爵はもう一度デボラを抱きしめ、背中を撫でた。
「この間も君は思い詰めてこの家を出ようとしたが、今回も誰にも相談せず、一人だけで何か考えてのことだろう? 危なっかしくて心配になってしまうよ」
「う……うぅ……」
腕の中で震え、嗚咽を漏らすデボラを痛ましく、そしてできるだけ労って甘やかしてやりたい、と思いながら侯爵は心の中だけで付け加えた。
(……そういうところは、君はマギーにとても似ているな)












